第8話 心の中のもやもや

 身支度をしながら、その白猫の夢の話をスレイマンにすると、しばらく、息もつげないほど笑っていたが、やがて、冷静に解釈めいたことを言い出した。


「イブラヒム、昔の人は夢というものを、神のお告げや誰かからの言伝だと考えていたが、どうやらそうでもないことが殆どらしい」

「そうなのですか?」

「勿論、そういう場合も稀にあるのだが、多くの場合、自分の心の中でもやもやしているものが、形を変えて表れたものだ」

「合理的ですね」

「……西欧人ですら、地動説を信じつつある時代だぞ?」


「ならば、あの夢は私のもやもやした何か……」

 やたら白猫のスレイマン様を撫で回していたのは、人間のスレイマン様を撫で足りなくてもやもやしていたからだろうか……。

 だがそれは言わなかった。


「人間は神に背くことができる、しかし、それだけではなく……その続きは何なのですか、スレイマン様」

 白猫のスレイマン様が、にゃあにゃあと言っていたあれは、何だったのだろう。

「……私に聞くな……夢の中の白猫が言っていたのだろう?」

 当然、関係のない人間のスレイマン様は苦笑した。

「……ですよね……そしてその白猫は、私の心の中のもやもや……」


 もやもやして当然だ。

 行いとしては今までに何度もしたこと。

 もっと愛のない、快楽だけの行為もいくらでもあった。

 だが、「神に背く」などという覚悟は持ったことがなかった。

「全知全能の神なのだから、多分これくらいは許してくれるだろう」、漠然とそう考えていた。


 神に背いた人間のスレイマン様は、「罪の中に生きてなお……後は自分で考えろ」と言った。


 神に背くことのできる白猫のスレイマン様は「人間にできるのは背くことだけではない」と言って、あとはにゃあにゃあ言っていた。


(……自分で考えろということか)


 よくわからなくなって、イブラヒムは顔を洗い、身支度に専念することにした。


「お待たせしてしました。行きましょうか、スレイマン様」

 身支度を終えたイブラヒムは、スレイマンを振り返った。

 何ということはない、ごく普通の朝の礼拝だ。

 時間がないときは部屋で済ますことも多いが、この時間なら街のモスクに行ける。


「……寒いな」

 宿舎から外に出ると、早朝の空気がひやりと感じる。

「手袋、持ってくればよかった……」

 そう言って、スレイマンがイブラヒムの手を取った。

「……ないよりは、まし」

 そのまま手をつないで歩き出した。

(…別に、普通のことだ、相手は男なんだし、何も問題は……)

 寒いときに男同士で手をつなぐのは普通だ。普通で、なおかつ「何も悪くないこと」。

 イスタンブルでは男と身体を重ねることは、それなりに普通だったが、「神に背くこと」?


 無言で歩いているうちに、街の小さなモスクに着いた。

 靴を脱ぎ、空いているところに、スレイマンとは少し離れて座る。


(朝早くから結構集まっている)

 まだ礼拝への呼びかけであるアザーンが続いているのに、絨毯は男たちで埋まっていく。


(この中で……男と寝たことがあるのは何人くらいなのだろう……)

 礼拝に来てまず始めに考えたのがこれとは、我ながら情けなくなるが、考え始めたら止まらない。

 この国では、そうした行為は「神に背くこと」とされるが、だからと言って、それで殺されたりするわけではない。


 だが、同じようなことをしたら殺される国もあるという。

 それは、キリスト教の国もあり、イスラームの国もあり。


 そうした国で、人が殺される理由は「神に背いたから」……自分たちと同じではないか?

 だが、自分とスレイマンはそのような罪を犯しながら、しれっと礼拝に来ている。


 他の者だって、どんな罪を犯したか、わからない。

 スレイマンの言うように、自分の知らないうちに、大きな罪を犯しているものもいるかもしれない。


 それでも、普通に、生きている。

 それでも、普通に、祈っている。


(――祈る?)


 人間のスレイマン様と、白猫のスレイマン様が、イブラヒムに投げかけた空白に、その言葉がぴたりとはまった。


「罪の中にあってなお、祈ることができる」

「人間は神に背くことができるだけでなく、祈ることができる」


 ……これではないか。


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