徹頭徹尾、後の「大宰相」イブラヒム・パシャのモノローグである。この点のみを念頭に置いて読むだけで、冒頭が「殺された大宰相とのやり取り」である事に大いなる含みをもたらすことだろう。
ここに記述されている「奪う」「奪われる」「復讐する」には、実に重層的な折り込みがなされている。一読再読では、なかなか読み解ききれなかった。あるいは今も読み解ききれてはいないのかもしれない。同作者の他のスレイマン−イブラヒム談話に較べても、極めて異質と言っても良い折り込みぶりである。なぜならば、シリーズの他の作品と違い、この作品に他者はいない。かれを最も揺さぶり続けているスレイマンとて、このストーリーにおいては額縁に過ぎない。
結城かおるさんは、イブラヒム・パシャの思考を「ひとカラ」と評された。至当だと思う。ならば、この物語におけるイブラヒムを言い表すならば「ひとカラ完徹完走」であろう。何者にも邪魔されず、彼は思索を突っ走らせた。突っ走らせきった。
愛、忠誠、独占欲、支配欲。
そして、「奪われたこと」。「復讐心」。
一筋縄では行かない、曲者カップルの片割れ、その深き思索。それを一言にまとめ上げて申し上げれば、こうなろうか。
「……っめ、めんどくせぇ〜!」
そのめんどくささが味なんですよ。
厄介だよね。