パンダグラフ

「確かにワシはあの日、駅前におった」

 頭がおかしいオヤジは呆然とした顔で、宙を見据えながら言った。

「花火が見とうての、花火大会へ行こう思うとうたんじゃが、一人で行くのが急に、急に寂しくなったがじゃ」

 こんなオヤジでも寂しいという思いは抱くのだと僕は思った。…いや、そういえば以前焼きそばを食べて帰る時も、寂しそうな顔をしていたような気がする。

「それで、タカハシに声を掛けたんだろう!」

 サイトウが大きな声で詰問した。

「お前が駅前でぼーっと立ってたのは何人も見てんだ! 汚らしい格好してな! それでタカハシに声を掛けて、どこかに一緒に行って、そのまま姿を消したんだ! みんな見てるんだよ! タカハシをどこにやった!」

「タカハシ?」

「この子です」

 僕は先月クラスに配られた、活動報告のプリント(クラスで遠足に行った時などに生徒の親に向けて配布されるもの)を頭のおかしいオヤジに見せた。それは学校内にある畑にサツマイモの種を蒔く行事の際に撮影された集合写真だった。タカハシは右から三番目の最前列でジャージを着て、まるでカメラマンの頭上にある時計を見ているような表情で写っていた。


 頭がおかしいオヤジは眼鏡を片手で額まで上げ、眉の間に深い皺を寄せて食い入るようにじっとプリントを見た。激しい斜視で、左目を主に使っているようだった。

「見たぞ、タカハシ。うん。可愛い子じゃった……浴衣を着てな、それはもう楽しそうに歩いておった。うん、タカハシはめんこい。将来は天皇陛下のお嫁さんになるかも知れん。めんこいめんこいタカハシ。タカハシはめんこい」

「じゃあ今、タカハシはどこにいるんですか!?」

 僕は興奮して、オヤジに聞いた。

「知らんよ、その子と一緒に歩いて行った。横道に逸れたんだな。うん。そいつがタカハシに声を掛けて、タカハシは何やら驚いた風にして、慌ててついて行ったんだ」

「嘘だ!」

 間髪入れずにサイトウが鋭く叫んだ。

「この変態オヤジは嘘を付いてる! 頭がおかしいインポ野郎! お前いい加減にしないと警察呼ぶぞ!」

 頭がおかしいオヤジの顔色は徐々に赤く蒸気し、目を剥き出しにして怒り始めた。

「何だと貴様ァ! あんな可愛い子とどこでおメコしたんじゃワレェ!」

「このキチガイオヤジ! テメー中学生に何言ってるか分かってんのか! 警察呼ぶぞコノヤロー! それとも俺が警察の代わりに逮捕するかこのキチガイやろー!!」

「警察ぁああああ!」

 頭がおかしいオヤジは一際大きな声で叫ぶと、腰の後ろに手を回し、銃を右手で取り出した。そして安全装置を外すと、まっすぐサイトウに向けて銃口を向けた。

「天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」

「おじさんやめて!」

 僕は咄嗟にオヤジの右腕に飛びつこうとしたが、左鉄拳が顔面に炸裂し倒れ込んだ。血の味が喉の奥に広がった。サイトウは怯えた顔でジッと頭がおかしいオヤジを見ていたが、不意に「へっ、本当に持ち歩いてたんだな」と笑った。

「それは偽モンだ、分かってんだよ」


 パン

 チュン


 サイトウの左脚前に土煙が立った。

「え…?」

 サイトウは唖然とした顔で土煙と頭がおかしいオヤジを交互に見た。


 パンッ

「ぃてえぇえぁぁぁ!!!」

 サイトウが目の前で転げ回った。弾丸は左脚に命中したようだった。僕は首を曲げて、這いつくばってる地面から頭がおかしいオヤジを仰ぎ見た。頭がおかしいオヤジは涎を唇の端から垂らせ、焦点が合わない上目遣いで尚も右手一本でサイトウに照準を合わせようと、微妙に体を揺らしていた。サイトウが転げ回っているので、狙いがつかないのだ。

「やめろーー!!」

 僕は身体を起こし、無我夢中で頭がおかしいオヤジに下から体当たりした。まるで棒が倒れるように、頭がおかしいオヤジは後ろにそのまま倒れた。僕はがむしゃらに右手に縋り付き、銃をせめて発砲できないように体全体で抑えた。すると、何の抵抗もなく銃は右手から離れ、頭がおかしいオヤジの力もグッタリと抜けた。ハっとしてオヤジの顔を見ると、焦点が合わない目付きでブツブツと呟きながら、唇の端から泡を含んだ涎を垂らしていた。そして僕は、そこに転がっている銃が以前僕に向けられた物とは形が違うことに気がついた。


 その後の顛末について、あまり多く語る事はない。学校中が大騒ぎになったことや、テレビを中心としたマスコミがある事ない事を書き立てた事など、概ね想像通りの事が起こった。そしてその興味の対象が別のもの(政治が熱い時代だったのだ)に移ると、僕の周辺も何事もなかったかのように徐々に平穏さを取り戻していった。


 あの頭のおかしいオヤジが起こした事件は、その特異性からしばしば続報が報じられたが、度重なる政治家の不祥事とその報道が、幸か不幸か我々を守ってくれた。頭がおかしいオヤジはどこにでもいる。そしてそのオヤジがたまたま中学生に向けて発砲し、その住居から60代女性の遺体が発見された、というだけの話なのだ。


 60代の女性の遺体は、あの家の屋根裏からプラスチックのケースに入れられた状態で見つかった。膝を抱えるようにして納められており、腐乱が激しく死因の究明は困難を極めたが、死後1年以内、絞殺によるものと推定された。


 つまり、僕があの家で焼きそばを食べた時には既に屋根裏にはその女性の遺体が置かれていたという事になる。被疑者はもちろん頭がおかしいオヤジであったが、その言質をとるには未だ至らないようであった。精神薄弱、精神異常、言葉を交わすに至らない自白は二転三転し、弁護士を悩ませた。その解決には恐ろしい時間が必要であろうことは誰でも想像がついた一方で、結末には誰も興味がなかった。頭がおかしい男の自宅から遺体が出てくるのは(そうでない場合と比べて)極めて自然であり、犯人だってほぼ決まりであるからだ。いちいち証明せざるを得ない関係者が気の毒である程だ。



 では、タカハシはどこに行ったのだろう。



 僕は、頭がおかしいオヤジが言った、サイトウがタカハシをどこかへ連れて行ったという事について、絶対に誰にも言わなかった。警察にその場での会話や行動について根掘り葉堀り聞かれたが、一切喋らなかった。


 サイトウは大人に取り入るのが天才的に上手かった。そして、その力を持っている事を自分で理解し、巧妙に行使した。男の大人は自分の幼少時代を思い出すかのように、誰もがサイトウを細い目で眺めた。女の大人は、まるで自分の弟や息子を慈しむようにサイトウを可愛がった。サイトウはその大人がどうすれば自分を大切に扱うかを本能的に知っていたし、演じる事を楽しんでさえいた。チョロい、と内心舌を出しているサイトウに誰も気付かないのだ。それとも僕だけがそれに気付いていたのだろうか?


 ともあれ、大人達は、中学生である僕もとても大切に扱ってくれた。むしろ銃を構えたキチガイに向かっていった僕を褒め称えてくれた程だった。撃たれたサイトウも同様に英雄扱いされていた。世間は僕とサイトウに同情的だった。受験社会である現代において、失われた子供同士の絆を取り戻す美談として語られた。


 サイトウは世間一般の興味が自分に向けられている事で、世界で一番幸せそうな時間を過ごしているように見えた。大人やマスコミが自分に望む像を一瞬で把握し、その通りの役をこなした。怖がっていて欲しければいくらでも怖がり、健気な少年さを求められればその通りにした。僕はそういうサイトウを目の当たりにして、心底ウンザリした。世間が僕とサイトウを仲のいい友人としている中で、その間には緊張感が張り巡らされていた。不自然な程に語られないタカハシの件について、欠落こそがその存在を雄弁に語っていた。


 サイトウは事件が落ち着いた半年後、中学三年生になる前に転校していった。クラスの何人かで新幹線のホームまで見送りに行った。僕は気は進まなかったが、周りの後押しもあり、止むを得ずそのわざとらしい見送りに参加しなくてはならなかった。親しい友人同士の間で形だけの挨拶が済んだ後、サイトウとその両親が新幹線に乗り込んでいった。


 窓越しに僕とサイトウはじっと目を合わせたまま、どちらも逸らさなかった。新幹線のドアが閉まり、滑るように新幹線が動き出すと、サイトウは口の端でニヤリと笑った。僕はその瞬間を見逃さなかった。その小さな、決して僕以外の誰にもわからない笑みは、小さな癌細胞のように僕の中に根付いた。周囲のクラスの人間が手を振りながら大きな声を上げている中で、僕は一人で立ち尽くしていた。


 最初は音もなく新幹線は動き始め、やがてモーター音の高鳴りと共にパンダグラフが電線と擦れ合うシュルシュルという音を発し始めた。やがて赤いテールランプがその信号機に隠れ陽炎の遠くへ行ってしまった後も、僕は息すらできなかった。担任の教師が心配そうに僕に声を掛けてくれたが、まったく聞き取れなかった。大切な友人が出発して、泣いていると思われたのかも知れない。違う、そんなんじゃない。



 

 あいつがタカハシをどうにかしやがったんだ

 タカハシをどうしやがったんだ

 タカハシを返せ

 今すぐ返せ



 でも僕は声も出せない。










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