タカハシが居なくなった

 あの日から数日経った。

 脈々と受け継がれてきた、少年殺しの頭がおかしいオヤジ伝承の謎を解明した事、それと全てのボールを救出したことで、僕はちょっとしたヒーローとなった。みな口々に頭がおかしいオヤジの様子について聞いてきたが、あまり明確には答えなかった。僕を屋敷に潜入させた直後に皆が帰ってしまった事についてわだかまりがあったからだ。実際にそう言ってやった。

「僕を人殺しの家に潜入させておいて、みんなとっとと帰るなんておかしいだろう。友達って、そういうもんじゃないだろう」

「は?」

 野球友達の数人はキョトンとして僕に言った。

「ずっとお前の事みんなで待ってたぞ。でも出てこないから、夕方位にみんな帰ったんだ。音沙汰もないし、ジュウセイもしなかったから中で仲良くやってんじゃないかって話して。サイトウは一人でとっとと帰ったけど。なぁ?」

「そういうところだぞ!」

 と僕は怒って言った。せめてそんな嘘をつかなければ、みんなが知りたがってる頭がおかしいオヤジについて詳細に語ってやらなくもなかったのだ。みんな、戸惑ったように僕を見たが、また別の話題に変わっていった。ファミコン、ラジコン、夏休みの予定、少年ジャンプ、気になる女の子のことなど。我々にはその他に語ることが沢山あった。細かな事に構っている暇はなかった。


 あの日、僕はそのまま自宅まで暗くなる寸前の街を全速力で走って帰った。夕食の準備をしている自分の家に辿り着いた時は、心の底からホッとした。暖房が効いており、暖かな光と夕食の匂いがした。夕食時に、何度か今日の出来事を話したくなったが、黙っておいた方が良い気がした。まず、頭のおかしいオヤジについて説明しなくてはいけなかったし、両親にその話をすると大きな事態になってしまう予感があった。


 夜眠る時には、銃口をこちらに向ける頭のおかしいオヤジを思い出した。どんな顔をしていたかは思い出せなかったが、冷たい黒い銃口がぽっかりとこちらに向いている光景は瞼の裏に焼きついていた。あれは、僕を撃とうとした訳ではない。根拠は無いが、何となくそんな気がした。そもそも、あれは本物だったのだろうか? とにかく、黙っておこう。目立ちたくない。僕のせいで警察が動いたり、親連中が先生に何かを訴えるところを想像しただけで胃が締め付けられる気がした。物事の中心に居たくない。


「銃は? あった?」

 学校の休憩時間にガムを噛みながらサイトウが聞いてきた。僕はこの少年の事があまり好きではなかった。人に命令する事に抵抗がないタイプの人間が僕は嫌いだった。

「偽物だってオヤジは言ってた。人も撃ってないって」

 と僕は答えた。一つは未確認だが、一つはオヤジの口から聞いた本当のことだ。だが、僕を置いて逃亡したサイトウにいちいち事情を説明する気にもならなかった。

「だろうな、ここ日本で本物の銃なんか手に入れられる訳がない。当たり前だ」

 ふふん、と少年が笑った。

「今度あのオヤジボッコボコにしてやろうぜ。どうせ大したことねーし。俺らがビクビクする道理もねーしな。リベンジだリベンジ!」

 いいねえ、やっちまおうぜ!と周りに同調する奴らでしばらく場は盛り上がった。



 平穏はしばらくの間続いた。

 


 ところで、僕には好きな女の子がいた。タカハシという二年前に横浜から引っ越してきた子で、少し挑戦的に上向いている唇が特徴的な、ちょっと勝気で社交的な女子だ。彼女は誰とも仲良くしているように見えたし、周囲も彼女を少し特別に扱った。


 身長も女子の中ではクラスで一番高く、顔も綺麗に整っており、運動も得意だった。授業中もよく発言したので、教師からも信頼が厚かった。彼女に話し掛けられると、自分がまるで特別な人になったような気がした。

「キミはさ、本当は友達一人もいないよね」

 とタカハシは僕に言った。

「でもま、しょうがないよね。学校って、そういうところもあるからさ」

 と言ってニッコリ笑った。僕はタカハシのそういう距離感が好きで、放課後に一緒に日直の作業などをする時は胸がときめいた。何を話すでもなく、意表を突かされる言動に興味が湧いてしまうのだ。今ならわかるけど、タカハシだってその当時、本当の意味で友達と呼べる人なんか誰もいなかったんじゃなかろうか。


 そんなタカハシは、サイトウに目を付けられていた。サイトウは見た目も悪くないので決して女の子からモテない訳ではなかったが、家庭環境が複雑らしく、いささかの屈託がある事で、仲が良くなる程に友達が離れていく事が常だった。誰かの気を引かなければ、自分がいなくなってしまう。そんな強迫観念にも似た何かが、彼の周りにいる人間を疲れさせた。何人かの世話好きな女の子が彼に憧れたが、やがて離れていった。そしてタカハシと僕のやや親密な関係に目をつけたサイトウは何かとちょっかいを出すようになった。サイトウは自分が興味のある人間が、と言うよりも、自分に興味を向けて欲しい対象が「自分より劣った誰かに」心を許す態度を取る事が許せなかったのだろう。それは長らく続いた平穏を破るきっかけとなった。


 八月の末、彼女は待ち合わせ場所に姿を現さなかった。僕は落ち着かず、約束の1時間前から待ち合わせ場所の周辺をウロウロしていた。僕はタカハシと地元で開催される花火大会に二人だけで行く約束をしていたのだ。


 僕は駅前で激しい人通りにじっと目を凝らしていたが、それにも疲れてしまい、目を伏せてやがて始まった打ち上げ花火の音を聞きながら、行き交う靴やツッカケを眺めていた。世の中には色んな履物がある。

 タカハシの為に買っておいた烏龍茶もすっかり水滴が乾ききり、生温かくなってしまっていた。僕はそれをそのままもう焼きそばやカキ氷などのプラスチックの器でいっぱいになり始めている駅前のゴミ箱に捨てると、人の流れを遡って駅に向かい、切符を買って電車に乗って帰った。


「花火行く?」

 と誘って来たのは彼女だったし、少なくとも前日までは楽しみにしていた筈だった。授業中に小さく折り畳んだ手紙が彼女からさりげなく手渡され、そこには〈浴衣を着ていくから笑わないように〉、と可愛らしいイラストと共に書かれていたのだ。


 僕はタカハシが浴衣を着て綿菓子を食べる場面を想像して、それは世界で一番可愛い中学生であろうと推測した。僕は完全にタカハシに好意を抱いていたのだ。しかし花火大会の約束が破られたことで、その気持ちの捨て方が分からずにただ戸惑っていた。どこかにしまっていた連絡網の紙を引っ張り出して、タカハシの家の番号を凝視した。ここに電話を掛ければ全て解決する……この辛い気持ちから解放される、そう思うと不思議な気持ちになった。


 翌日、学校はちょっとした騒ぎになっていた。タカハシが行方不明であり、両親から捜索願いが出されたという噂が駆け巡った。全校集会が開かれ、タカハシが所属していた僕のクラスは一人一人が空き教室に呼び出され、担任と教頭によって聞き取り調査のようなものが行われた。呼び出される順番はランダムのようだった。生徒達は一人づつ面談の部屋に行き、事情を話すと教師に告げられた次に呼び出す者に声を掛け、荷物を持ってそのまま帰宅していった。やがて日も傾き始め、教室は徐々にその人数が少なくなり、僕は無人の机が作る黒い影が伸びていく様を自分の席で頬杖を付きながら眺めた。


 僕は予想通り最後だった。誰かが僕とタカハシが花火大会に行くことを知っており、それを教師に伝えたのだろう。何も隠す事はないし、正直に話す以外に僕に出来ることはなかった。


 そうです、花火大会に一緒に行く約束をしていました。はい、六時に我孫子駅前で待ち合わせをしていたのですが、タカハシさんは来ませんでした。そして八時ちょっと前に電車に乗って帰宅しました。電話はしませんでした。今までタカハシさんの家に電話はした事がなかったし、家族の人と話をするのが恥ずかしかったので。


「ふうん、そうだったの」

 担任の教師は僕の話を聞き終えると、手元のノートにさっとメモを取って言った。担任は三年前に配属された音楽の教師で、背が低い、眼鏡を掛けた二十代半ばの女性だった。

「意外だったわ、君とタカハシさんがそんなに仲が良かったなんて、先生知らなかった。どうして気付かなかったのかしらね?」

 と言って僕をじっと見た。微笑んでもなかったし、感情もなく事実を述べただけだった。四十名もの話を聞けばそれは疲れも溜まるのだろう。教頭も隣でじっと腕を組んで目を閉じていた。

「とにかく、今の段階で話を聞くのは君で最後って訳。何かあったら、何でも教えてちょうだいね。例えば、誰かと仲が良かったとか、悪かったとか、お金をたくさん持ってた、とか、何でもいいの」

 僕はじっと俯いて、思い出せる限りを記憶から掘り起こした。しかし、思い出せるのは中学生にしては発育の良い体つきや、授業中に細々と小さな字を書いている時の真剣な息遣いや小さな鉛筆の音だけだった。顔すら曖昧だった。いざ頭にタカハシの顔を想像しようとすると、ひどく不確かな像しか頭に浮かばなかった。父親の度が進んだ眼鏡をふざけて掛けた時のように、頭の芯が痛んだ。僕はタカハシ自身について何も知らなかった事に気が付いた。


「すいません、あんまりよく覚えていません」

 担任の教師が僕を驚いて見たので、いつの間にか自分が涙を流していることに気が付いた。自分でも訳が分からなかった。


 いや、本当はわかっていた。どうしてタカハシは僕との待ち合わせ場所に来なかったのだろう。急に僕の事が嫌いになったのだろうか? それとも何か急な事故にでも巻き込まれたのだろうか? あの夜、家の暗い場所で電話の受話器を持ち上げた時の重さと冷たさが蘇った。それらが教えてくれたのは、僕はどうやら初めて恋をしているらしい、という事だけだった。


 担任は机越しに僕の肩に手を乗せてくれた。そしてその拍子に、担任のノートの前に立てられていた衝立が倒れ、僕はそのノートを目の端に捉える事ができた。

「サイトウ (その下にクシャクシャのメモが貼り付けられている【浴衣のイラストと「笑わないでね!」の文字】) 空き地隣の不審者・過去に通報事案アリ・天王台駅前にて目撃談アリ(警察に確認)」


 翌日、僕はサイトウを空き地に呼び出した。土曜日で、クラスは午前中で終わっていた。教室でサイトウは少し驚いたように僕を睨んだが、チっと舌打ちをし、「何だよ、偉そうに」と言って目も合わさずに帰り仕度を早めた。そして僕達は無言で空き地で向かい合った。


「お前、何で僕とタカハシが花火大会行くのを知ってたんだ」

「は? そんなの知らねーし」

 サイトウは目も合わさずに言った。

「嘘付け! 先生がお前が言ったって言ってたぞ!」

 咄嗟にカマを掛けたが、

「知らねーよ!!」

 とサイトウは大声で否定すると、近付いて僕の胸倉を捻じ上げた。

「おめーの事なんかどうでもいいし、タカハシの事だってどうでもいい。興味ねーんだよ、誰も、お前の事なんか。自意識過剰なんだよ!」

 僕もサイトウの胸倉を掴んだ。僕はサイトウが心底気に食わないことを改めて認めない訳にはいかなかった。はっきりとした憎しみをサイトウに感じていた。何故こんなに僕はサイトウが嫌いなのだろう? 未だかつて、僕はこんなに人を憎んだことを思い出せなかった。

「じゃあ何でお前体育の時間にタカハシの着替えの匂い嗅いでたんだ? クラスで変態って噂が立ってたぞ?」

 僕はサイトウについての噂を本人に告げた。親切を装うふりもできなかった。

 サイトウの顔色が変わった。

「タカハシのリコーダー舐めながらセンズリこいてたって本当か? 家でやった方がいいぞ」

「あああああ!!!」

 サイトウが顔を真っ赤にして激昂し、拳を振り上げた時、大人の大声が割って入った。

「ゴラアああああああああ!」

 頭がおかしいオヤジだった。

 僕もぎゅっと拳を握りしめて応戦体制に入っていたので、その声には虚を突かれた。

「お前ら何やってるんだあああああ!」

 家の方からノシノシと頭がおかしいオヤジが手ぶらでこちらに向かってきた。


 緑のジャージを着ていたが、ズボンは右足だけたくし上げられており、サンダルは互い違いで、左足だけトングを小指と薬指の間で挟んでいた。以前見た時よりも(もう三ヶ月程前になる)少し頰が痩け、頭が薄くなっているように思えた。僕とサイトウは掴みあったまま頭がおかしいオヤジを見た。

「サル供こらああ!」

 頭がおかしいオヤジは僕らの間に割って入ると、ボクシングのレフリーがクリンチ状態を戻すように強引に分けた。

「ジジイ、お前うるせんだよ! ボケ! すっこんでろノウタリン!」

 サイトウが威嚇した。

「お前天皇陛下呼ぶぞ!? 大声で呼ぶぞ!? 陛下、陛下ァーーー!!」

 頭がおかしいオヤジは全力で叫び続けた。

 僕は担任のノートに頭がおかしいオヤジらしき人物が書かれていたのを知っていたので、タカハシの事を聞いてみようと思っていた。少し様子がおかしいが(まあそれは以前からそうなのだが)、ここに乱入してくれたのはラッキーだった。


「僕の友達が行方不明不明なんです。かわいい女の子で、一昨日の花火大会から姿が見えないんです。警察も探しています。家出するような女の子じゃないんです。おじさん、知りませんか?」

「陛下、ホアー! 陛下ホアー!! ヘイッヘイ! ッンカーー!!(ゴホッゴホッ)」

 咽せる程の全力で叫び続ける頭がおかしいオヤジは、完全におかしくなっていた。陛下と叫びたいだけなんじゃないか。

「おじさん!」

 僕は横っ面を張った。

「かハッ」

 頭がおかしいオヤジはキョトンとして僕を見た。あの時と同じだ。錯乱を覚ませば、一時まともな目をする。

「教えてください、見た事があるはずなんです。おじさん、駅前にいましたよね? 花火大会の日、夕方、天王台の駅前にいて、ずっと立ってたんですよね?」

「あ、ああ、いた。花火大会の日、ワシは確かに天王台駅北口で立っていた」







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