光の向こう

 片付いてしまうと案外この部屋も広いな、とオーレグは思う。

 帰省した時のまま荷ほどきせずに送り返した物もあるから、手荷物は鞄一つで済みそうだ。家具類に掛けた白い布がよそよそしく目に映る。

「片付いた? 忘れ物はないわね?」

 従姉のアントニーナがドアから顔を覗かせた。


 今日、オーレグはソロフ師匠の家に戻る。

 この屋敷は軍に接収された後、保養所として使われるらしい。

 ガートルードはマーシャを連れて森の中の古い小屋に移り、地下から解放された魔女たちはそれぞれ伝手を頼って各地へ住むことになった。アントニーナはといえば、新聞広告を見てさっさと住み込みの仕事を見つけてきたという。


「考えてみれば、あのジェインだって秘書の仕事に就いていたんだもの。魔女が職業を持っちゃいけないなんて身内だけのくだらないしきたりだったわ。戦争で男手を取られたところが多いし、街には仕事なんていくらでもあったわよ。今まで田舎に籠ってて損しちゃった」

 アントニーナは明るく言った。まだ化粧こそしてないが、前髪をコテできりきりと巻いていっぱしの大人のような顔つきだ。

「伯母さまがよく許したね」

「こういう時だもの、許すも許さないもないでしょ。それに、家から飛び出すまたとないチャンスじゃない?」

 アントニーナは笑っているが、母娘でひと悶着あっただろうことは想像がつく。オーレグは苦笑するしかなかった。


「私ね、うんと働いていつか自分のタイプライターを買うつもりよ。そして名前をつけるの、ガーリャって」

 その名を聞いて、荷造りをするオーレグの手が止まった。

「機械に名前なんてつけたら精霊が宿っちゃうんだよ」

「宿ればいいわ」

「僕らが知ってるガーリャとは違うやつだよ?」

「わかってる、でも約束したのよ。いつかタイプライターを手に入れてガーリャが文字を書くのを手伝うって。あの子は文字を綴りたいってあんなに望んでいたのに、私は間に合わなかった。だからね、せめて名付けるの。それでうんと文字を綴ってやるんだわ。いつかそういう仕事に就くために勉強だってしてみせる」

 強い意志を込めた瞳が窓の外を見た。すっかり葉を落とした楡の木が静かに立っている。窓に目を向けたままでアントニーナは口を開いた。


「ねえオーリャ、取替チェンジリングえ子の伝説って信じる?」

 唐突に言われてオーレグは返事に困った。

「私ね、リュドミーラが返してきたガーリャはもしかしたら取替え子だったのかもしれないって、時々空想するの」

「なんだよそれ、ひどいなあ」

「ただの空想よ。森の中で亡くなったのは取替え子のガーリャで、本物のガーリャはどこかで幸せに暮らしているんじゃないかって。だって、そう思わなきゃ辛くない? 百年もの間、水晶魔女として利用されるだけで。やっと役目を終えて普通に暮らしていけると思ったのに、あんな呪いをかけられてて。いったい何のための人生だったの? 百十四年のうち自由で幸せだったのは最後の数日だけなんて、あんまりだもの」

 窓の外は木枯らしが吹き始めているのだろう、ガラスが揺れて小さな音を立てた。

 

「ガーリャは……どんな時も本物のガーリャだったよ」

 オーレグは鞄の蓋を閉めながら言った。

「何のための人生かなんてそんなの他人には決められないし。幸せな時間が短かったから本物じゃないなんて言ったら、ガーリャの人生に失礼だよ」

 黒い瞳を丸く開いて、アントニーナはつくづくとオーレグを見た。

「あんたったら。急に大人みたいなこと言うようになったのね」


 自分で言った言葉が急に気恥ずかしくなったオーレグは、急いで言い添えた。

「それに、取替え子って疑わなれきゃいけないのは僕のほうだ。周りの子と何もかも違ってて、扱いにくくて、癇癪持ちでさ。あと、僕は五歳から七歳までの記憶がない。母さんが亡くなった時のことさえ覚えてないんだ。もしかしたら本物のオーレグは母さんと一緒に青い炎で死んじゃって、偽物の僕と取替えられたんじゃないか、なんてね。時々思うんだ」

「ばかね、そんなこと考えてたの」

 アントニーナは眉を寄せると、待ってなさいと言いおいて部屋を出ていき、息を切らして駆け戻ってきた。手に四角い封筒を持っている。

「これ、いつ渡そうかと迷ってたんだけど。この子は本物? それとも取替え子?」

 オーレグは封筒から取り出したものを見て、あっと小さく声をあげた。


 一枚の古びた家族写真がそこにあった。

 黒髪で明るい目をした母と膝の上の赤ん坊、東洋人らしい顔立ちの男はたぶん父だ。その間に座る幼い男の子は……

「僕だ。この写真、見覚えがある」

 オーレグは写真にそっと触れた。

「ううん、写してもらった日のことも覚えている。確か移動写真屋が近くに来たんだよ。父さんが一緒に撮ろうって言って。そうだ、父さんはこんな顔つきだった。それとこの赤ん坊は……うん、『ながなる無垢のアガーシャ』だ」


 アガーシャは大昔からガルバイヤン家に住んでいた魔女だ。無垢な赤ん坊のままで二百六十年生き、オーリガと共に亡くなった――写真を見つめるうちに、灰色に塗り固められていた絵の具が剥がれ落ちるように、次々と記憶が蘇ってきた。あの日隣に座った母の声や、父の服に染み込んでいた絵の具のにおいさえ、はっきりと思い出せる。


「ほら、あんただって取替え子じゃなかった」

 アントニーナは微笑み、写真に視線を落とした。

「うちに来たころ、ずっとこの写真を離さずに泣いてたわよね。母さんはどこ?父さんは?って一つ覚えのように繰り返して」

「そうだっけ」

 オーレグは鼻を掻いて目を瞬いた。


「しらばっくれてもだめよ。食べないし眠らないしすぐ熱を出すし、まったく手のかかる『オーリャ坊や』だったくせに。うちの両親もマーシャもあんたにかかりきりだったから、私が拗ねて家出したこと覚えてる?」

「覚えてる、悪かったよ。でもこの写真、どこに? 僕ずっと忘れてたよ」


 アントニーナは目を逸らし、窓のほうを向いた。

「……パパの遺品を整理してたら出てきたのよ」

 何かの含みがあるような言い方にオーレグが首をかしげる間もなく、アントニーナは視線を戻して明るく言った。

「さあそろそろ時間でしょ、四時過ぎたら暗くなっちゃうんだからそれまでには駅に着かないとね」

 促されて立ち上がると、黒い瞳が驚いたように見つめてきた。

「また背が伸びた? やだもう、これじゃすぐに追い越されちゃう」


 見送りはいいと言ったのに、アントニーナは外までついてきた。玄関先はもうすっかり枯芝になっている。その中に一歩を踏み出した後、ちょっと待ってといってオーレグは裏庭に走った。大切な『兄弟』小さな楡の木にお別れを言っておきたかったのだ。

「さよなら。君が切り倒されないうちにまた会えたらいいな」

 名残惜しく樹の幹を抱きしめる。ガリーナと初めて話したのも、二人で脱出を計ったのもこの木の上だった。楡の木は何も変わらない。変わるのは人間ばかりだ。


 ふと視線を感じて振り向くと、アントニーナが呆れたように見ていた。

「相変わらず木と話してたの? まったくそういうところは変わらないわね……早く大人になりなさいね。クローバーの中を転げまわってた子どもの時間は、もう終わったのよ」

 

 なにげない言葉だったが、オーレグの脳裏には幼い日の光景が鮮明に浮かんだ。

 春の日差しの中でクローバーの斜面を転がるのが面白くて、何度も転がるうちに頭を怪我したあの日。大泣きする自分を抱き上げて介抱してくれた優しい手の持ち主は、母でもマーシャでもない。目の前にいる三つ年上の従姉ではなかったか。なぜ今まで忘れていたのだろう。

「あの、トーニャ姉さん」

 何か言わなくては、と思う。だがオーレグの感傷などお構いなしに、アントニーナはどんどん先に行ってしまう。



 敷地の外に出ると、見覚えのある顔が待っていた。

「ユーリアン?」

 驚くオーレグの前で、魔法使いのローブを着た褐色の少年が片手をあげて挨拶した。同じ師匠のもとで学ぶ魔法使い見習い、ユーリアン・ナガルジュカがそこにいた。

「そろそろ師匠んところに戻りたくなったんじゃないかと思ってさ。昨日おまえの絵の道具が送られてきたから間違いないってね、すっ飛んで来た。ありがたく思えよ」

 軽くうねる黒い短髪の下で、ユーリアンは片目をつぶってみせた。 

 迎えが来たのを見てもういいと思ったのか、アントニーナは軽く会釈をしただけで家に帰ってしまった。


「ひゅう、あれがお前のいってた従姉? 美人だなあ」

 黒々とした大きな目でアントニーナの姿を追い、ユーリアンはストレートな感想を口にする。

「どうだか。魔女なんて変身もするんだから、見た目はあてにならないよ。性格きついし」

「ふうん。ところで一か月半の休暇はどうだった。何か事件の報告は? みんな待ってんだぜ」


 ユーリアンに言われて、オーレグは改めてこの家で過ごした期間の短さを思った。

 たった一か月半だ。ガリーナが水晶魔女として過ごした百年と比べてなんと短いことか。けれどその短い時間にいろんなことがありすぎて、オーレグにとっては数百年が過ぎたようにさえ思えた。

「事件ね……いろいろあったよ」

 そう言ってオーレグはローブのポケットを探った。


「ユーリアン、火貸して」

「あれっおまえもタバコ吸うようになったの? この不良め」

 ユーリアンは嬉しそうに言って指を弾き、小さな火を手の中に生じさせてみせた。

 風に消されないように掌で覆いながら、オーレグはポケットから出した紙片に火を着けた。

「おい!」

 驚くユーリアンの目の前で、花と少女の絵が炎に包まれていく。

「いいんだ。残しちゃいけないんだ」

 絵はあっけなく灰になり、風にさらわれて空に昇る。

(さよなら、ガーリャ)

 ガリーナの最後の名残りが天に昇っていく。見上げるオーレグの目に、ちらと何かの光が見えたように思えた。だがそれさえも銀色の雲に紛れて、じきに見えなくなってしまった。空の光の向こう側、地上に生きるしかないオーレグには、けっして届かない世界だ。


「あーあ、燃えちまった。綺麗に描けてたのに、いいのかよ」

「ん」

「というか、誰だよあれ。可愛かったけど」

「ん」

 オーレグが生返事ばかりするのを見て、ユーリアンは次第にどうでもいい世間話をし始めた。食糧があれもこれも配給になる中で腹いっぱいになる方法だの、いかにして洗濯当番をサボるかだの、魔力が強い男はモテるかどうかだの。

「でもさ、オスカー・ペリエリが選んだ相手ってどんなだと思う? お堅い家庭教師のミレイユ・リーズって女だよ。ゴリゴリの現実主義者で魔法なんて絶対認めないんだって。なのにオスカーは『妖精さん』とかいってぞっこんなんだ。大人ってわかんないよな、って、おい?」


 ローブに顔を埋めるようにして歩くオーレグを見て、ユーリアンは足を止めた。

「なに泣いてんだよ」

「泣いてない」

「いや泣いてるだろ。親友のユーリアン様に会えたのがそんなに嬉しいのか?」

「ばかやろ。泣いてないってば」

 目を拭っても拭っても、涙が勝手に溢れてくる。自分は全くどうしちゃったんだろうと思いながら、オーレグは懸命に喉の奥からせり上がる音を止めようとした。

「しょうがないなもう。ほらっ」

 ユーリアンが強引にマフラーを巻き付けてオーレグの顔を隠した。

「……猫くさい」

「しょうがないだろ、師匠んとこの猫飼いばあちゃんがくれたやつだから。いいからしばらく顔隠しときな。駅に着くまでは泣きやめよ」

 

 ユーリアンが何も理由を聞かないのがありがたかった。

 木枯らしの気配がする田舎道は、もう暮れかかっている。一瞬強い向かい風が吹き、オーレグは目を閉じた。風の音に紛れて誰かの声を聞いた気がする。


――オーリャ、あなたに必要なのは水晶の光じゃなくて太陽の光よ――


 目を開けて声の主を探しても、自分たちの他に誰もいるはずはない。

 

 太陽? 太陽なんてどこにあるんだっけ。あの陰鬱な雲の向こうに? この先、そんな時は来るのだろうか。

 しゃくりあげながら涙を拭った目に映るのは、渡り鳥の群れではなく基地に帰る戦闘機の隊列だった。


 おおい、と声をかけてくる親友に向かって、オーレグは再び歩み始めた。

 歩くしかない。公道で魔法使いが『飛ぶ』ことはできないのだ。


 ――さよなら、さよなら、子ども時代の何もかも。

 この道を通ることは二度とないだろう。


 行く先を睨むようにして、オーレグはひたすら足を進めた。



 (了)

 

 


 




 

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光の向こうのガーリャ いときね そろ(旧:まつか松果) @shou-ca2

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