水晶魔女 1

 夕風に紛れて、微かに樹液の匂いがする。

「兄弟、また誰かがひん剥かれたんだね。可哀想に」

 オーレグは幹を撫でながらつぶやいた。


 広大なガートルードの屋敷の敷地には楡の木が多い。鱗のように剥がれやすくコルク質を持つにれの樹皮は、昔から胃腸薬や炎症止めの薬にされてきた。秋になると、魔女たちによる薬作りが始まる。樹皮を剥がれた木は老い始め、やがてフクロウや木宿り妖精の棲みかとなる。さらに老いれば自然に倒れるもの、切り倒されるもの、それぞれに役目を終えて命を終える。そして切り株からはすぐにヒコ生えの芽が伸びるものだ。

 魔女の庭で昔から繰り返される、静かなる循環。それはオーレグにはどうしようもないことだと分かっている。けれど今は、思い切り伯母やトーニャの悪口を言いたい気分だった。


「魔女なんて連中は冷血でさ、偉そうでさ、ほんっと最悪だよ。そう思うだろ?」

 木は答えず、風に任せて葉擦れの音を立てるばかり。玄関側には古くて立派な巨木もあるが、オーレグが気に入っているのは、この小さな楡のほうだ。春先には小さな花が葉に先駆けて着き、初夏には平べったい実が雪のように舞い落ちる。そして今からの時季は葉が黄金色に輝き始めるのだ。箒の穂先を広げたような形の木は成長が早く、人間とは違う時間の中を生きているかのようだ。

 さっきのように家の中に居づらくなった時、一人になりたい時、彼はこの木によじ登り、枝にもたれて時を過ごすのが好きだ。伯母の家に帰省するのは年に一、二回だが、楡の木はいつでも静かに少年を受け入れ、不思議な匂いで落ちつかせてくれた。


「トーニャったら怒ってばっかりだ。今日は本当に夕食抜きかもね」

 もっとも、怒らせたのは自分だが。今夜はきっと、空きっ腹に薬臭いお茶を流し込む羽目になるに違いない。*狂犬シソやジーラを使って癇癪持ちによく処方される魔女の薬草茶だ。大人は平気で飲むが、オーレグはこのお茶が大嫌いだった。

 小さい頃は本当の姉弟のように仲が良かったのにな、と思いながらオーレグは庭の芝草を見つめた。まだ怒っているようなアントニーナの声が居間のほうから聞こえている。

 オーレグが成人するまでの後見人であり、名付け親でもある厳格な伯母にはとうてい口答えなんてできないが、その反動でか、アントニーナにはつい、憎まれ口を叩いてしまう。三つ年上の彼女は気が強く、言葉もきつい。喧嘩相手にはいいが、度が過ぎると手酷いお仕置きをくらうことになる。まあ、伯母に告げ口をされるよりはましだが。

 

 ふと顔を上げると、北向きの窓辺に灯が揺れている。従姉の部屋かと思ったが違った。この家の地下に棲む『決して姿を見せない魔女たち』が作り出す水晶玉の光でもない。

「あれは……」

 オーレグは枝を伝い、窓に近づいた。間違いない。昨年まで彼が使っていた部屋だ。天井は低いが小窓から入る日の光が一日中一定で、絵を描くには都合が良いから気に入っていたのに。今度は誰がこの部屋の主になったのか見てやろうという思いで、オーレグはこっそりと葉陰から顔を突き出した。


 光の、彫像。


 いや、そんなものが在るはずがない。オーレグはもう一度目をこらした。

 窓辺に置かれた蝋燭が照らし出していたのは、青白い少女の横顔だった。ボンネット帽子を外していたので最初はわからなかったが、水色に近い白銀の巻き毛には見覚えがある。さっき居間で伯母に紹介された子だ。年の頃はオーレグと同じくらいか。細い。そして白い。古風な深緑色のドレスを纏っているのに、蝋燭の光がすり抜けてしまうかと思うくらいにその姿は淡い。飴色の車椅子はオーレグが見たことのない木製のものだが、不思議に古さを感じることなく部屋の雰囲気に溶け込んでいた。


「ガリリヤ……いやガリナだっけ。ええと、なんとかバイヤン……」

「ガリーナ・エルバイヤン」

 耳のすぐ傍で声が聞こえた。驚いて振り向くと淡い水色の瞳が覗き込んでいる。

「え、ええ?」

 危うく木から転げ落ちそうになり、オーレグは慌てて枝にしがみついた。

 ふふっ、と柔らかい声が葉陰から降ってくる。両手両足でみっともなく枝にぶら下がりながら、オーレグは唖然として白い笑顔を見上げた。紛れもなく、ついさっきまで窓辺に座っていた少女だ。

「きみ、どうやって……だって、今しがた部屋にいたし、ええっと」

「ガーリャって呼んでくれていいわ」

「いや、そういう話じゃなくて」

 苦労してどうにか体勢を立て直し、オーレグは木の枝に座る少女をまじまじと見つめた。肌の色や髪の色は同じだが、さっき窓ガラス越しに見たよりもずっと存在感がある。

「なあに?」

 少女の声に我に返り、オーレグは電気に触れたように跳ね退いた。無遠慮にも、間近に顔を近づけ過ぎたことに気付いたのだ。

「ごめん、ええっと、ああそうか、『目くらまし』だ。光を利用して自分の残像を置いておく魔法だっけ」

 オーレグは窓辺の蝋燭と少女を交互に見ながらしどろもどろに言った。心臓が変な音を立てている。驚いたのも事実だが、ここまで跳ねるか、と思うほど拍動が落ち着かないのはなぜだ。

「ふふ、あなたが木に登るところが見えたから、面白そうって思ったらいつの間にかここに飛んできちゃった。こんな力を使えたのって久しぶり」

 少女は目をくるくると動かしながら楽しそうに笑った。


 なんという表情をする子だろう。邪気が無い、というのはこういうことだろうか。さっき窓辺で見た、彫刻のような横顔とはまるで別人だ。

「別に、珍しい魔法じゃないだろ。魔女なら誰だってやるさ」

 少し気分が落ち着いてくるとさっきの狼狽ぶりが恥ずかしく、オーレグはわざとぶっきらぼうに答えた。隣で少女の上体が危なっかしく揺れている。木の枝の上で安定して座るにはちょっとしたコツがいるのだが、この子にはまるでそれが分かっていない、いや身体に力が入っていないように見える。

「オーレグっていったわよね。オーリャって呼ばれてる?」

「そうだよ」

「わたし、ブラスゼムに住んでたからこういうお家ははじめてなの。オーリャはずっとここに?」

 いきなり『オーリャ』と呼びかけられて、少年は目をしばたたいた。赤ん坊の頃から呼ばれ慣れているはずの愛称だが、この子の口の端に乗った途端、妙に心が騒ぐのはなぜだ。

「え。いや、普段はソロフ師匠のところに居るし。今日だって本当なら……危ない!」

 ぐらぐらしながら、とうとう後ろざまに墜落しそうになった少女を、オーレグはすんでのところで捕まえた。緑の葉の中で逆さまになったまま、しばらくの間自分に何が起こったのか分からないといった表情で目を丸くしていた少女は、やがて笑い出した。

「笑い事じゃないだろ!」

 左手で木の幹に掴まり、右手でどうにか少女を捕まえていたオーレグは顔を歪めた。存外に重い。石を詰めた袋を手に提げているようだ。

「くそっ……ちょっとの間、じっとしてて!」

 オーレグが何事かつぶやくと少女の身体が浮き上がった。そのまま窓の高さまで上り、向きを変えて部屋の中に吸い込まれる。人形が箱に放り込まれるような動きだった。

「ガーリャ!」

 慌ててオーレグが覗き込んだ部屋では、絨毯の上に銀髪を広げた少女が再び楽しげに声を立てて笑っていた。

「ごめん、人を飛ばしたのは初めてなんだ。怪我はない?」

 窓から中に入ろうとして、オーレグは壁に当たったように顔をのけぞらせた。

「ああ、その窓はだめなの。ガートルードが『防壁』の魔法を掛けてるから」

 少女はまだ笑いながら、床の上から顔を向けてオーレグを見ている。

「だって、ガーリャは出入りできたんじゃないか」 

「そうね、わたしは大丈夫みたい。足の悪い女の子が窓から出入りするなんて思わなくて、ガートルードが制限を掛けなかったんじゃない?」

 時間をかけて身を起こした少女は、腕だけで移動して壁にもたれた。

 こんなにお転婆なのに、とオーレグが言い返そうとした時、廊下に特徴のある足音が聞こえた。

「まずい、伯母さんだ」

 反射的に首を引っ込めようとしたところをを小さな声が追いかけてくる。

「また、遊びに来る?」

 たぶんね、と声を出さずに答えて、オーレグは素早く姿を消した。

 

 その夜、夕食抜きにされたオーレグの為にこっそりサンドイッチを運んだマーシャは、いつになく弾んだ声でおしゃべりをする少年の姿に目を細めた。

「お薬茶はもう必要ありませんわねえ」

 と安心したようにつぶやいたマーシャの声さえ、今のオーレグには届かない。

 いつの間にか窓の向こうの空には月が出ている。月なんて見慣れているはずなのに、こんなにも輝いて見える時があるとは知らなかった。南向きの部屋も悪くない、そう思いながら、オーレグは最後のひとつを頬張った。 


(作者注釈 *狂犬シソ=スカルキャップ、ジーラ=ディルのこと。

どちらもよくあるハーブですね。)


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