ほとんど奇跡じゃないか
「勇者ロトに光あれ」
まんまるが言った。
地下鉄の音の反響が激しい。僕は意識が遠のき、何もかもを見通せた。
1985年、花火大会の夜。
電車で地元に戻った僕とタカハシは改札を出たすぐのところで別れた。
タカハシは「またね」と目を伏せたままはにかんで言って、その胸元で小さく手を振った。
明日からまた僕らの日常が始まると信じていた。
だが、僕にだけ明日が来た。タカハシには来なかった。
その男子高校生は少し羽目を外しただけだった。スポーツ万能、成績優秀の、誰もが一目を置く男子だった。爽やかな身なりと、整った顔立ち。彼と一言でも会話を交わすだけで、一日中幸福感に浸れる同級生の女の子が大勢いた。同性の友人も多く、誰もが「あいつは良いやつだ」といささかの留保無しで認めた。
男子高校生は友人達と、男女合わせて二対二で沼で開催された花火大会に繰り出した。受験も控えているので、補導を恐れて外では酒を飲まなかった。花火を間近で鑑賞し、そして九時半に終演すると、男友達の家に集合して酒を飲んだ。その男友達ともう一人の女子高生は校内でも有名なカップルで、タカハシを殺した男子高校生に引けを取らない程モテた。だがあまり学業は得意ではなく、どちらかと言うとスポーツで目立った。本人もスポーツ推薦で大学に行くつもりだった。
「なあ、お前らもうヤったの?」
女達が台所に立っている時に、その男友達は赤ら顔でそっと聞いてきた。いや、まだだ、と答えると、
「じゃあこれ持っておけよ」
と言って、コンドームを渡して来た。
「お前らも付き合って半年なんだから、ヤってたっておかしくないだろ。今時高校生で経験もないなんて流行らないぜ。さっさと済ませて後腐れなく高校生活とオサラバだ、なぁ?」
そう言って、飲み物を取って来て隣に座った彼女にちょっかいを出した。その彼女は学校でも有名なヤリ■ンだった。誰とでも寝る女の子として知らない男は校内にいなかった。いつもスカートを短くたくし込み、スタイルのいい足をこれ見よがしに露出していた。水泳部に所属しており、放課後の教室で先輩にフェラチオをしているところを生徒に目撃されたという噂があった。嫌いな教師を無視し、課題なども一切提出しなかったが、テストの点数がほぼ満点に近かった。
「教師を目指す大人なんてろくなもんじゃない」
……彼女の両親は教師だった。
タカハシを殺した男子高校生は、一緒に花火大会に行ったもう一人の女の子と形式上付き合っている事になっていた。形式上、というのは、その男はそれ程その子の事が好きではなかったからだ。
半年前の告白は女の子の方からだった。男は意識した事もない女子からの告白に慣れていたので、いつもの通り断ろうとしたが、意に反して受け入れてしまった。後から思い出しても、男は「何故自分がその場で断らなかったのか」が思い出せなかった。
特に魅力的な顔立ちでもなかった。どちらかと言えば地味で、学業やスポーツに秀でるでもなく平凡な女子高生に過ぎなかった。よく告白する勇気があったな、と思う程性格も引っ込み思案であったし、もちろん二人の間で会話が弾む訳もなかった。男は別れる気でいたが、周囲はこのカップルを好意的に迎えていた。彼女は幸せそうな雰囲気であったし、そういう所は可愛いと思わないでもなかったが、男は常に理想と現実に落差を感じていた。
例えば、目の前にいるこの有名なヤリ■ンと付き合えたらと思わずにはいられなかった。実際、自慰の際に想像した事もあった。だが、現実ではそのヤリ■ンは、真向かいに座る男友達の恋人だった。ヤリ■ンの女の子は缶のソルティードッグを手にしながら床に座っていたので、動くたびに短いスカートの間からショーツが見えた。男子高校生はそこに目をやらない訳にはいかなかった。
友人宅でしばらく酒を飲んだ後、解散となった。
「じゃあな」
と男友達は男に目配せして玄関を締めた。恐らく、この後滅茶苦茶セッ■スするのだろう、と男は想像した。
ポケットには先程渡された緑色のコンドームが入っていた。それは以前、別の友人から貰ったコンドームを自慰の際に試しに装着した感覚を思い出させた。初めて触れたヒンヤリと冷たいコンドームは、期待に膨らむ男のものにピッタリと吸い付いた。普段ティッシュで後始末をしている高校生にとって、初めてコンドーム内に■■するという行為は特別な興奮をもたらした。そうした事を思い出していると、彼女が心配そうに男の顔を覗き込み、
「私たちも、帰ろう?」
と心配そうに促した。男はその時、恋人が珍しい色のリップをつけている事に気が付いた。だがそれには触れず、いつも通り、そうだな、と言って、二人は夜も深い住宅街を駅に向かって歩いて行った。
しばらく無言のまま二人は歩いていた。
男は先程まで目の前で一緒に酒を飲んで楽しんでいた二人が、今どういう風に過ごしているのかを想像していた。異性の前で裸になる、というのはどんな気分なのだろう。普段隠している場所をお互いが触れ合うという関係が、男子高校生にはうまく想像できなかった。
あのヤリ■ンと噂される女 ──サキハラが深く■えこんでいたり、その■の間に顔を埋められ、うっとりとした顔をしている様子を想像すると、歩きながら疼いた。世間一般でそうした性行為が行われているという事実がさらに男子高校生を混乱させた。
そんなのほとんど奇跡じゃないか。
一体どうやったらそんなのが出来るんだ?
「ねえ、あたしこっちだから」
いくぶん非難めいた彼女の声がその空想から男を解放した。
線路を挟んで反対に行く陸橋の手前で、彼女は帰宅の道を右に変えるのだ。
「ごめん、そうだ」
男はハッと自分を取り戻した。あまりに鮮明すぎたそのイメージは頭から未だ離れなかった。それからお互い、バツ悪そうに無言で向かい合った。セッ■スがしたい、と男が意を決して言おうとした瞬間、彼女の方が先に口を開いた。
「今までありがとう」
「え?」
「別れよう、あたし達」
明るい声で、キッパリと女の子が言った。
「この半年間、楽しかった。思い切って告白して、OKしてくれた時は夢みたいに嬉しかった。でも、君はいつも物足りなさそうにしてるから、もっと頑張って綺麗になって、会話も二人でいるのが楽しいようにしようって思ってたんだけど、ちょっと疲れちゃったみたい。あたしには、もうちょっと馬鹿で、不細工って程じゃない、フツーの人がお似合いなのよ。気付かせてくれてありがとう。それと、本当に今までありがとう。さようなら」
そのようにして、男の手元にはツルっと包装された緑色のコンドームだけが残された。それは満たされようのない、行き場のない性欲の一つの形のように、男のポケットの中で息づいた。
僕と駅の改札で別れたタカハシは帰路を急いでおり、街灯がまばらで、人通りがほとんどない道を歩いていた。普段は通らない道だったが、近道がしたかったのだ。男は突然のガールフレンドとの別れに呆然としたまま徒歩で帰宅中、偶然目の前を小股に早足で歩くタカハシを見つける事になる。ほんのうっすらと浴衣に下着を透けさせ、成長途中にある尻が左右に小刻みに揺れるのを眺めながら、男はその後ろをひっそり追った。
男は気配を消して、タカハシとの距離を詰めて行った。タカハシは先を急ぐあまり、背後の注意を怠った。ヤスダからのポケットベルのメッセージがタカハシを急がせた。スグニキタクセヨ ハハカナシム。ヤスダは酒を飲み、タカハシがいないとすぐに妻に暴力を振るった。だからタカハシは先を急いだ。緑色の性欲を持ち歩く男が、自分の尻を尋常ではない目付きで凝視しながら追っている事に気付かなかった。
何故かその時、花火が一際大きく二人の頭上で炸裂した。
空を埋め尽くす花火が突然、次々と炸裂し始め、タカハシはあっけにとられたようにあどけなく空を仰いだ。その隙を逃す事なく、男は後ろからタカハシに食らいついた。花火の爆発音がタカハシの悲鳴を打ち消し、男は空き地の草むらにタカハシを力づくで押し倒した。花火の閃光は二人の影を一つにまとめて、地面やブロック屏に色とりどりに焼き付けた。
その翌日の早朝、空き地でタカハシの遺体が発見された。近所の老人が散歩の途中で発見した。最初はマネキンだと思った。
後の供述で、男子高校生は殺意を否定した。猥褻、乱暴目的で襲ったが、「力を入れ過ぎて窒息させてしまった」と供述した。その後、卒業を待ってその少年は強制猥褻致死、強盗容疑で裁かれる事になる。
僕と一緒に、あの小さく咲く花火を見たタカハシはこのようにして最後を迎える。
あの日の僕らの結末がこんな無慈悲なものであってたまるか。
甲高い音が遠くから聞こえてくる。徐々にそれは耳障りな程大きくなり、やがて暴力的な鋼鉄が擦れ合う音として僕を殴り倒すように意識を取り戻させる。
地下鉄の匂いがする。車内が揺れ、手すりの輪が同じ方向に傾く。
僕はどこにいる?
軽い頭痛と吐き気を催す。
銀座線、銀座線だ。そして電話ボックスを目指している。
タカハシを生きてあの場所から取り戻す為に。
銀座線車内の電気が先頭車両から順に消えて行き、ついに僕が乗っている車両が真っ暗になった。
電灯が消える寸前に、僕の目の前に座り、僕を凝視している男がいることに気が付いた。その男はいつからか、じっと僕の顔を凝視していたようだった。目があった瞬間、血が凍り、体中の毛穴から汗が噴き出した。そして有無を言わさぬ暗闇が我々に覆いかぶさった。小学校四年生の時に最後に見た顔から十数年間経っているが、間違いなくその男はサイトウだった。座席に腰を掛け、両膝の上に両肘を置き、合わせた手の親指の上に顎を乗せて僕の顔を無表情で眺めていた。何の感覚もなく、インカの大穴を覗き込むような顔をして。
重たい沈黙のような深い闇を、一定間隔で地下鉄の壁に設置された蛍光灯の光が一瞬だけ車内に射し込んだ。聴覚が研ぎ澄まされ、鉄を引っ掻く音が地下で共鳴し、闇の奥に手繰り寄せられていく様子さえも感じる事ができた。僕は鼻の奥で鉄の味を噛み締めた。そして立ち上がると、腰に挟んでいたリボルバーを抜き、躊躇なく安全装置を外した。真っ直ぐ僕を見上げるサイトウの前に立つと、その額に上から銃口を押し付けた。
サイトウは全く表情を変えなかった。だが僕は、あの1985年に見送った新幹線の中で、僕にしかわからない不敵な笑みが今もサイトウの口端に浮かんでいるのを見逃さなかった。暗闇の中、一定間隔で射し込む光のせいで、その笑みが焼き付くように何度も浮かびあがった。激しい憎悪が沸き起こり、僕は撃鉄を起こした。サイトウが僕の目を冷ややかに見据えながら言った。
「哀れだな」
その瞬間、僕の目の前に閃光が炸裂したように全てが蘇った。煙突の先から出る煙、タクシーのガスの匂い、回転するロイヤルホストの看板、流し込む水の味、雨の予感、滑らかにカーブを描く新幹線の赤いテールランプ、ゆれる陽炎、祈り、呪い、青空に吸い込まれる野球のボール、金属バットの乾いた音。
それらが脳裏から消え去ると、代わりに見慣れないどこかの部屋が俯瞰で浮かんできた。行った事はないが、僕にはその場所がわかった。ヤスダの家の二階だった。生活感溢れる部屋に敷かれた布団は乱雑に乱れており、その行為の激しさを物語っていた。昼下がりの窓から差し込む光は、その布団の皺を重量感を持って細かにあぶり出した。タカハシはその布団に守られるサナギのように体を小さく丸め、繰り返し何かを呟いていた。その顔はひどく殴られたせいで腫れており、目からは涙が溢れていた。唇の端も切れて血が滲んでいた。
「助けて、…くん。お願い、助けて…うくん」
「助けて……トウ…クン サイトウ…君」
タカハシはサイトウに恋心を抱いていた。タカハシは最初にサイトウと花火大会へ行く約束をし、浴衣を着て行く、というメモを渡した。だがサイトウはタカハシに自分と駆け落ちをして欲しい、と事前に持ち掛けられ、それを拒否した。サイトウは今の生活に満足していた。拒否されたタカハシは、その後の生活のあらゆる局面でサイトウを無視した。そうする事で、サイトウが自分に興味を向けずにはいられなくなる事を知っていた。
次にタカハシは、僕を花火大会に誘った。タカハシの家庭には重大な問題があり、駆け落ちする相手はサイトウでなければ僕でも良かった。考えたくはないが、タカハシにとって地獄でしかない現実から抜け出せるのであれば、誰でも良かったのかも知れない。浴衣を着て行くというメモを僕に渡す時、教室の最後尾の座席からその様子を刺すような目つきで見逃さないサイトウがいた。タカハシに無視され、プライドを傷付けられたサイトウは黒い計画を立てた。
それは花火大会に向かうタカハシを直前で拉致し、性欲のはけ口にする計画だった。「やっぱり気が変わったんだ、一緒に花火大会へ行こう」などと言って。そしてその通りに計画は実行された。タカハシを「ちょっと話があるんだ」等と言葉巧みに誘導すると、頭がおかしいオヤジの家の隣にある空き地に連れて行った。
頭がおかしいオヤジは、夕方、駅前で人通りを眺めていた。花火大会特有の高揚感が幸せな幼少時代と郷愁を抱かせた。一際可愛い女の子(タカハシだ)が幸福そうにこちらに向かってくるのを見て、一層胸に懐かしみを感じた。その出で立ちが妹を思い出させたからだ。
その妹は今は既に遺体となって、天井裏のクリアケースの中で眠っていた。殺害のきっかけは、妹に共産党が主催する集いに出席するよう強く促されたからだった。兄妹の両親が交通事故で死んだ後、経済的に困窮した妹は一層活動にのめり込んだ。頭がおかしいオヤジにとって、思想の強要は何よりも耐え難い尊厳の剥奪だった。「兄さんが働かなきゃ、税金も支払えないのよ? そしたらここを追い出されるのよ。どこに住めばいいって言うの? ねえ、どうして働いてくれないの」
可愛い女の子が男の子(サイトウだ)に話し掛けられ、道を逸れて消えてしまった事で、頭がおかしいオヤジはとても寂しい気持ちになった。そして足は自然とその姿が消えた道へと向かっていった。それはオヤジの自宅に続く道であり、その隣には空き地があった。その空き地の片隅に、キスをするサイトウとタカハシの姿があった。
「コラアアア!」
頭がおかしいオヤジは怒鳴り、二人を恫喝した。そして家の中に連れ込み、乱行に至った。中学生など、腕力でどうとでも好きに出来た。
だが、頭がおかしいオヤジは気付かぬ内に、サイトウに利用されていた。サイトウは人の心を操る天才だった。ほとんど意のままに操る事が出来た。「おじさん、天皇陛下って偉いんだよね」「おおそうだ」「何でもできるし、何でもわかるんだよね」「おおそうだ、よくわかってるなお前は」
そういう風に上手く気分良く持ち上げられた頭がおかしいオヤジの耳元でサイトウが囁いた。
「おじさん、僕、タカハシとやりたいんだ。もう、やりたくて仕方がないんだ。え? 何をって? セッ■スだよ、そう。そう、オ■コっていうやつ。どうしてもやりたいんだ。……おじさん、僕に任せておいてくれれば大丈夫。黙っててくれれば、おじさんにだってやらせてあげる。一番最初にやらせてあげる。どう?」
そしてあの狂乱の宴に繋がった。だが、誤算があった。
頭がおかしいオヤジがどうやら殺人を犯していたという事……天井裏から覗いていたのは腐乱しかかった、女性の遺体だった。
タカハシが深く眠り込んでいる時、頭がおかしいオヤジが麦茶と牛乳を二階に持って来た。サイトウは麦茶を飲んだ。
「おっさん、天井裏のあれはなに?」
サイトウが聞いた。
「妹だ。今度紹介してやる」
頭がおかしいオヤジが瓶の牛乳を片手に、何故か誇らしげに言った。
「でも、死んでるよね?」
「じき、生き返る。今は反省しているだけだ。陛下の恩赦を賜れば御霊は再び身体に戻りその姿を取り戻すであろう」
「何言ってんだよ!」
サイトウは頭がおかしいオヤジに詰め寄った。
「警察が来るよ! そうしたらあんた逮捕されるよ!」
「逮捕? 警察?」
頭がおかしいオヤジはポカンとした顔をした。
「じゃが、ワシは妹の魂を浄化して、いずれ地球上に美しい花を咲かす為に…」
サイトウはハッと思い浮かんだ。
「天皇陛下は何でもできるんだよね」
「ああ、そうじゃ」
頭がおかしいオヤジはそういうといつもご機嫌になった。
「おじさんの事、警察が捕まえに来るけど、その警察は偽物なんだ。おじさんが陛下にとって大切な人だから、悪い奴がおじさんを捕まえに来るんだ。だから、もし銃を持ってるんだったら、それを身に付けていた方がいいよ」
「そうか、そうか」
サイトウは頭がおかしいオヤジが本物の銃を持ってるとは思っていなかった。だが、レプリカであれ銃を携帯する事で警察に捕まる可能性は高くなるし、殺人で捜査が及んだ際にも不利になるのがサイトウにも想像できた。
頭がおかしいオヤジはその後、眠り込んでいるタカハシの裸を見ながら自■行為にふけこんだ。サイトウは心底軽蔑した顏でそこから目を逸らし、その後眠った頭がおかしいオヤジに気付かれぬよう、慎重にタカハシをそこから連れ出した。浴衣の着付けは適当にしてやった。時刻は深夜に近かった。
タカハシと別れる時、絶対に今回のことは誰にも言わないように強く口止めした。もしも誰かにバレてしまった場合は、お互い取り返しが付かない事になる。タカハシの保護者にも君が僕と駆け落ちをしようとした事を話さなければいけなくなるし、警察が動けば頭がおかしいオヤジが僕達を殺しに来るかも知れないから(これは脅しだった)、絶対に口外してはいけないと言い含めた。
タカハシは黙ってそれを聞いていたが、別れ際にサイトウの横っ面を思いっきり殴った。そして、
「死ね!」
と一言吐き捨てるように言って、踵を返して去って行った。
その後、タカハシはヤスダに暴力を振るわれ、レイプの件がバレる事になる。
翌日、タカハシは学校に来なかった。行方不明になった、という噂がクラスで持ち上がっていた。サイトウは自分にどこまで危機が差し迫っているのか慎重に推し量った。タカハシは早速親か学校にチクったのか?
昨日、自分の横っ面を張ったタカハシの目を思い出して、いや、それはあるまいとサイトウは推測した。あの目は恐れても怯えてもいなかった。ただ、裏切られた怒りに満ちていただけだった。その怒りはいずれ自分に向けて、必ず何らかの報復として形を取ることはわかっていたが、それが親や学校を通して行われるとは考えにくかった。タカハシは少なくとも自分からは言わないだろう。……では、何故タカハシは学校に来ず、クラスで一人づつ担任教師による聴き取り調査のようなものがが行われるのだろう?
クラスの事情聴取が行われた際、サイトウはタカハシから渡された「浴衣を着て行くからお楽しみに」と書かれ、その脇にイラストが描かれているメモを担任に提出した。これとほぼ同じものを僕がタカハシから受け取っている場面を、サイトウは後ろの席から見て知っていたのだ。
「タカハシさんの隣の飯島君(今更だけど、僕の名前だ)の席から見つけました。確かにあの二人は仲が良かったので、一緒に花火大会に行っててもおかしくないと思いました」
担任は驚いた顏をしていた。
「その頬はどうしたの?」
サイトウはその時初めて、自分の左頬に紫色になった痣が出来ているのに気が付いた。昨日、タカハシに殴られた時の痣だ。
「ちょっと転んじゃって」
担任は、サイトウが近所のキチガイと一緒になってタカハシをレイプしたという話を知っていた。保護者のヤスダから午前中に電話があった。タカハシがヤスダの家で休息を取っており、「誰にも会いたくないと本人が言っている」というヤスダの言い分を聞いていた。だが俄かに信じ難い事であったので、教頭にその件を報告し、クラス全員に事情聴取を行う事にしたのだった。一人だけ呼び出してしまうと、事態は誤解を含ませより大きくなってしまう。
「あなたは花火大会には行かなかったのかしら?」
担任は口から胃が飛び出そうな程の不快感を隠しながら言った。目の前にいる男の子は(ヤスダの言い分を信じるのであれば)タカハシをキチガイと共に犯し、翌日素知らぬ顏をして登校し、その罪を親しい友人に擦り付けようとしているのだ。私が知っているサイトウは、そんな事が出来る子供だっただろうか?
「花火にあまり興味はないので」
サイトウは言葉少なに語った。多くを話せばそこから綻が生じるのを本能的に知っているのだ。
そして、最後に僕を呼び出して事情聴取を行なった。担任は泣き出した僕を見て同情した。思わず肩に手を差し出した時、書き取りノートを隠す衝立が担任の胸に触って倒れてしまった。それを僕が覗き見て、サイトウが何かしらこの件に絡んでいることを知ったという訳だ。
その夜、教頭と担任、サイトウタカハシ双方の両親と親族が集まり、会議室で話し合いが持たれた。結論は、サイトウ家が全ての費用を負担し、ヤスダ一家が町を去る、というものだ。
だが、翌日に思い掛けない事件が起きた。
僕が呼び出したサイトウが頭がおかしいオヤジに銃撃されたのだ。町は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。そのおかげで、タカハシのレイプの事件は表に出なかったし、タカハシが姿を消したという点についても、クラスメートやその保護者らの間で口端に登ることがめっきり減った。担任は皮肉に思わざるを得なかった。同級生をレイプした生徒と、その罪を被されるターゲットとされた生徒が親友同士であると祭り上げるマスコミのいい加減さに辟易とした。
だが、これはいい時間稼ぎになる、と担任は踏んだ。タカハシのレイプ事件について、何かしら最善の(学校にこれ以上迷惑を掛けない方法として)解決策を考える事に集中しよう。キチガイの家からはさらに一名の遺体が発見された。好都合だ。もし万が一、タカハシがレイプされた事件について学校に捜査が及んだとしても、サイトウの罪はキチガイに押し付けることが出来そうだ。サイトウがタカハシをレイプしたかしていないか、今は判らない。だが、守られるべきは未成年の将来であることを担任は信じて疑わなかった。
ヤスダは花火大会以降、タカハシを家の中に匿い続けた。あの夜にしこたま痛みつけたせいで、顏が酷く腫れて目立ったからだ。外出を許し、衆人の目にそれを晒す事はヤスダの社会的な死を意味するのと同等だった。妻にも監禁を絶対に解かないように強く言い含めた。それは久しぶりに二人で交わされた余りにも悲しい夫婦間の会話だった。ヤスダの妻はその言い付けを守った。
だが、ヤスダの性欲は衰えなかった。ヤスダの妻は、度々あの五帖の部屋からタカハシが小さく押し殺す泣き声と一定のリズムを刻む物音を聞いた。それは夜だけではなく、監禁が始まってからは昼夜関係なく行われるようになった。
ある時、ヤスダが汗を拭きながら一階に降りてくると、冷蔵庫から缶ビールを取り出して美味そうに煽った。
ヤスダの妻はその姿を見て、自分の人生の伴侶としてヤスダを選んだ愚かさを呪わずにはいられなかった。薄くなってきた頭髪、下腹部に纏わり付いた贅肉が目立つランニングシャツに汗をにじませ、ブリーフ一丁でその先端にみっともないシミをつけている、醜悪な正真正銘のゴミクズ以下の存在。ゲグルブフゥ。ヤスダがゲップした。ヤスダの妻はようやく自分の中に明確な殺意が芽生えていることを認めた。この世から抹殺されるべき人間は、この醜悪で無反省なロリコン豚野郎ただ一人だ。屠殺してやる。私が。
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