花火が空を駆逐する
(冒頭32行1400文字の性表現を削除)
ハっとして僕は僕らが重なり合っている横にある鏡台を見た。そこには僕の代わりにサイトウが映っていた。収まると同時に、タカハシは静かになった。タカハシはずっとその虚ろな視線を僕の背後から動かさなかったので、僕も体を曲げて背後を顧みた。そこには木目調の天井板がずらされ、ぽっかりと開いた闇から虚ろな目でこちらを覗いている、奇妙な顔が覗いていた。
☆ ☆
「お待たせ」
目を上げると、八月の夕風がタカハシの髪をなびかせた。駅前の人通りはまもなく始まる花火大会の会場に向けて流れていた。タカハシは水色の浴衣にピンクの金魚が染められた浴衣を着ていた。髪は結い上げられ、赤い髪留めをして細いうなじを露わにしていた。そして少し大きめの手提げを肘に掛けていた。
「遅いよ」
声が上擦らないように気を付けながら思ってもいない文句を言うと、嬉しそうにニコニコしながら僕の顔を見てからかう様に言った。
「そんなに待ちきれなかったのかなー? んー?」
「ざけんな!」
勝ち誇った上目遣いのタカハシを直視出来ず、顔を逸らしながら買っておいた烏龍茶を突き付けた。タカハシはちゃんと、自分が可愛いことを知っているのだ。
「お、気がきくねー。チベたい」
「早く行こうぜ、いい場所が取れなくなる」
僕が人の流れに乗ろうとすると、待って、と言ってタカハシが僕の手を取った。
「ここのじゃない方がいい」
「え?」
「ここじゃないほう」
駅にして二つ程下ると大きな川があり、河川敷で大きな花火大会が開催されている。タカハシはそちらの方に行こうと主張した。約束した時点では待ち合わせした駅から徒歩5分程でたどり着く、沼で開催される花火大会であったが、何が彼女にその変更する意思をもたらしたのか、全く理解が出来なかった。
「馬鹿言ってんじゃないよ、もう始まるだろ」
「お願い、気が変わったの頼むお願い」
笑顔のタカハシは、拝むようなジェスチャーで僕に嘆願した。
断れる筈がない。
止むを得ず、僕は人の流れに逆らって切符を(二枚)買い、下りの電車に乗り込んだ。白い電車に青い帯の普通電車だった。大勢が下車したので、四人掛けの向かい合った席に座ることが出来た。それでもまだ車内は賑わっていた。河川敷でやる花火大会に向かう人も多いのだろう。
「って言うかさー」
と窓際に肘を載せ、口に拳を当てたスタイルでタカハシが言った。
「君、絵に描いたような中学生の格好してるよね。私、浴衣着て行くって紙に書いて渡したよね?」
僕は近鉄バッファローズのキャップに綿の紺色の半袖Tシャツ、それにデニムを履いていた。それに靴下を履かないで直接ヨネックスのスニーカーだ。
「もっと気の利いた服はなかったのかね。別にタキシード着てこいって訳じゃないけどさ。結構浴衣は大変なのよ? こう見えて」
悪戯そうにニヤニヤしながらタカハシが言う。窓際の日が暮れる光線がタカハシの髪を梳き、キラキラと輝かせた。
「そんな事よりしょんべんしたい」
僕は目を逸らして、思ってもいない事を口走った。
「そこら辺ですればいいでしょ。犬みたいに」
フンッ、とタカハシはそっぽを向いてしまう。きっとソッポ界の女神だ。
電車が騒がしく川を渡る鉄橋を超え、目的の駅に止まった。
大勢の乗客が賑やかに喋りながらゾロゾロと下車していった。
「行こうか」
僕も降りようとすると、タカハシがまた僕の腕を掴んだ。じっと口をへの字にして一点を見つめている。
「何だよ、降りようぜ」
だがタカハシは立ち上がらなかった。やがて、ジリリリリ、と発車のベルが鳴って、電車のドアが閉まった。そしてモーターの音がさっきよりもくっきりとトーンを上げていくのが聞こえた。僕らが乗っている車両から、先程ほとんどの客が下車したせいだ。
僕はただならぬ雰囲気を感じて、再びタカハシの前に腰を下ろした。タカハシは僕から力なく手を離し、じっと俯いた。さっきまで、あんなにはしゃいでいたのが別人のように物憂げに黙り込んでいた。僕は、ちっ、何だよ、意味わかんねーよ、とブツブツ言いながら外を見た。しばらく電車の音だけが聞こえていた。
「…しよう」
か細い声が線路の音にかき消されるように、ようやくタカハシの口から発せられた。
「え、何? 聞こえない」
僕はタカハシの顔を見ながら聞き返した。
「……け落ちしよう」
「なに!?」
タカハシはキっと顔を上げて僕の顔を睨みつけると、大声で言った。
「あたしと一緒にどこか遠くへ行こう!!」
「はぁ?」
僕は間抜けな声しか出せなかった。
それから、タカハシは時折涙を拭きながら現状をポツポツと話した。両親に捨てられた事、叔父と叔母が不仲である事、時々暴力を振るう事、叔父が自分の事を性的な目で見てる事、本当はこんな千葉県の片田舎なんかに来たくなかった事、横浜に帰りたいという事。
タカハシが周囲の女の子達よりずっと大人びていたのは、そんな大変な目に合っていたからだったのか、と僕は何となく理解した。悔しかった。どうして彼女がこんなに辛い気持ちでいるのに、僕は何か気の利いた言葉を掛けてやれないんだろう。今僕が何を言っても、その声は子供っぽく響いてしまうだろう。
「だからね、私と一緒に遠くへ行こう」
1+1は2、というトーンでタカハシは言って、持っていた手提げ袋を開けて僕に見せた。TAKANOと印刷された白い紙袋の中には一万円札の帯が少なくとも五束はあるように見えた。
「これだけあれば充分でしょう? しばらくは生きていけるよきっと」
タカハシがニコニコしながら言った。
「そのお金、どうしたの?」と僕が聞くと、タカハシは一瞬怯み、鼻白んだように
「別にいいでしょ。お金はオジサンのヘソクリから貰ってきたの。今まで気持ち悪いことしてきた事の代金よ」と言って一転、苦々しい顔をした。
僕はそこで、タカハシの全てを受け入れて駆け落ちするべきだったのだ。
「いいよ、どこまでも行こう。親なんてどうでもいい、学校なんてどうでもいい。世界で誰も僕たちを知らないところで、ずっとその金で暮らして行こう。小さな犬を飼って、僕ら二人で毎週日曜日に散歩しよう」
でも僕は何も言葉が頭に浮かばなかった。
言うべき言葉が一片たりとも頭に浮かんでこなかった。
その時、僕の脳内に浮かんだイメージはこうだ。
①僕は洗面所に立っている。そこは漂白剤の匂いがする昼下がりである。
②綺麗に磨かれた鏡が目の前にあり、僕の顔(ちゃんと僕の顔だ)とその背後に美しい豊かな葉を茂らせた緑の木々が、そよ風で揺らいでいるのを映している。
③鏡の下にはとても清潔に磨かれた、真っ白い陶器製の洗面台が設置されている。
④古びた銅色の蛇口を捻ると、水が勢いよく渦を巻いて排水溝に流れていく。
⑤激しい水飛沫の感触と水道のカルキの匂いが周囲を包み、思わず目を閉じて深呼吸する。ピピピッ ピピピッ
不意に電子音が聞こえ、タカハシが慌てて手提げの中からポケットベルを取り出した。そして液晶画面を確認すると、目を閉じて深く息を吐いた。
「次の駅で降りる」
「え?」
「次の駅で降りるの。それから、反対側の電車に乗る。帰るの」
僕らは電機会社の名前で有名な駅で降りた。恐ろしくひなびた無人駅だった。辺りは既に暗く、駅前には駐輪場と缶ジュースの自動販売機があるだけだった。自宅に戻る為の次の上り方面の電車は一時間後だったので、暇つぶしにすぐ近くの浜辺を歩く事にした。
夜の海を見たのは初めてだった。時折重低音が響く波の砕ける音が聞こえる中、僕らはあてもなく浜辺を歩いた。すぐに靴の中に砂が入ってきた。タカハシはつっかけを手で持って、裸足で歩いた。
南の方に、小さな花火が光っているのが見えた。上手く手を伸ばせば、そのまま持って帰る事が出来そうなほど小さく柔らかく輝いている花火だった。それは次々と上がり、散ってから少し遅れて音が聞こえてきた。
僕らは向かい合うと、どちらともなく抱き合った。細いタカハシの肩が僕の胸のあたりにすっぽりと収まった。タカハシの暖かな涙が僕のシャツを濡らした。
「どうして誰も私を連れて行ってくれないの?」
タカハシが消え入るような声で言った。
「ねぇ、どうして?」
僕はタカハシにキスをした。目を閉じると小さな花火の微かな残像が瞼の裏に幾何学模様を作り、僕は見えないコップでそれらをすくい上げた。波が砕ける音と、ポケベルの呼び出し音が僕らを包み、後から追いかけてきた花火の重低音がそれらを圧倒的に駆逐した。
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