あとがき

『猫は神を知り、人は神に背く』、お読み頂きありがとうございます。


 テーマとしては、イスラームにおいて同性愛は認められるのか、認められるとしたらどのような形になるのか、というものです。


 前書きにも書きました通り、この話の結論である「罪の中にあってもなお、祈ることができる」というものは、スレイマン様ご本人の見解でも、正統解釈でもありません。


 何年か前、トルコのイスラーム教徒の男性同性愛者が、自分のFacebookに書いていたものです。


 現在、LGBT(性的少数者)への差別や偏見をなくしていこうとする人々が、同性愛と宗教について語るときは、だいたい以下のどちらかになることが多いです。


 ・同性愛は近代的な人権問題であるため、古い宗教界がごちゃごちゃ言うべきではない

 ・同性愛は神によって肯定されているから、宗教的にも異性愛と同等に扱われるべき


 前者は世俗的な人々が、後者はリベラルなプロテスタントの人々が主張することが多いです。

 いずれにしろ「同性愛=罪」という考え方は、「同性愛者を差別する考え方」だと思われています。私もそう思っていました。ですから、同性愛者であるイスラーム教徒が「罪」と言っているのに、衝撃を受けました。


 しかし、冷静に考えてると、彼の言うことはそれほどおかしくないのです。

 何故なら、人は誰もが罪を犯し、罪の中に生きているからです。

 それは、「原罪」などという意味ではありません。

「原罪」はカトリック世界の概念であり、ギリシア正教などの東方キリスト教や、イスラームにはありません。


 普通に自分たちが傲慢になったり、人の悪口を言ったりするのも罪です。

 ギリシア正教の場合、礼拝前には断食をし、司祭に自分の罪を告解しますが、それは断食前に食べ過ぎた、とか寝坊した、とか、もっと重いものだと嫌いな人のことを内心死ねばいいのに、と思ったことなど、「自分が犯した罪」です。


 イスラームの場合、聖職者がいないので、罪を誰かに告白するというシステムがありませんが、自分で直接祈っているはずです。


 いずれにしろ、日々、罪を犯しては祈り、の行ったり来たりです。


「罪」というのを取り返しのつかない絶対的な悪と捉えず、「神から遠ざかること」、逆に言うと「神に近付く」という行いによって取り返せることと捉えるのは、イスラームや東方キリスト教に見られる思考です。

 逆に言うと、西方キリスト教の影響が強い日本では、あまり馴染みのない考え方なのかもしれません。

(西方キリスト教と東方キリスト教はかなり違います。イブラヒムはギリシア正教→イスラームです)


 さて、スレイマン大帝とイブラヒム・パシャを主人公にした話を書く中で、やはり引っかかったのが、「信仰と同性愛」の問題でした。

 この二人の恋愛関係もどの程度のものなのか、諸説あるのですが、どうせ小説にするなら深いものであったとしたいのですが、そうすると「信仰者」としてのスレイマン大帝の像と矛盾するのではないか、と。


 それで思い出したのが、上記の方のFacebook記事でした。

 何があったのか、アカウントごと消えていたのですが、インパクトのあった、「神に背く」「罪の中でなお祈る」あたりは覚えていたので、それが、16世紀オスマン帝国の人の思考として矛盾しないか、考えてみました。


「神に背くことは神から遠ざかること」「祈りとは神に近付くこと」これらは、昔から当たり前の考え方で、特に近代的なものではありません。


 で、実際、16世紀オスマン帝国では今以上に同性愛が盛んに行われていましたが、決してそれが「神から認められた権利」であるとする言説は見られません。西欧のように火あぶりにされたりはしませんが、「神によって禁じられたこと」です。当然、「神はいない」などという考え方はもっと異端です。


 しかし、「罪を犯した他人を黙認する」というのは、多宗教の混在する東地中海ではよくあることでした。

 これは教義云々ではなく、色々な宗教があり、「罪」の基準もいろいろである以上、自分の信仰する宗教の基準で他人を厳格に罰していたら、社会が崩壊してしまうという、現実的な背景からです。


 ですから、ビザンツ帝国にしろ、オスマン帝国にしろ、「罪」は社会的な制裁ではなく、内面的な問題、それこそ「神とどう向き合うか」という問題になったのではないかと思うのです(そして、多くの人は“考えないようにする”という道を選ぶ)


 そういう前提で、


 スレイマン様:真面目に考えてしまう人

 イブラヒム:考えないことにしている多数派


 としてみました。

 そうすると、やはり、真面目に考えているスレイマン様の思考が、21世紀のFacebookの人と似てきたのです。

 もしかすると、他の考え方もあったのかもしれませんが、私にはこれが一番破綻のない道のように思えました。


 あと、「犬は人間を神だと思っているが、猫は神がいることを知っている」というのは、トルコでよく言われており、先日公開されたトルコ映画『猫が教えてくれたこと』でも出てきました。


 正統教義ではありませんが、夢のある俗説だと思います。


 毎度毎度理屈っぽい話になってしまいましたが、最後まで、ありがとうございました。



 *


 一応、議論としては、単体で完結ですが、出来事としては『県知事様はライトノベルが書きたい』がこれの前の話となっています。

 こちらも神学系ディスカッションで、この二人が小説のあらすじを書きながら、偶像崇拝のことなどを語り合っている話です。


https://kakuyomu.jp/works/1177354054885021688

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猫は神を知り、人は神に背く 崩紫サロメ @salomiya

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