第9話 行ったり来たり

 きっとそうだ。

 動物が祈るというのは聞いたことがない。

 白猫のスレイマン様はともかく、普通の猫も祈らないはずだ。


 だが、祈りとは何なのだろう。

 跪きながら思った。


 自分は今、一体何をしているのだ?


(よくわからなくなってきた……後でスレイマン様に聞いてみよう……)


 上の空で形だけの「祈り」を終えて、イブラヒムはスレイマンと共にモスクを出た。


「スレイマン様、人は罪の中にあってなお、祈ることができるのでは」

 唐突に言い出したイブラヒムに、スレイマンは少し驚いたが、やがて、嬉しそうに頷いた。

「うんうん、やはりそなたもそうだと思うか」


「ええ、何かふとそう思ったのです。しかし分からないのは、祈るということです」

「何がわからないのだ」

「祈りとは何なのか、何をもって祈りとするのか」

 イブラヒムの、珍しく真剣な神学的な問いに、スレイマンはくすっと笑った。


「……何故、そんなに理屈っぽく考えるのだ……?」

「え?いつも、スレイマン様の方が理屈っぽく考えておられるように思うのですが……」

 いつものやりとりと逆で、少々戸惑った。


「ならば、簡単な理屈で祈りを定義しよう。祈りとは神に近付くことだ。その逆……神から離れることが“罪”であるということは、学んだだろう?」

「ええ、それは、キリスト教徒のときも、イスラームに改宗してからも、そのようなものだと聞いてきました。しかしわからないのは、自分が本当に祈っているか、ということなのです」


「何故わからないのだ」

「祈る形だけはとっていても、本当に、神に近付いているのかが。実のところ、誰かに褒められたいとか、自分はきちんとした人間であると自分で思いたい、などという動機で祈っていたことが、多くあるのです」

 むしろ、それが殆どだ。


 スレイマンはふわっと笑った。


「……私は何も保障することはできないが、そなたはそれなりに神に近付いているような気がする」

「何故、また」


「世の中には“私は誰よりも敬虔に祈っている、故に神に近い”と思っている者がいる。だが、これは普通に考えて“傲慢”という罪を犯し、神から遠ざかっている。少なくともそなたは、その点に関しては謙遜ゆえに、神に近付いていると、傍から見た感じ、そんな気がする。だが、本当のことはわからない」

「……なるほど……」


“傲慢の罪”ならば、社会的に立派とされる多くの人――おそらく全ての人が犯しているだろう。

 だが、その人もふと、謙虚になる瞬間もあり…。


「なんだか、行ったり来たりですね」

 神から離れたり、近付いたり。


「そう、行ったり来たりできるのだ」

 神に背いても、祈ることによって、また神に近付くことができる。

 神のいいつけに背いたアダムとエヴァを、兄弟を殺した血によって大地を汚したカインを、神は断罪なさらず、祈るという機会を与えられた。


「私は罪を罪として知りながら神に背き、それでも神に近付こうと祈る、これからも。回り道だと思うか?」

「回り道?」

「私は罪など犯していない、我々のしていることは、神が許しておられる…そう思った方が早いのではないか?」

 それは、もともと、イブラヒムが思っていたことだ。


「だが、結局同じことなのだ。もし、この件に関して、私の解釈違いだとして、神は本当に許しておられたとする。それでも、私はどこかで罪を犯しながら生きている。結局、この行ったり来たりはどこかでせねばならぬことなのだ」


「……酔いそうですね」

「まったくだ」

 スレイマンが頷いて苦笑した。


 そう言っていると、二人の前を、5,6匹の猫が先を争うように走って行った。

 どこかの家で餌をやっているようだ。


「早く帰ってうちの子たちにも餌をやろう」

 スレイマンは楽しそうに足を速めた。

 厨房で用意させた猫用の餌を、猫たちに与えるのは長官であるスレイマンの仕事だ。

 ……というより、趣味だ。


「県知事様、餌ですよ」

「わあい」

 厨房で準備された餌を嬉しそうに受け取るスレイマンは、やはり猫のようだ。


「餌だぞ、イブラヒム」

「ええ……私のではありませんが……」

 宿舎の裏手の石段に二人で座り、蒸した鶏肉をほぐして、約20匹の猫に与える。


「はぁ……何か無邪気に幸せそうですね……」

 この中にももしかすると、神を知る猫がいるかもしれない。

 だが、神に背くことができないから、罪を知らず、幸せそうに鶏肉を食べていられる。


「だが、私も幸せだ」

 スレイマンは笑って、ほぐした鶏肉を少し遠くに投げた。

 あぶれていた猫がそれに飛びついた。


「神に背いて愛する者と結ばれ、それでもなお、神に祈ることができる」

 最後の一切れを投げ、イブラヒムを見た。


「スレイマン様……」

 見つめ合って、顔が近付いたが、スレイマンがそれを制した。


「さて、今は働くときだ。先に本館に行く。これ、厨房に戻しておいてくれ」

 銀の盆をイブラヒムに押しつけ、背を向け、顔を伏せてすたすたと歩いて行った。

 人間の食事の準備にはもう少し時間がかかる。

 猫に餌をやった後、その日の仕事に目を通すのが、県知事スレイマンの日常だ。

 だが、いつもと様子が違う。


(……照れてる……可愛い……)

 20匹分の鶏肉を載せていた大きな盆を抱えたまま、その後ろ姿をぼんやりと見ていた。


 理屈っぽくて面倒くさい子だ。

 神に近付いたり離れたり、行ったり来たり……か。


 そんなに面倒くさく考えなくてもいいのに。


「普通」だったことが神に背くなどという大事になり、祈るなどという神妙なことになり、神の近くから神の遠く、また神の遠くから神の近く。行ったり来たりで酔いそうになる。

 だがそれでも。


(私も、幸せだ)


 イブラヒムは、なおも餌をねだる猫たちを宥め、厨房に盆を返した。


 一日は始まったばかりだ。

 罪と祈りの、行ったり来たりの、一日が。


 




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