果たされた約束 1

「ママ、大丈夫? 顔色が良くないわ」

「そう? 少し……冷えてきたかしらね」

 ガートルードは少し無理をするように口の端を上げると、マーシャを呼んで暖炉の置き火を大きくさせた。


「なんだよ、何がどうなっちゃったんだよ」

 頭を抱えて壁の前を行ったり来たりするオーレグの隣で、アントニーナもやはり混乱していた。

「お役御免とか水晶が消えたとか。ママ、大変なことが起きてるんじゃない?ガーリャは無事なの?」

「もちろん、無事ですとも。『ついの魔女』という者がちゃんとお護りしています。さあ二人とも少し落ち着いて。マーシャにお茶をもらいなさい」

 熱いお茶が運ばれてくると、ガートルードはやっと人心地ついたように顔を上げた。いつもの威厳ある表情に戻っている。


「ジグラーシ魔女といっても一枚岩ではないわ。いろいろな者がいますからね。水晶魔女を利用する者、一世代目という立場を権威づけてそれにしがみつく者。けれど放っておきなさい。私たちとガリーナは長い時間をかけて、今日のために準備をしてきたのです。リュドミーラ達に知れぬようにね」

「準備って?」

 ガートルードはすぐには答えず、お茶を一口含むと独り言のように言った。

「――水晶魔女を終わらせる準備です」

「終わらせるですって! 何を言ってるの、ママ」

 カップを落としそうなアントニーナを視線だけで制し、ガートルードは黒髪を手で整えた。そして遠い記憶を手繰り寄せるように、低い声で語り始めた。

「聞きなさい。これはかつて私が水晶魔女にお仕えしたころからの、約束だったのですよ」


*  *  *


 ガートルードが最初に水晶魔女と出会ったのは、まだ結婚前の娘時代のことだ。現在のアントニーナがそうであるように、十代から二十代の若い魔女が毎年交代で会話の相手として選ばれたのだという。貧しく教育の機会もなかった当時の魔女にとっては、またとない行儀見習いの場でもあっただろう。


 最初の水晶魔女がいつの時代に生まれ、どんな人物だったのか、今では知る由もない。少なくともジグラーシという小国で魔法を生業とする一族が生きていた頃は、生み出された水晶は魔女たちの間のみで大切に扱われるものだったし、それゆえに水晶魔女という立場が尊ばれていたはずだ。


 だがこの国に移り住んでからは、事情が変わってきた。水晶魔女が毎年生み出す純粋水晶は、まず一族が生きるための糧に替えられた。大きな結晶が生み出されると、この国を統べる者たちに密かに献上されるようになり、一族の地位の足固めに使われてきた。


「そんな。水晶魔女をそんなふうに利用してただなんて。あの方はジグラーシ魔女の誇りじゃなかったの?」

 アントニーナがたまりかねたように頭を振った。

「誇りだけで食べていける者などいませんよ。二人とも覚えておきなさい。魔法というものを否定しないかわりに認めもしないこの国で、我々一族は一人の乙女の力をにえとして、やっとのことで根を張り、生き長らえてきたのです。それが現実なのですよ」

「人身御供、ってジェインが言ってた」

 思わず呟いたオーレグをアントニーナが睨んだ。ガートルードは構わずに続ける。


「私が水晶魔女にお仕えしたのは三度。76回目と78回目、そして83回目の十三歳を迎えたガリーナだったわ。殊に83回目は素晴らしいお方でした、まだよく覚えています」

「まるでその年ごとに別々のガリーナがいたように言うのね、ママは」

「それはそうですよ。おまえたちも聞きましたね、水晶魔女は同じ人物でありながら同じではないのよ。毎年水晶を生み出すごとに、身も心も記憶さえも更新リセットして十三歳という時を繰り返しているのだから、そのつど人柄も変わります。76回目の方は軽率で『愚かしのガリーナ』と呼ばれたし、78回目は『憂鬱のガリーナ』と呼ばれ……自ら命を絶とうとしたことがありました」

 アントニーナが小さく叫ぼうとしたのが、オーレグにもわかった。


「水晶魔女という立場はそれ自体が幸いでもあり呪いでもあるのですよ。大切に護られ魔女たちに尊ばれても、百年のも間、水晶を生み出す以外何も許されない。おまけにその水晶すら自分の関われない所で利用されるなんて。一年ごとに記憶を消すという力がなければ、とても耐えられないでしょう」

「だから記録も残しちゃいけないことになってたのね」

「そう。けれど私がお仕えした83回目のガリーナは『賢しのガリーナ』でした。あの方はご自分で水晶魔女の秘密を知ってしまったのです」

「記憶も記録もないのに、どうやって?」


 ガートルードは小さな部屋の中をつくづくと見まわした。

「ここにはガリーナの濃い思念がまだ残っているわね――物の記憶、というのかしら。この部屋に置いてあるものは全て、家具や道具、本やリボンに至るまで、毎年同じものを使っていますからね。これらに宿った記憶を読み取ることが出来れば、過去を知ることは可能なのですよ」

「同調魔法だ!」 

 オーレグの言葉に、アントニーナの頬がピクと動いた。

「ガーリャって同調魔法も使えたの? イサークおじさんみたいに」

「いいえ。ガリーナ自身ではなく、まさにそのイサークが力を貸したのですよ。今のオーリャと同じ『鏡』の役割として何度も水晶魔女にお仕えし――魅了されていたわね」


 複雑な表情を浮かべた娘を見やりながら、ガートルードは眉を上げて釘をさすように言葉を継いだ。

「誤解なきように言っておきますけどね。イサークの水晶魔女に対する想いは、いわば騎士が貴婦人を敬慕するようなものですよ。そして私も同じ。できることなら、一生独り身を通して水晶魔女にお仕えしたかったわ」

 え、とオーレグは自分の耳を疑った。大魔女ガートルードがこんなふうに自分の心情を語るなど、意外すぎる。隣のアントニーナもそれは同じだったのだろう、黒い瞳を大きく見開いている。


「トーニャ、あなたは私たち夫婦の間に愛情がなかったと思っているのでしょう。確かに私たちは世間一般の男女とは少し違ったかもしれない。けれど、水晶魔女という存在に惹かれ、何を犠牲にしてもあの方をお護りしたいという想いで、私たちは一致していたのですよ。この感情は私とイサークにしかわからないでしょうね」


 スカートを膝の上でぎゅっと掴みながら、アントニーナが苦々しげに訊いた。

「そんなに大切にしてきたなら、なぜクレーブなんかに水晶を渡す契約したの。ガーリャはあんなに嫌がっていたのに」

「それも筋書きのひとつです。『賢しのガリーナ』が憂えたのは、自分の運命などではなかった。水晶を利用されることでもなかった。水晶魔女が持つ本当の力を利用されることです」

「本当の力って?」

 オーレグの問いには答えず、ガートルードは自分の娘を試すように目を細めた。

「トーニャ、あなたは知っているのではなくて?」

 アントニーナの表情がみるみる怒りに満ちてきた。

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