空気の中に変なものを

(性表現を削除した)


 職員室の電話が鳴った。近くに居た担任がその受話器を偶然取った。


 映画館を出て、ヤスダの妻はすぐに高島屋の開店待ちの行列に並んだ。ベージュのワンピースとその両手には血がベットリと付着していたが、本人はまったく意に介さなかった。周りの客は不気味そうにヤスダの妻を遠巻きにして見ていた。明らかに尋常ではない状況であったが、そうした場面において、人は正しい行動とは何か、そしてそれは自分が取るべき行動なのかを自問自答する事になる。


 青白い顔をし、そこはかとない笑顔を時折浮かべながら独り言を呟く女性。ひどい髪型で、ショルダーバッグを斜め掛けにする血まみれの女性を前にして、人は何が出来るだろうか?


 開店と同時に、先頭にならんでいたヤスダの妻は足取りも軽く、先頭で入店した。その後ろをしばらく開けて、一般の客が入店してきた。朝一番で客を迎える、およそ心清らかそうな微笑みをたたえる従業員達は一瞬でその表情を素に戻した。そして紺色のスーツを身に付けた穏やかそうな男性職員がバックヤードに消えると、警備員を連れて再び現れ、ヤスダの妻の後ろをそっと付いて歩いた。然るべきタイミングを見計らって、その職員はまるで自分が悪いことをした事を謝るようなトーンで声を掛けた。「大変失礼ですがお客様、どちらかお怪我をされてはいませんか?」


 警察からヤスダの妻逮捕の報を偶然いち早く受けた担任の教師は、タカハシが孤独の身になった事を知った。タカハシの実の両親とは連絡が取れず、親戚の叔父は殺され、犯人のその妻は逮捕された。誰かがこの気の毒なタカハシの責任を負わなければならない。


 担任は警察からの電話を切り、誰も居ないコーヒーの香りが染み込んでいる職員室で一人でしばらく考え事をした。野良犬みたいに頭が悪そうな野球部員達の品の悪い掛け声や、金属バットがボールを打つかすかな音が正午過ぎの光と風を運ぶ窓から聞こえてきた。


 担任は両方の手のひらを合わせ、親指の上に自分の唇を合わせると上下に擦った。考え事をする時のこの癖は大学生の頃から変わらなかった。しばらくして、意を決するように手帳をバッグから取り出すと住所録のページを開き、番号を口頭で小さく復唱しながら卓上の電話を手に取った。そして知り合いが勤務している県外の孤児院施設にダイヤルを回した。


 タカハシはもうこれ以上、ここにいるべきではない、という担任の直感が背中を後押しした。その手配が終わるまで二週間程、タカハシを自分のアパートに住まわせた。


 タカハシは自分からは多くを語らなかったが、担任はそれを察した。おおよその経緯は警察から話を聞いていたが、その事についてタカハシに話を促すことは避けた。事情と状況は知っている。タカハシが話したければ話せば良い。話せば気が楽になるなんて嘘だ。大嘘だ。自分の体験を言葉という明確な形で再び置き直す事が、どれだけ心に大きな負担を掛けることになるか、担任は自身の体験として知っていた。もう大人は充分タカハシを傷つけた。誰か大人がその一部を引き受けたって、全然構わないじゃないか。例えばそう、私が。


 タカハシは良い天気の日も雨の日も、毎日一歩も外出せずに担任が住むアパートの暖かい部屋で過ごした。殴られて青黒く斑らになっていた顔の痣は日を追うごとに赤みを帯びた黄色に変色し、やがて肌の色と同化していった。タカハシは毎朝包帯を取り、鏡に向かってその移り変わりを時間を掛けて確認した。私は生きている、とタカハシは鏡を見ながら何度も思った。だから痛い、だから醜いのだ……もちろん、今のところは。


 担任が出勤して留守の日には、タカハシは主に洗濯と洗い物をした。ベランダに設置されている二層式洗濯機はすぐに使いこなせるようになった。狭い部屋なので掃除はあっという間に終わった。昼食の支度はいつも冷蔵庫の中のあり合わせで適当に作って食べた。担任がその補充をしていってくれた。ほうれん草と豚肉を使った料理がタカハシは得意だった。


 そうした一連の日課が終わると、タカハシは暖かいココアを飲みながら炬燵に入り、夕方に掛けてウトウトとまどろんだ。時折プッシュホン形式の電話けたたましく鳴った。タカハシは物心ついた頃から電話にはすぐに応答するよう、両親や親戚にきつく躾られていたが、担任の部屋に住む間は電話を無視するように言われていた為、その習慣をやり過ごすのに苦労した。タカハシは息を詰めてその電話が鳴り続けるのを眺め、切れるとホッと息をついた。電話のベルが止むと、アパートはさらに静けさを増したように思えた。


 担任は音楽の教師だったので、ハイドンやモーツァルト、ショパンなどのカセットテープがビクターのラジカセと一緒に綺麗に並べられていた。気が向くとタカハシはそれらの中から適当にカセットテープを放り込んで聞いていたが、それよりも好きだったのはAMラジオだった。顔も見たこともない女性パーソナリティーがハガキを読んで、時折クスクスと笑いながら世界の平和をタカハシに告げた。落ち着いた、暖かみのある声を通じて語られるどこか誰かの日常は、夕方五時の琥珀色の孤独に脅かされるタカハシの気持ちにピタリと寄り添い、励ましてくれた。


 特にタカハシが印象に残ったのは、「同級生の高校生の彼女がいるんだけど、彼女はセッ■スの最中、イク時に必ず『なるほど、なるほどー!』って絶叫するんです。僕はそんな彼女があんまり好きではありません。でも大好きです」と言うような内容だった。性的な話題に突然触れ、タカハシの体は一瞬硬直したが、その内容の下らなさに思わず吹き出した。パーソナリティーの女性も笑いながら「『なるほど』と言いたくなる気持ちも分からなくもないよね。その角度か、はいはいその角度でくるのね、みたいな」と感想を述べた。


 世間ではセッ■スは日常として当然のように行われているし、そのほとんどが概ね幸せに遂行されているようだった。タカハシはその事実について考えることを一時的に保留した。

「でもね、きっと君のテクニックと情熱が彼女をハッスルさせてるんだと思う。……ねぇ、イかせてくれる男って都市伝説じゃないの?」

 と女性パーソナリティーが隣に座っている誰かに同意を求めるように問いかけた。「フフ。はい、じゃあアタシが単なる恵まれない不幸な女ってことで。ね。教え方が上手な教授は、これからも避妊を忘れず仲良くしてちょーだい。フフフ。恵まれない女性に愛の募ッ金を!」。

 その後ジングルと共に番組が終わり、交通情報を伝える冷たい男性アナウンサーの声が聞こえてくると、タカハシはラジオの周波数を変えた。それから竹内まりやの歌が流れている局に合わせ、聞くともなしに頬杖をついて考え事に耽った。


 担任にとっては、タカハシが家で洗濯や掃除、食事を作る手伝いを積極的にしてくれるので、家事が楽になった程だった。良い子ぶるでもなく、自然とそれらをこなせるタカハシに担任は驚いた。担任はタカハシが十歳以上も年下であるにも関わらず、徐々に友人として接しつつある自分に気が付いた。


 夜になると、二人は一緒の布団に入って眠った。二組も布団が無かったし、敷くスペースもなかったからだ。最初はタカハシもぎこちなかったが、徐々に慣れていった。タカハシが身を寄せて来ると、担任は存分に抱きしめてやった。時々、タカハシは声を出さずに泣いていた。

「大人になっても泣きたくなる時はあるんだよ」

 担任は、もう気付かないふりが出来ないと悟ったある日の夜、いつものようにタカハシを胸に抱きながら思い付いたように言った。

「大人なんか嫌い、大人になんかならない」

 タカハシが声を絞り出すように、担任の胸の中で言った。担任は黙って頭を撫でた。


 私もそうだった、と担任は懐かしく思った。でも、大人になって良かったことも想像してたより十倍はある。想像していたよりも怖くもないし、辛くもない。でも、今のタカハシはきっと信じてくれないだろう。大人になっても、暖かい陽だまりでまどろむ子猫をそっと両手で持ち上げる時のような、幸福感で胸が満ち溢れる瞬間があるという事を。そしてその瞬間さえあれば、どんなに辛くても生きていけるという事を。そんな事を担任からタカハシに伝えるには一夜は短すぎた。


 仕方がないので、担任は代わりに思いっきりタカハシの脇腹をくすぐってやった。タカハシもくすぐり返してきたので、二人で大笑いしあった。それから二人でぐっすりと眠った。


 タカハシが施設に出発する日、担任は自分の軽自動車で駅までタカハシを送った。書類やお金の問題など、然るべきところに申請をし、承認と却下を幾度となく繰り返し、細々とした諸事情を乗り越えて辿りついた出発点だった。電車の始発が出発を待つ在来線のホームで、二人は無言で向かい合った。


 タカハシは顔の包帯を外していた。顔の痣はだいぶ目を凝らさないとわからない程度に元通りになりかけていた。代わりに大きなヤクルトスワローズのキャップを目深に被り、長いクリーム色のマフラーと青いPコートを身に付け、カーキ色のパンツと黒いハルタのローファーを履いた。その足元に日常品をパンパンにまで詰めたボストンバッグ(担任が上京する際に使用したもの)を置いて出発の時間を待った。周囲はまだ薄暗く、雲が厚く立ち込めていたが、鳥の控えめなさえずりが夜明けを予感させた。

「お礼なら、指定の口座に一億円くらい振り込んでくれればいいわ」

 担任が冗談めかして言った。息が白くなってどこかへ飛んでいった。

「全国竹藪巡りツアー」

 タカハシが笑って言った。

 それからしばらく無言が続いた。出発のベルが鳴ると、タカハシはボストンバッグを担いで電車に乗り込んだ。担任が笑顔で言った。

「私はまだ結婚もしてないし、子供もいないけど、もし子供が出来て女の子だったら、あなたみたいな子がいいなって思ってる」

「先生ありがとう」

 タカハシは差し出された担任の手を握って、目を真っ直ぐに合わせて礼を言った。その手を離すと、二人を分かつように電車のドアがガタガタと閉まった。そしてモーターが大きな溜息を吐くような音を立てて、電車は重たそうに車体を揺らし出発して行った。担任はその赤いテールランプが見えなくなるまで、ずっと見送った。最後に合わせたタカハシの目を思い出しながら。


 さて、これから学校に戻って色々報告しないとな、と担任は現実に向き直った。担任はタカハシについて、学校に一切の報告も相談もしていなかった。教育という大きな組織が、ひとりの女の子の幸せだけを考えて、親切で適切な行動を取るとは思えなかったからだ。あるいは、組織として適切な行動と判断を下した結果、グロテスクな程間違っている場合が多々ある事を担任は知っていた。全ては事後報告だ、と担任は思った。キョウイクが私にその責任を取れというならいくらでも取ってやる。私にだって、出来る事は出来ない事と同じくらい沢山ある。さようならタカハシ。あなたには幸せになって欲しいと心の底から願っている。




(地下鉄の音が通奏低音として響いている。だがそれは、隣家の開かれた窓から漏れ出るAMラジオのように不均一で不確かだ)




 タカハシは大人になっていた。顔は大きな瞳をそのままに額から顎のラインが美しい女性へと変貌していた。髪は結い上げられ、うなじから結われ損ねた短い柔らかな髪が跳ねていた。■も丸みを帯びて大きく成長し、くびれからほんのりと贅肉を付けて張り出した■は女性らしさを充分に漂わせた。

 

(性表現18行1066文字を削除)


 またか、と僕は思った。何だって、タカハシとセッ■スするのはいつも僕じゃなくてサイトウなんだ。

「サイトウ君、好き、ずっとずっと、好き」

 タカハシが僕に覆いかぶさり、何度か大きく震えた。



 

 僕はサイトウを殺そうとして、反射的に自分の口を開け銃口を飲み込んだ。引金を引くところまであと一歩のところで地下鉄のさらなる轟音が我々を包み、僕は辛うじて自分を取り戻した。僕は僕だ、サイトウではない。その事実を飲み込むまでの数秒の間に激しい頭痛が襲ってきた。ここは地下鉄だ、ここは地下鉄だ。


 サイトウが絶叫した。そうしなければ聞こえない程の鋼鉄がぶつかり合い、軋む轟音が鳴り響いていた。

「タカハシの心はずっと俺にあった! 今は俺と一緒に暮らしている! 愛し合ってんだよ! 俺とタカハシは! あいつにとって、お前の事なんか何でもなかった! どうでも良かった! 最初から何でもなかったんだ! ゼロだ! 愛する女が自分じゃない男を愛してる気持ちはどうだ! 死にたいだろう! 死ね! 死ぬ事でしか解決しない! 死ななければお前は一生負け犬として生きていくしかない! 引金を引いて楽になれ! 死ね! 死ね!! ヒャハハ!」

 僕はそのままダラリと銃を持った右腕を下ろし、サイトウに向けて発砲した。顔を天井に向けたまま、サイトウの顔すら見ず、明らかな狙いもつけず、サイトウが座っているらへんに六発全てを連続で発砲し、明確な殺意を持ってサイトウを殺害した。乾いた発砲音が六回響き、暗闇にひときわ明るい閃光が車内を走った。窓枠の形が一瞬だけ闇の奥に吸い込まれていく地下鉄の外壁に焼き付いた。僕は銃弾が尽きても何度も銃のトリガーを引き続けた。


 地下鉄の車内が通電し、蛍光灯がざらついた光を取り戻すと、車体はプラットホームに滑り込んで行った。同じ車両に座っていたまばらな乗客達は、悲鳴を上げて別の車両に避難して行った。


 僕はサイトウの死骸を見下ろした。顔には体に着弾した際に飛び散った血が付着していたが、驚いた表情の唇の端に例の三日月のようなこわばりがへばり付いたまま固まっていた。僕は開いた自動ドアから、銃を右手に持ったまま逃走した。ホームを走り抜ける際に目の端で駅名を確認すると、神田だった。僕は改札を走り抜け、全速力でその先にある階段を走り上がった。駅員が数名後ろから追ってきたが、すぐに諦めてトランシーバーに向かって何か叫んでいた。恐らく警察に通報しているのだろう。


 地上へ飛び出すと、人通りはまばらだった。地下の生暖かい独特な地下鉄の匂いが消え、恐ろしい程の現実感を伴う三月の冷えた空気が満ちていた。腕時計の針は、午後十一時半に掛かろうとするところだった。あと三十分で電話ボックスに辿り着かなくてはならない。タクシーを使うことも考えたが、空車が一台も見当たらなかったので、徒歩で向かう事にした。


 そもそも、と僕は思った。僕だけの特別な場所へ、タクシーという文明の賜物に金を払って乗車し、運転手を使役して向かっていいのだろうか。僕は深く考え過ぎなのだろうか。

 僕は後ろを確認し、誰もついて来ないのを確認すると風景に紛れるように息を整えながら歩いた。襟を正し、スーツの上着を下に引っ張って皺を伸ばし、持っていた銃を腰のベルトに挟んだ。このまま歩けば末広町駅はすぐだ。その手前に電話ボックスがある。急げば間に合うだろう。


 少し歩くと万世橋に差し掛かった。確か警察署も近くにあったはずだ、とぼんやり思い出すと、まさに橋の先にある交差点から左折してきたパトカーが数台、けたたましいサイレンを鳴らしながら僕の脇を走り去って行った。やはり僕はサイトウを殺したのだ。恐らく殺したのだろう。冷たい風を受けて汗が冷えていくと、だいぶ落ち着きを取り戻してきた。


 僕は何でもない風を装って歩いていたが、腰に挟んだ銃が邪魔になってきた。ゴツゴツと骨に当たって痛い。警察署が近いが、今なら誰も見ていないし、川に捨ててしまえば見つからないだろうと思った。もうこんな物を持ち歩きたくない。僕は辺りに目を配り、誰も僕に注意を向けている者がいない事を確認した。そして歩きながらさりげなく腰から銃を抜き、万世橋の中程で右側の欄干の上からそれを川に向けて放った。ドボン、と重みのある物が水に落下する音を背後に聞き届けた。


「ずっとお前を見ているぞ」

 不意に僕の耳元でしわがれた男の声が囁いた。先程まで、僕の後ろには誰もいなかった筈だ。これはこの世の者ではない何かが、僕に囁いているのだと思った。世にもおぞましい何かが形をもって、僕に語りかけているのだ。相手にしてはいけない。

「サイトウを殺してスッキリしたか? 自分が嫌いな奴を殺してスッキリしたか? 気持ち良くなったか? よかったな」

 ゲヘヘ、と耳元でその男が下衆に笑った。

「お前には一生幸せになれない呪いがかかってる。羨望、嫉妬心、愛されたい欲望、それらを隠すための偽りの顔、偽りの心、誰だって持っているものだが、特にお前はその気持ちが強すぎる。隠す仮面が厚すぎる。誰かに認めて貰いたがっているのはお前自身だ。誰も認めてくれないのは、自分ではない【何某がそれを阻害しているからだ】と考えている。【世界が悪いからだ】と考えている。でもお前には何もない。ただのゼロだ」

 何を言ってるんだこいつは、と僕は思った。これなら無視して万世橋を渡りきれる。渡りきったらこいつは消える、という確信があった。

「だから誰にも愛されない、愛される要素がない。マイナスならまだ価値はある。マイナスは事によってはプラスに転じるが、ゼロは世界が反転しようが、海の水が全て蒸発しようが、何をしてもゼロでしかない」

 僕はさらに足早に歩を進めた。もう少しで橋を渡りきれる。

「もちろん、タカハシにも愛されない。愛される筈がない」

 僕は思わず立ち止まった。


 僕は今、橋を渡っている。こちら側から、あちら側へ渡る橋だ。今振り向けばさらなる対価を支払う事になるだろう。絶対に振り向いてはならない、しかし僕の足は意志に反してピタリとそこから動かなかった。何かしら重要な事実がこれから明かされる予感があったからだ。

「タカハシはサイトウと幸せに暮らしてた。毎日お、オメコして子供を作る予定だった。サイトウはクズだ。どうせろくな死に方をしない。だがタカハシはサイトウを愛した。どうしようもなく愛した。それをお前がさっきぶち殺した。豚みたいに屠殺した。お前が愛し、お前を愛したタカハシは1985年に死ぬ。高校生に殺される。高校生に首を締められて。かわいそうなタカハシ」

 その男はとても深い咳をした。肺の底から空気を一片たりとも残さない、強い力が働いた咳だった。しばらくその男は咳き込んだ。


「会わせてやる」

 僕は思わず首だけ左後ろを振り向いた。振り向いてしまった。その顔は思ったよりも近くにあった。肌は黒くボロボロだった。毛むくじゃらで、ガタガタの黄色味がかった乱杭歯が分厚くひび割れた紫色の唇から垣間見れた。四角い眼鏡は指紋でベタベタに曇っており、そのレンズの奥から推測される目は激しい斜視だった。頭がおかしいオヤジだった。


「陛下より賜る」


 チクリと左腰に刺しこむような痛みがあった。僕はそこを抑えてようやく体全体で振り返ったが、誰もいなかった。知らない誰か数名が怪訝な顔をしてすれ違って行った。


 僕はそのまま電話ボックスを目指して歩いて行ったが、その体の変調に気付いたのは咳をした時だった。左手のひらが血で染まっていた。僕の血だ。それから、いつの間にか口の端から血が溢れているようだった。痛みはない。あのオヤジ、僕を刺したみたいだ、とようやく気が付いた。恐らく身体に刺しても気付かない程の細く長い何かで。


 僕は左手で腰を抑えながら歩いたが、だんだん視界が狭く、ぼやけてきた。少し空腹のような気もするが、同時に吐き気も催している。暖かい何かが食べたい。僕はロイヤルホストのハンバーグと付け合わせの人参のソテーを思い出した。勘弁してくれ。もっとまともな何かが良い。まともな何かだ。違う、ビックマックじゃない、ビックマックじゃない。…どうして冷たいマックシェイクも付いてくるんだ、ポテトもいらない、頼むやめてくれ。


 冷たい風が吹いた。そのレンガ造り風の雑居ビルの通りを左に行けば電話ボックスがある筈だった。僕は腰を抑え、ほとんど足を引きずるようにして歩いた。僕のスーツは深い濃紺だったので血はそれ程目立たない筈だったが、スラックスの臀部から左足の後ろ部分は僕自身の血で少し湿って重たくなっている感覚があった。


 果たして、その電話ボックスはあった。古ぼけた汚いシールがベタベタと貼られたやや青白く透き通ったアクリルで囲まれ、それらがボックス内の照明で清潔そうに明るく光っていた。緑色の電話機が収められているのが見えた。


 だが誰かがそこで通話中だった。近くに寄ると、それは茶髪ソバージュの派手な若い女性だった。躰の線がクッキリ見える黒いボディコンに毛皮のコートを羽織り、タバコの吸い殻をボックスの外でハイヒールで踏み消しながら下品な笑い声を上げていた。扉を開けて大声で話していたので、その内容が嫌でも聞こえてきた。僕はどうにか電話ボックスにもたれながら地面に座り込むと目を閉じ、聞くともなしにその話を耳に入れた。電話ボックスの隣に設置されている、枯れた草花をそのまま放置している小汚い花壇から、土と小便の混ざった懐かしい匂いがした。





















「それっておととい? 飲んだ後のはなし??」



















 フフフ

























「ダメよ、気を付けないとモー」





















 ンフ…ンフフ


























「それってモトネはいくらなの? 300円くらいなんじゃないの?」






















 プーーックックック





















(カサカサ… カチッカチッ …フー)




























「マジでさ、警察行った方がイイってそれ…うん、うん」

































「逆に逮捕されちゃうって!? バクショーーーー!!」

 


 死ぬ程下らない話だった。まずお前らは電話局の人に謝れ、土下座しろ、と僕は内側から熱い怒りが込み上げてきた。電話局の人達はお前らのそんな糞くだらない話を繋げる為に、日々額に汗して働いているのだ。しかも、電話ボックスの隣で空きを待つ僕は、ついさっき頭がおかしいオヤジに刺されて普通に死にかけていた。冗談ではない。


 重たい左腕を上げて腕時計で時間を確認すると、11時58分だった。あと2分でこの話も切り上げるとは思えなかった。これ以上は待てない。僕は電話ボックスにすがるようにして億劫に立ち上がった。手っ取り早く解決しようと腰のあたりに銃を探ったが、既に全弾を撃ち尽くし、万世橋で投げ捨ててしまったのを思い出した。


「すいません、すいません」

 僕は電話ボックスを叩いた。女は会話の途中でこちらを振り向き、ギョッとした顔で僕を見た。女は小太りで、かぶらのような形をした顔をしていた。全体的に顔のパーツが中心によっており、耳を隠すように長い髪が額の中心から分けられて鎖骨のあたりまで流されていた。日々の不摂生のせいか目の下に皺が目立った。だが、今日のところは僕の方がひどい顔をしている事だろう。それは鏡を見なくてもわかる。

「急用でどうしてもここを使いたいんです。申し訳ないんですが、使わせてもらえませんか?」

 女は僕を見ながら電話に向かって

「何かヘンなオジさん来た。ごめんね、後でまた掛け直す。大丈夫、ごめんね、うん、うん」

 と言って電話を公衆電話のサイドフックに置いて切った。電話ボックスからテレホンカードが排出され、ピピー、ピピーと電子音が響いた。

「どうぞ」

 と女が言って、僕に背中を見せないようにボックス内から出た。

「ありがとう」

 僕は礼を言った。

「お大事に」

 僕が流血してるのを見ると、女は走りにくそうに一目散に去っていった。ヒールが高すぎるのだ。


 僕は胸のポケットからペンギンにもらった紙を引っ張り出すと、フックを耳と肩の間に挟んで数字ボタンをその通りに押した。しかし、受話器からはブツツ、ブツツという音以外何の反応もなかった。さっきの女のテレホンカードが排出されたままだったのだ。僕はそれ(女性アイドルグループが印刷されていた)を引き抜いて投げ捨てると、自分のあらゆるポケットをまさぐり、小銭を取り出した。

 動く度に左腰の後ろで鈍痛がズキン、ズキンと響いた。それから投入口に100円玉と10円玉を数枚投入し、改めて数字ボタンを押した。ボタンが血の淡い赤で染まった。電話台の下に置いてある電話帳の上に、さっきの女が忘れて行った開封したばかりのソフトケースのラッキーストライクとピンク色の百円ライターが置いてあったので、一本引っ張り出して咥えてから火を付けた。タバコを吸うのは久しぶりだった。


 豊かな香りがする煙を吸い込んで、僕は耳に受話器を押し当てて誰かが出るのを待った。呼び出し音は、温めたナイフで柔らかいショートケーキを切るように丸く、深い秘密を帯びて僕の鼓膜を叩いた。祈るようにコール音に耳を澄ませていると、八回目のコールで相手が出た。僕はもう一口だけ煙を吸い込むと、煙草を踏み消した。


「もしもし」

 僕は目を瞑り、受話器の向こう側を少しでもわかるように受話器を耳に押し付け、感覚を研ぎ澄ませて話しかけた。僕が僕自身の声を発するのは久しぶりだった。その声は自分ではないように響いたが、アクリルに反射する僕の顔は確かに僕でしかなかった。受話器からは二階から眺める窓越しの雨ふりのような音しかしなかった。

「もしもし? 」

 相手が受話器を持ち替えた様子があった後、弱々しい女性の声が聞こえてきた。間違いなくタカハシの声だった。僕は脱力し、電話ボックスの内側にもたれながら徐々に地面に座って行った。同時に肩で押された電話ボックスの二つ折り引き戸の扉が閉じていった。周囲の音が遮断され、僕は久しぶりに親密で、孤独な安心感に包まれた。

「僕だよ」

 それだけを言うと、涙が込み上げて何も言えなくなった。しばらく嗚咽を嚙み殺そうと努力したが、どうしても我慢した息が漏れ出た。受話器の向こう側は無言だった。

「誰なの?」

 タカハシが訝しげに問いかけてきた。

「さっきまで一緒に居ただろう?」

 僕は今、駅の改札でタカハシと別れた1985年の夜に電話しているのだ。

「あー……。ちょっと声低くない? 泣いてるの?」

「そうかな? 泣いてないよ」

 僕は意図して声を少しあげてみた。中学生の僕はどんな声をしていたのだろう? 全く思い出せない。

「あたし、初めて公衆電話鳴ってるの見たわよ。びっくりしたー」

 タカハシは警戒心を解いて親しげな口調で僕に話しかけた。

「よく電話に出てくれたね」

 僕はその口調と声に懐かしさを覚えながら感謝した。

「家でそう教育されてるから。鳴った瞬間に取らないと鉄拳が飛んでくるから」

 タカハシが真面目な声で言った。

「公衆電話でもそれは変わらない…って、本当はね。無視して行こうかと思ったんだけど、何かね、こう、すごい切羽詰まった鳴り方だったから、つい取っちゃったの」

 タカハシがまるで肩をすくめるような口調で言った。

「切羽詰まった鳴り方?」

「そう。受話器が取ってー! お願いだからボクをとってー!って受話器が。発してたの。ほとんどこっちを見ながら大声で喚くバカな犬みたいに。受話器って男の子かな? 男だよね、多分。受話器って変な棒みたいだし」

「ありがとう」

 僕は心からそう言った。


 こうしてタカハシと話していれば、その外を性欲を持て余した高校生が通り過ぎて行く筈だった。不揃いで歪な性欲を抱えた男子高校生は誰を殺す事なくそのまま帰宅し、眠れない夜の洗礼を受けるだろう。そしてそんな記憶すらいずれは薄れ、大人になった時にふと思い出す事になる。

 例えば十年後、街角を歩いていて、偶然懐かしい香りに包まれた時に。

 突然、目の前に打ち上がる鮮やかな花火と、とある地味だけど、勇気の欠片をかき集めて自分に告白してくれた女の子と別れたあの夜の事を。


 一緒に酒を飲んだ友人はJリーグの選手となったが、二軍でベンチを暖めたまま数年で解雇され、地元の柏でなかなか美味い肉を食べさせるステーキハウスを営む。偶然来店した女性客と結婚し、女の子二人の子供を授かる事になる。

 その恋人だったヤリマンの女の子は大学に進み、教育学科を卒業して教師になる資格をとるが、卒業を待たずに突然海外へ放浪の旅に出て消息不明となる。稀に文章のない絵葉書が知らない国の消印を伴って実家のポストに投函されるという。

 男を振った地味な女の子は無事短大を卒業後、好きな音楽を通じて知り合った男性と結婚し、決して満たされない日常の不満や仕事の悩みを抱えながら幸せな家庭を築く事になる。


 僕は受話器を肩に挟んだまま身じろぎした。タカハシは受話器の向こう側で一通りはしゃいだ後、再び沈黙した。

「今日はちゃんと花火観れなくてごめんね」

 タカハシが謝った。

「いや、良いんだよ。それに花火はちゃんと観れた。小さいけど綺麗だった」

「本当ね」

 タカハシはふふ、と笑った。

「僕はタカハシの事が好きだ」

 それは十年越しでの告白だった。電話に繋がっている先は十年前の電話ボックスだから、二十五歳の男が十五歳の女の子に告白している事になる。だが、タカハシは僕が未来から電話を掛けている事を知らない。

「んー?」

 タカハシはほんの少しの嬉しみを伴って、不思議そうな声をあげた。

「でも私を連れて行ってくれなかったよね?」

「後悔してる。物凄く、死ぬ程後悔してる」

 実際に僕は死にかけていた。

「でも、ちゃんとこれから僕は君を迎えにいく。…きっと、絶対に迎えに行くと思う。だって、本当に君の事が好きだったから。ずっと大切にしたいから」

「ちょっと待って」

 タカハシが急に緊張感をもって僕を制した。

「ねぇ、聞こえる?」

 タカハシが受話器を外に向けた雰囲気があった。そしてそこから聞こえる微かな音は、花火が上がり、そして炸裂する音だった。

「何で今更花火が上がってるんだろう」

 タカハシが弾むように電話越しで言った。

「ねえ、そっちからでも見えるでしょう!? すごく綺麗。ねえ、一緒に見よう?」

 僕は苦労して立ち上がり、電話ボックスのドアを開けて空を仰ぎ見た。あまりにも楽しげにはしゃぐタカハシの声につられて、もしかしたらこちらでも花火が上がっているんじゃないかと思って。でも、もちろんそんな事はなかった。1995年3月20日の夜はどこまでも冷たく、何かしら不吉な予感を纏った満月が僕を睥睨していた。

「すごいねぇ。距離は離れてても、同じ花火が見えるのって、不思議だね」

 タカハシははしゃぎ声で言った。

「ねえ、ちゃんと見てくれてる?」


「街灯と空と……煙突。すごく高い煙突から煙がすごく出てる。きっと空気の中に変なものを混ぜて垂れ流してるんだ」

 月は大きく浮かんでいた。でも、薄明るい東京の星空の下で、主役なのはどうしても黒いシルエットを形作る煙突と、その先端からモウモウと発せられる煙だった。僕はその光景を眺めながら、もう一度タカハシに言った。

「空気の中に変なものを」


「私には大きな花火が見える。すっごいすっごい大きな花火。ねえ、早く戻っておいで。こっちに来て一緒に大きな花火をみよう。一緒に観たいの。それでずっと一緒に、二人の未来を生きよう」










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