空気の中に変なものを

江戸川台ルーペ

空気の中に変なものを

頭がおかしいオヤジは語る

 僕らが少年だった頃は、必ず近所に頭がおかしいおじさんがいた。それは昭和という空気が前提にあって、頭がおかしい、気が狂ってるというのは「みんなそうだった」と言えなくもない。僕を育てた親だって、担任の教師だって、頭がおかしかった。多少おかしくなくては、生きていけない時代だったのだ。多分。


 近所の一軒家に住んでいるおじさんは少年殺しの頭がおかしいオヤジとして、中学生の間でも有名だった。少年達が野球広場として利用していた造成地の端にそのオヤジの屋敷はあり、その宿命として軟式ボールがその家に飛び込むことがしょっちゅうであった。そしてそのボールを取りに行った少年の姿を再び見たものはいない…という噂がそのおじさんを頭がおかしいオヤジたらしめていた。

「いや、マジのマジらしいぜ」

 と少年達は情報を交換した。

「銃声も屋敷から聞こえたって噂だぜ。絶対殺されちまったんだよ」

「ジュウセイってなに」

「馬鹿だな、鉄砲の音だよ。ファミコンで聞いたことあるだろ」

 そんな風に少年が姿を消す訳がない。今ならそれは分かる。ただそれは田舎によくある、真偽を暴く必要のない(あるいは手立てがない)子供達の間だけの伝承として、我々の間で受け継がれていただけの話だ。


 そうした理由で、我々は可能な限り空き地を避けて河川敷の原っぱで野球をしていたが、どちらかと言えば学校から近くて広い空き地の方が野球にうってつけであった。ボールが遠く転がって行っても深い草むらに入り込んで探す必要がないというのは魅力だったし、頭がおかしいオヤジが住む家にボールが飛び込んでも逃げてしまえばいいのだ。実際に我々はそうしてきて、頭がおかしいオヤジが追いかけて来た事は一度もなかった。次第に空き地で野球をする回数が増え、本当にあの屋敷には人が住んでいるのか、実は引っ越してしまって無人なのではないか、という「少年殺しのオヤジ伝承」に新たな一ページが加わる時期が近付いていた。


 そしてそれは、我々が持ち寄った軟式ボールの最後の一球で遊んでいた、あの風の強い日に明らかになる。


 振り切った金属バットのいい音で放たれたボールは爽やかに青空に向かい、五月の風を捕まえてグングン飛距離を伸ばしていった。そして、ガチャーンという音がした。絵に描いたような場外ホームランだった。


「今まで放り込んだボールも返してもらってくるんだぞ」

 サイトウは僕に命令した。サイトウはクラスの中心的な人物で、野球でもピッチャーしかやらなかった。

「確か八個はあるはずだから」

「解散しようよ」

 と僕は一応抵抗した。サイトウが投げた球が打たれたのだ。ジャンケンで負けたからと言って、「少年殺しのオヤジの家」に潜入するのは気が進まなかった。もっと言えば、今まであの家に飛び込んでいったボールまで回収する等と納得も出来なかった。八個って何だ。

「あの家のオヤジ、人殺しって噂じゃん。死にたくないよ」

「あんなの嘘の噂に決まってるじゃん。銃を子供に向けて撃つことはないだろう。っていうか本物の銃とかどこで手に入れるんだよ。バクショー。てか、もう引っ越していないんじゃね?」


 垣根の繋ぎ目の小さな隙間に苦労して体をねじ込ませ、僕は野球友達に見守られながらその屋敷に潜入した。垣根は分厚く、まったく手入れをされていないので通り抜けるのに苦労した。みんな「頑張れよ!」とか「生きて帰って来いよ!」などと口々に無責任な言葉を掛けてきた。それらは何の慰めにも、励ましにもならなかった。


 ようやく垣根を抜け、体についた葉っぱなどを払って見渡すと、荒れ果てた庭が広がっていた。静止画であれば「五月の見捨てられた庭」という題名がついていそうだった。二階建ての日本風家屋はうらぶれてそこにあり、どの窓ガラスも内側からダンボールで目張りされて中は見えなかった。庭は五月のうららかな日差しと、別世界のような静謐に満ちていた。ありがたい事に人の気配は全くなかった。重要なことだ。


 探すまでもなく植木鉢が割れ落ちており、そこに恐らく風を捕まえるのがとても上手な(そしてこの災厄を呼んだ忌まわしき)八個目のボールが落ちていた。意外と早い発見に僕はホッと胸を撫で下ろした。このまま帰れば殺されずに済む。だが、そこからさらに七個のボールを探すとなると絶望的だった。狭くない庭の中程からは雑草が膝のあたりまで生えており、そこを掻き分けなければならないからだ。大勢であれば何とかなるかも知れない。

「おーい!」

 僕は通って来た垣根の上の方に向けて大声を張り上げた。

「さっきのボールあったぞ! 残り探すの大変そうだから何人か来てくれ! 誰もいないから大丈夫だ!」

 返答はなかった。みんな帰ってしまったのか?

「おーい! 聞こえてんのか!?」

 五月の空に虚しく僕の声が吸い込まれるだけだった。

「おい」

 返答はあった。残念ながら、僕の背後から。


「おい」

 振り返ると、一階の窓を開けて僕を見下ろしていた。白髪混じりの髪を七三分けにし、大きな四角いメガネを掛け、分厚い唇の汚らしいタンクトップを着たガリガリのオヤジだった。年齢はわからない。父親よりも年上のようにもみえる。

「おまえちょっとこっち来い!」

 言葉が出ない僕に、頭がおかしいオヤジは激しく手招きした。ロウソクがあったら十本は消せる激しい手招きだった。僕は逃げ出そうとしたが、黙って庭に侵入した引け目もあり、おずおずとそちらに向かっていった。そして、ゲンコツが問答無用で頭上に炸裂した。ものすごく痛かった。


「ここは俺の家だ!」

 頭がおかしいオヤジは指を真下にビシッと差し向けて宣言した。

「なのにお前は断りもせずに領地に侵入した! 法律違反だ!」

 僕は窓の外で頭を抑えて立ち尽くしており、頭がおかしいオヤジはただただ大きな声を張り上げた。

「俺の土地に、お前は勝手に侵入したので、これから警察に訴えます! お前は、犯罪者です! 残念でしたー! 死刑、死刑ー!!」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 泣き出した僕を見て、頭のおかしいオヤジはさらに囃し立てた。

「残念賞ー! お父さんとお母さんは君が死んで喜んでまーす! 法律違反をする息子を持って、恥ずかしい思いをしたご両親は、お前が死んでよろこんでまーす! 万歳! 天皇陛下万歳! 万歳ー!!」

 さらに泣きじゃくる僕を見て、頭がおかしいオヤジはさらに大喜びだった。


「ボール返して欲しいの?」

 ひとしきり大笑いした後、真面目な顏で頭がおかしいオヤジは僕に問いかけた。僕は涙を拭いながら頷いた。もう帰りたいだけだったが、頷く事がその時は一番簡単な選択肢だった。ボールなんか本当はどうでもいい。

「ま、いいや。じゃあ玄関からこっち来て。入って」

 頭がおかしいオヤジは普通の声で、急に僕に興味が無くなったみたいなトーンでそう言って僕に家に入るように促した。


 オヤジがその場から姿を家の中に消したので、僕はまた走って逃げようかと考えたが、そうもいかなかった。オヤジは左手から出て来て、僕の腕を掴むとずいずいと玄関を通じて家の中に連れ込んだ。僕は無抵抗のまま、庭と同じようにうらぶれた玄関と、床が見えない程の本やチラシや衣類などで埋め尽くされている応接間のような場所に半ば引きづられるように手を引かれて行き、うず高く新聞やら雑誌やら、食べかけの食パンの袋やらが積まれたテーブルの席につかされた。時間はまだ昼の二時くらいで、窓からは光が差し込んではいたが、酷く薄汚れた窓ガラスと、手入れされていない木に遮られ薄暗かった。裸の蛍光灯からはハエ取り紙がぶら下がっていた。

「昼飯食ってないだろう」

 僕は頷いた。

「そうか、待ってろ」

 僕は食欲などひとかけらもなかった。しかし今から回れ右をして帰る訳にはいかない。いささか冷静を取り戻した僕は、薄汚れたテーブルクロスの縁や、黄ばんだ共産党の機関紙の記事を逆さまから字面だけを追ったりした。野菜を炒める匂いと、ウスターソースの匂いが香って来た。


 やがて決して衛生的とは言えないキッチン(流し台には皿やカップラーメンのカスが溜まっているのが見えた)から、頭のおかしいオヤジがやきそばを盛った皿を二つ両手に持ってきた。

「食え」

 僕の目の前にドンと皿を置くと、頭がおかしいオヤジはテーブルの向かいの席に座り、そう促して自分から先に食べ始めた。湯気が立っている焼きそばは美味そうに見えたが、とても食欲など湧かず、皿を前に僕はじっと俯いていた。


 オヤジは、クッチャクッチャと音を立てながら、オレンジの柄があしらわれているのが辛うじて見える曇ったコップに麦茶を注ぎ、美味そうに飲みながら食べた。午後の静かな食卓の中で、コップに注がれる麦茶の音は一つの現実のように響いた。オヤジは鼻を鳴らしながら食べ、そして皿越しにノールックで僕の後頭部を平手ではたいた。

「食えっつってんだろ、バカやろう」

 仕方なく割り箸を手に取り(何度か使って、洗った形跡のある割り箸だった。使いまわしているのだろう)、僕も焼きそばを口に運んだ。具材は刻んだキャベツだけのシンプルな焼きそばであったが、香りの通り、ソースの主張が強すぎた。一口、二口と食べ進めると、僕は自分が空腹だった事を思い出した。意外とうまい。


 僕が食べ始めたのを見て、頭のおかしいオヤジも一層美味そうに焼きそばを啜った。そして側にあるレモンの柄があしらわれているコップに麦茶を注ぎ、僕の前に置いてくれた(もちろん最後までその麦茶には手を付けなかった)。そして食べながら語った。

「いいか、人間は喰わないと死ぬようにできている。みんな食う為に働いてる。何の為に生まれてきたのかみんな考えない。生きる為に生きてんだ。お前何歳だ?」

「中ニ」

 と僕は年齢は答えず、学年だけで答えた。

「お前には将来の夢もあるだろう。だが、先に言っておくと、その夢は叶わない事の方が多い。何でかわかるか?」

 オヤジは美味そうにムシャムシャと食べながら、眼鏡越しに少し微笑みながら(恐らく微笑んでいるのだろう)問いかけてきた。僕は首を捻って身振りでわからないことを示した。僕に夢があるかどうかはさておき。

「俺らが考え過ぎると困るやつらがな、空気の中に変なものを混ぜて垂れ流してんだ。考え過ぎるとな、誰だって手を止めて立ち止まっちまうだろう。百万人に一人くらいは、正しい事を見つけちまうかも知れない。そしたら困るやつらがな、いっぱい、いっぱい居るんだ」

 フヒ、フヒヒ、と意味のわからない笑顔を見せながら、興奮気味に頭がおかしいオヤジは語った。眼鏡のレンズは分厚く、白く脂か何かのせいで曇っていたが、注意深くその奥を覗くと激しい斜視であるようだった。


「その空気吸っちまうとな、もう何も考えられなくなんだ。生まれた理由、生きてる理由、一切合切な、全部忘れて生きるだけになっちゃうんだ。うん。生きて、楽しいことだけやっちまうんだ。金稼いだり、おめこしたり、とととにかく気持ちいいことしか出来なくなっちまうんだよ」

 オヤジはとりわけ池袋や五反田にある煙突群の成り立ち(何故そこに煙突群ができたのか)、煙突の次に狙われているのは貯水池であること、既得権益を守るユダヤ人が介入したことで世界のバランスが崩れている事などを真顔で話した。僕は最後まで食べ終わってしまったので、じっと皿を見ながらその話しを聞いていた。皿の上にぺたりと横たわるキャベツの切れ端は、社会科の授業で観たビデオを思い出させた。地雷を踏んで戦死したドイツ兵だ。……今は何時なんだ、そして僕はいつまでここにいるんだ。


 恐らく二時間以上はそこに留まった。陽は暮れ、五月とは言え肌寒さが辺りを覆ってきた。頭がおかしいオヤジは世界を覆う欺瞞と偽善と権力者の企みを熱っぽく語り続けていたが、僕はもう限界だった。

「もう帰ります」

 オヤジはハッとして僕の顔を見た。一体こいつは何を言っているんだ、という顔をして。それは僕の台詞であるはずだった。

「友達も親も、そろそろ帰らないと心配するので」

「あ、あぁそうか。うん、それもそうだな」

 伏せ目がちにした頭のおかしいオヤジは5歳くらい老け歳老いて見えた。点灯させた蛍光灯の光は弱く、皺と白髪を一層際立たせていた。僕は小便もしたかったが、この家のトイレは使いたくなかった。

「玄関はそっちだ」

 僕は一応、ごちそうさまでした、と小さい声で言ってから椅子からおり、玄関へ向かっていった。オヤジはその後ろをついてきた。気のせいか、オヤジは寂しそうな顔をしているように見えた。僕はボールの事を思い出した。

「すいません、今までこちらに入ったボールも返して欲しいのですが」

 スニーカーを履くと、思い切って言った。オヤジはああ、うん、と言いながら一度奥に引っ込み、洗濯カゴに入ったボールを僕に突き出した。

「ありがとうございます」

 と言いながらそのカゴごと受け取ろうとしたが、オヤジは

「ボールだけ持っていけ」

 と力なく言った。僕は手ぶらだったので、ズボンのポケットに詰め、両手いっぱいにもった。オヤジはぼーっと、半ば放心状態で僕を眺めていた。やっぱりこのオヤジは頭がおかしいのかもしれない、と僕は思った。だが、何故かそれと同時に以前抱いていた恐怖心のようなものが薄らぎ、得も言われぬ親近感のようなものが生まれていることに気が付いた。


「おじさんが子供を銃で撃ち殺したって噂を聞きました」

 何も言わずに出て行けばいい、ということは分かっていた。ただ、所在無さげに立っている頭のおかしいおやじに一声掛けずにはいられなかったのだ。

「多分、誤解してたんだと思います。焼きそば、ごちそうさまでした」

 そう言って踵を返し、引き戸を開けようとしたところで、おやじが言った。

「子供は撃ってないが、銃ならある」

 僕は思わず振り返った。

 オヤジは下駄箱を開けると、中をゴソゴソと漁った。十年以上履いていないであろう革靴や、女性用のサンダルなど、ゴロゴロと玄関に散らばった。

「ほら」

 リボルバー式の拳銃が不吉に黒く光った。

 オヤジは安全装置を確認し、シリンダーをスライドさせた。そしてチャっと器用に元に戻すと、僕に向けて銃口を向けた。

 僕は無言でダッシュして来た道の垣根に飛び込んで、一目散に逃走した。考える暇も何もなく、ただ一目散に五月の暗くなってきた道を走って逃げた。声も出なかった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る