ペンギンを燃やす
そこで僕は目覚めた。分厚い羽毛布団をどけてしばらく息を整えた。夢と現実が入り混じり、しばらく呆然と座っていた。
二匹のペンギンはまだそこに座っていた。ノンノンは星と王子様の表紙を立てて絵本を読んでおり、まんまるは小さいテーブルの上で青い氷菓ガリガリ君を食べていた。
「しばらくそのままでいいよ」
「おはようございます」
ノンノンの低い声と、まんまるの甲高い声が続けて聞こえた。
「夢をみた」
僕はまんまるが持ってきてくれた麦茶を手にとった。温くなった麦茶ではあったが、喉を潤すには充分だった。
「ノンノン達ができる数少ないことだからね」
「夢あらば 夢とならむる 夢あればこそ」
「何だそれ」
「何となく言った」
「ちょっと黙ってろよ、マジで」
「ごめんなさい」
小さいペンギンは一層体を小さく丸めた。本当に頭の形がまんまるだ。
「どっちが本当にあった事なのか、自分でもよく分からない」
僕は正直に言った。夢と現実がごっちゃになっている。両者がしっかりと結びつき、分かち難く僕の胸の中にある。両方とも現実であったような気がするし、そうではないような気もする。いっそのこと、大声で叫びたい程の喪失感が胸の奥から僕を突き上げてくる。1985年の空気と、タカハシの笑顔と、電車の中に差し込む夕日の光がフラッシュバックする。さっきまで、僕は確かにそこにいたのだ。
「信じるか信じないかの違いでしかないから。君は今、ものすごく贅沢な状況にある。現実を選び取る選択。すなわち、過去を選ぶ権利。なぜ君にそれが与えられたかはノンノン分からない。もしかしたら勇者の血統を引いているのかもしれない」
「勇者ロトに光あれ」
ノンノンはまんまるの言葉を無視して、マッキーでキュッキュッといくつかの数字をA4程の大きさの紙に書いた。
「これが約束の電話番号ね。でもこの電話番号は、決められた公衆電話一ヶ所からしか繋がらないし、時間も決まってるから気を付けてね」
それからその公衆電話の場所を細かく教えてくれた。銀座線に乗り、末広町駅で下車するのが最短の道のりであるようだった。そして東口に出て、道なりに進むと電話ボックスがある。きっちり午前零時にこの電話番号に電話を掛けること。
「分かった。ところで、これは誰の電話番号なんだろう?」
ノンノンは大きく溜息を付いた。
「ノンノン答えられない」
「自分で考えろバカ」
まんまるが言った。
「聞いてみただけだよ」
僕は過去を選ぶことが出来る。そしてそれは、現在を変える事でもあるのだ。だとすれば、僕が望む人物の電話番号であるに決まっている。
「ありがとう」
と僕は礼を言った。
そしてベッドから立ち上がると、ハンガーに掛けてあったスーツの上着を身に付けた。もらった番号が書いてある紙を大切に折り込んで胸ポケットにしまい込み、テーブルの上にあった銃を手に取って腰のベルトに挟んだ。体のフラつきはそれ程ない。
「代償があるよ」
ノンノンが低い声で言った。
「合計二つお支払いください」
まんまるが言った。
何かを得るには、何かしらの対価を支払わなくてはならない。当然の事だ。僕はもう子供ではない。僕だけの為に見返りもなく尽くしてくれる人は、この世に一人もいないのだ。例えペンギンであってもそれは例外ではない。
「一つは、ノンノンとまんまるをあの焼却炉に放り込む事」
今は閉じられていたが、そのプレートの中には真っ赤に燃え盛る炎が確かに存在している筈だった。
「もうもう一つは、銃は必ず発砲されるっていうこと」
「必ず発砲されます」
まんまるが続けて言った。
そのどちらも代償と呼ぶにはささやかなものだった。
僕は右手に大きなペンギンと、左手に小さなペンギンを抱えた。それはピングーのぬいぐるみだった。後頭部の匂いを嗅ぐと、午後のひなたの匂いがした。シットリと毛を湿らせており、地面からそっと抱え上げると二匹とも少しだけ胴体が伸びた。
焼却炉の前まで行き、足元の固いペダルを踏み込むと半円の三日月状のプレートが左右に開き、真っ赤に燃え盛る炎が姿を露わにした。勢いよく燃える音が僕らを包み、火の中心部はいかにも熱そうに蒼い炎となっていた。肌を刺すように火の粉が舞った。
僕は二匹のペンギンを最後に一度だけギュっと抱き締めると、躊躇なくその炎の中に投げ込んだ。ペダルから足を離すと、先程まであった炎が嘘のようにプレートに遮られ、あたりに静寂が戻った。プレートの向こうから叫び声などが聴こえなくて僕は安心した。あれはただの、混じりっけなし100パーセントのぬいぐるみでしかないのだ。そしてそれを燃やす事は、僕にとっての代償であったのだ。
僕は焼却炉の前から立ち去った。焼却炉前に置いてあった、ペンギン達がせっせと焼べていた粉の山はそのままになっていた。白い大粒の砂のようなものだ。僕はそれを手に取ってみた。ザラメ糖をもっと細かく砕いたような、無味無臭の粉だった。ベタつきは一切ない。液体が偶然砂の形を取っただけのような、滑らかな手感触だった。舐めてみたかったが、やめておいた。それは何かの薬品に違いないはずだった。
重たいガラスの扉を押して外に出ると、既に夜だった。昼間の熱気が嘘のように空気はひんやりと澄んでいた。少しだけ雨の匂いがした。もしかしたら夕立があったのかもしれない。もしくは、これから降るのかも知れない。僕の腕時計の針は22時10分あたりを指していた。
僕は徒歩で来た道を瑞江駅まで戻り、約束の電話ボックスを目指した。都営新宿線に乗り、末吉で乗り換えて三越前で降り、そこで銀座線にまた乗り換えた。
終電近くもあってか、人はまばらだった。僕は銀座線の電車の座席に着き、目を閉じて今まで起こったことを振り返った。冷静にならなくてはならない。僕は今、重要な地点に辿り着いたのだ。眠ってはいけない。
タカハシは死んだのか?
生きている。
僕がサイトウとしてタカハシを汚した時の事を入念に思い出した。タカハシの熱っぽい目、僕を包んだ感覚、迎え入れる予兆、触れ合った肌、唇、声、祈り、導き。
「勇者ロトに、光あれ」
まんまるが言った。
☆☆
「あんたの息子に犯されたんですよ、ウチの娘は!」
夜の会議室に怒号が響いた。
担任教師と教頭が隣同士で座っている。担任は祈るように手を組み、その上に額を当てて吐きそうな顔をしている。教頭は腕を組んで目を瞑り、まんじりともしない。
その前には夫婦が二組、机を挟んで怒鳴りあっていた。タカハシの叔父は精悍に日焼けしており、髪をオールバックにして白いラコステのシャツ、その胸元にランバンのサングラスを引っ掛けていた。その隣に座っている小太りの妻はハンカチで顔を抑え、大声で泣いていた。
「そっちの娘が息子を誘惑したんじゃないのかね! ウチの息子に限って、そんな行為を…到底信じ難い!」
サイトウの父は長身で銀縁の眼鏡を掛けており、紺色のスーツを着ていた。髪は綺麗にセットされ、成績のいい銀行員のように見えた。サイトウの母と思われる女性は水色のワンピースを着て、品の良い黒いエナメルのハンドバッグを持っていた。美人ではあるが、やや神経質な雰囲気が口元から感じられた。そのサイトウの母が口を開いた。
「タカハシさん、何故ウチの息子があなたの娘をレイプしたと確信を持って言えるのですか? とんだ言い掛かりじゃないですか」
「タカハシじゃない! 俺はヤスダだ!」
タカハシの叔父が激昂した。
タカハシの叔父が異変に気付いたのは、まさに花火大会当日の夜の事だった。
午前0時過ぎ、ヤスダはタカハシが帰宅する玄関の扉の音を聞いた。タカハシが二階の階段を音を立てぬように静かに登って行ったのを確かめてから、叔父は手元に持っていたウイスキーのグラスを置き、その後を追った。
この叔父、ヤスダは正真正銘のクズだった。弟が事業を失敗し、行方をくらませてから転がり込んで来た厄介者のその娘は、中学生ながら整った顔立ちをしており、元からロリコンの気があったヤスダの気を惹きつけた。
結婚はしていたが、六年半ばにして事実上結婚生活は破綻しており、妻とは口を聞く事も無かった。夫婦の寝室は別で、タカハシにも五畳程の小さな部屋があてがわれた。そしてその部屋で性欲を発散させるのがヤスダの常であった。それは地獄だった。ヤスダの妻はその部屋でおぞましい事が起きていることを知っていながら、気付かないふりを決め込んでいた。ヤスダは自営業で、パチンコ筐体の販売、搬入を手掛けていた。普段は気取らない気さくな男性であり、近所の評判も悪くはなかったが、その実金遣いが荒く、とりわけ酒を飲むと暴力を振るうのに躊躇がなくなった。
ヤスダはタカハシの部屋の扉を開けようとしたが、反対側から抑えられているようだった。勘の良いタカハシが入室させまいとドアノブを必死で抑えているのだ。だが、そんなのは長く続かない。静かな攻防の末、ヤスダは扉をごじ開けるとタカハシに無言で暴力をふるった。
(性表現383文字を削除)
それがヤスダという男だった。
その後、憔悴してほとんど意識を失ったタカハシを部屋に監禁し、学校にその顛末を電話で伝えた(ウチのタカハシがお前の学校のサイトウという奴と頭がおかしいオヤジにレイプされたと言っている、サイトウの両親と話がしたい。夜そちらに向かう)。それから妻を連れて夜の学校に乗り込んだ。昼間に学校へ向かうと、生徒とすれ違う際に顔がバレる危険があったからだ。
ヤスダの妻が泣いているのはタカハシがレイプされたからだけではなかった。昨晩、あの部屋で何が起こっていたのかは全て理解していたし、それはヤスダの妻が小さく守ってきた女性としてのプライドを傷付けていた。
「学校としては、事を大きくするのはサイトウ君と、タカハシさんの将来の為に良くないと考えています」
教頭が重々しく口を開いた。
「ふざけるな! こんな性欲糞餓鬼は少年院にぶち込まれて当然だろう、事なかれ主義にも程がある!」
「証拠もないのにうちの息子を犯罪者にするのは困りますな」
「証拠?」
ヤスダが片方の唇だけを上げて皮肉に笑うと言った。
「証拠だったら今すぐあの空き地の隣に住むキチガイに証言させてやってもいいんだぜ。中学生で乱行かますとは、一体あんたらどういう教育してんだよ! サイトウのサはサンピーのサかよ!」
サイトウの父親の顔色が青ざめた。
ガチャ、と会議室のドアが開くと、警察官の制服を着た二人の男性が入室してきた。どちらも帽子を目深に被り、特徴のない記号のような警察官だった。そして座っている担任と教頭の間に中腰で顔だけ割り込むと、小さな声で二人の耳元で何かを報告し、すぐに出て行った。
「どうやら、ヤスダさんの言い分には信用に足る部分が大きいようです」
担任が青白い顔で静かに言った。
「へっ」
ヤスダが下衆な顔で笑った。
「どうすんだよサイトウさんよお! ああ? どうしてくれんだよサンピーのサイトウサァン!?」
サイトウの父は無言で近くの机を蹴り上げた。そして奇声を上げながら椅子を放り投げたり、床に頭を打ちつけたりして暴れた。サイトウの母は呆気に取られていたが、やがて夫を落ち着かせる為に後ろからすがりついた。
「っていうか今の警察官は何だ? 捜査してるんだったらさっさと逮捕しろよ」
教頭に向かってヤスダが言った。もっともな意見だった。
「未成年という事もあって、今回はご厚意という形で警察の方々に関わっていただいています。逮捕、起訴等といういかなる形を取るにしても、結果として傷つくのは子供達です。損なわれるのは、これから続いてく子供達の長い人生です。我々は児童の将来を見据えた、最善の選択を考え、重ねて実行していく義務があります」
教頭が重々しく口を開いて言った。
「へっ。事なかれ主義もここまでくると文部省ご推薦ってなもんだな」
ヤスダは四つん這いになって息を切らしているサイトウの父の前にしゃがみこみ、顔を覗き込むようにして言った。
「どうすんだい、サンピーのサイトウさんよぉ。これは俺の胸ひとつで、あんたとあんたの息子をどうとでも出来るって塩梅だぜ。警察に俺がタレ込めば、何ぼなんでも無視は出来ない筈だからな。マスコミだろうと何だろうと、あんたを社会的に抹殺するなんざ、鼻毛を抜くより簡単な事なんだぜ!」
その後、話し合いが行われた。結果として、①ヤスダ家はこの地を去ること、②サイトウ家はその引っ越し代と慰謝料として相当額(かなりの金額だ)を支払う事、③その代わり警察・裁判沙汰には一切しない事、などについて双方が同意した。ヤスダは一生これで金に困る事はない、と内心ほくそ笑んだ。
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