花火は何故打ち上がったか

花火は何故打ち上がったか1


 シマダが恋に落ちたのは朝ではなかった。5月の夕方だった。それは車窓から眺める景色の、江戸川が流れる鉄橋を渡っていた時で、空はちょうど昼から夕方に陽射しが変わる瞬間だった。シマダは座席がちょうどいっぱいになる位の混雑時に、立ったまま手すりで体を支え、車窓を眺めていた。通っている中学校が何とか記念日で下校が早まり、普段なら暗くなっている筈の風景を、今日はちょっとだけ早い時間帯に電車は走っていた。光の具合が違うだけで、まるで違う路線のように感じられた。


 その夕方の車窓の手前に、ちょうど扉と座席の間の場所で自分と同じように外を眺めている女子高校生が、シマダが初めて恋に落ちた人だった。その人はブレザーの制服を着て、セミロングの髪を少し明るく染めていた。学生用の鞄を足元に置き、英単語の暗記帳を持って、いかにも暇な時間帯に「英単語を暗記している」ようだったが、シマダが外の風景から車窓の前にいる人にフォーカスを合わせると、その人が泣いているのに気が付いた。車内が琥珀色に染まっていて、シマダは雷に打たれたようだった。日差しが車内にいるサラリーマンや学生、新聞に注意深く目を通しているおじさんや、他に目を閉じている人達と同じように、その女子高校生を分け隔てなく照らし、声もあげず、表情も変えず、ただ暗記帳のその先の夕暮れに視点を預け、涙が溢れている様をシマダは見た。本人は泣いている事に気づいていないのではないか、とシマダは訝しんだ。そうしてシマダは恋に落ちた。純粋に、その人の涙が美しかったから。


 声も掛けずに見惚れてしまったので、女子高生がハッと気付いてシマダと目が合った。目の水晶体が夕焼けに透けて、複雑な模様の影がそのもっと奥に描かれていた。それから自分が泣いていたことを悟られたのを恥ずかしがるように涙を手のひらで一度だけパッと払って、暗記の作業に戻った。でもそれが上の空であるのは明白だった。シマダもちょっと自分が凝視し過ぎた事に気付いて、慌てて目を逸らした。次の駅で女子高生は降りていった。振り返りもしなかった。


 シマダはその初恋をどう扱えばいいのか分からなかった。その気持ちは、本当に暴力的なまでであった。何よりも、あの女子高生にとって、自分という存在がナンバーワンでありたい、という純粋に願う気持ちだった。ナンバーツーでも、ナンバースリーでも駄目だ。それらに存在価値など一切なかった。中学校の自分の机の中に放り込んである、社会科の教科書と同じくらい存在価値はなかった。


 翌日から、あの高校生を探す為に朝早く家を出るようにした。電車が滑り込む駅のプラットホームで、車内から電車を待つあの人を見つけられるように、一番前の車両の窓際に立って、目を皿のようにして外に目を凝らした。一本前も、二本前の列車でも、その高校生は乗り込んで来なかった。念のため、先頭車両から最後尾まで、押し合いへし合いする車両の中を歩いた。シマダは中学校三年生にしては小柄な方だったが、何人かのサラリーマンの隣を通り過ぎる時に、あからさまな舌打ちが聞こえる事もあった。だが、シマダにはそれがやめられなかった。土曜日は電車の時刻も変わるので、ほとんど運頼みに近かった。もしかしたら、遅い時間に乗り込むかも知れない。シマダは毎朝、今日こそ会えるのではないか、という新品の希望を抱いて電車に乗り、それを失望に変えて中学校に登校した。


 同じクラスのヨシノは、シマダの変化にいち早く気が付いた。普段、休憩時間やクラス移動の際に一緒について回る二人は、ほぼクラス公認のカップルだった。ヨシノはシマダと同じ、ほとんど存在しているだけの小さな演劇部に所属していた。理由なんかない。あるとしたら、シマダが入部したからだ。

「なぜ、演劇部なの?」

 とヨシノは一応、自分の名前を入部希望届けに記入する時に聞いた。

「小学校の時、市民体育館で演劇見た。超、超感動した!」

 シマダは無邪気に答えた。シマダは頭が良くて、無邪気で、表情がコロコロと変わって、可愛かった。ヨシノはシマダより少しだけ身長が高く、シマダの隣にいると、自分がお姉さんになったような気分になれた。しかし、それが恋だと気付くには未だ至らなかった。

「ふぅん、それで演劇部ね。ね、それ、どんな話だったの?」

 ヨシノは小さな、真面目そうなトメとハライを効かせた漢字で自分の名前を書きながら(吉野 理絵 コリコリ)、シマダに聞いた。

「うーん」

 シマダは唸った。それから、ニカッと笑顔で言った。

「よく思い出せないんだな、それが」

「何よそれ」

 ヨシノは呆れた声で言った。さっき、超感動したって言ってたくせに、筋を覚えてないってどう言う事?

「良いんだよ、とにかく。俺がさ、舞台とかに立って、ああいう感動みたいなのを送る側になれたら、すごいだろ?」

 ヨシノはそういう能天気なシマダを受け入れていた。

「すごいだろうね」

 中学校一年生の入学式から数ヶ月後、放課後の教室で二人はそんな話をしていた。幼馴染の二人は、着慣れない少し大きめの制服を身につけて、新しい環境に何とか馴染もうとしていた。


 中学校三年になって、シマダはだいぶ体も逞しく大人になってきていたが、相変わらず身長はヨシノの方が大きかった。そのシマダの変貌ぶりは体だけでは無い事に、ヨシノは気が付いた。例えば、気が付くとシマダはボウっと呆けている。今までだって呆けた顔はしていた。というよりも、生活の八割方はホウけていた。その原因は、だいたいお腹が空いた、だとか、眠たい、だとか、退屈、だとか、そうした即物的な、いわば空白の表情だった。だが、最近の呆けた顔は一味違った。幼稚園の頃からの幼馴染である、ヨシノにはすぐにわかった。そこには私たち二人がこの先、ずっと目を逸らして生きてはいけない、何かしらの赤黒い、不吉な塊のような、避けがたい予感があった。

「ねぇ、どうしたの?」

 休憩時間になると、ヨシノは自分の後ろの方の席からわざわざ移動してきて、シマダの前の座席を拝借し、不安を押し殺しながら、でもわざとニコニコしながら聞いた。

「わかった、お腹空いたんでしょう?」

 本当は違うってわかっていた。お腹が空いて、呆けているシマダの顔ならヨシノにはすぐわかる。

「ちげーし。何でもないし」

 シマダはイラついた様子で、大きな音を立てて立ち上がって、そのまま教室から出て行った。仲良く世間話をしていたクラスの何人かが振り返って、その様子を見てからまた小さな声で話を再開した。ヨシノは傷付いてなんかいないふりをして、窓から教室の外を眺めた。季節は春から夏に移り変わろうと、風か光に相談しているようだった。私を置き去りにして、とヨシノは思った。


 シマダの生活はシンプルだった。朝起き、夜眠る。その間の営みに何ら疑問を呈した事はないし、不自由さを感じた事もなかった。学校から帰り、テレビを観て、母親が夕食を大声で知らせて、食べて、風呂に入って、宿題をして眠る。時々一階のリビングでファミコンで遊ぶ。シマダの部屋は一軒家の二階にあり、六畳一間のフローリングで、壁にはアイドルグループのポスターが貼ってあった。それから学習机と、パナソニックのラジカセ。週刊ジャンプがある程度綺麗に整頓された形跡があり、学校で作らされた意味のわからないオブジェや、旅行のお土産などが雑多に積み上げてあった。本棚代わりのカラーケースには鳥山明の漫画本や、宮澤賢治や夏目漱石が収められていた。それら文庫本が占める割合は、漫画本に比べると微々たるものだった。


 あの電車の中での邂逅を経て、シマダの中の何かが変わってしまった。食事が美味しく食べられなくなった。何を食べても無理矢理新聞紙を胃に詰め込んでいるような気分になった。テレビを観ていて、綺麗な風景が流れると、「あの人と一緒に、この場所へ行って同じ風景を見たい」と思うようになった。夜も眠れなくなった。風呂に入り、歯を磨いて、パジャマに着替え、ラジカセでラジオや音楽を録音したテープを掛けながら、机に向かって宿題をこなし、健全な眠気を迎えて自然とベッドに入る生活を、シマダはシマダなりに愛していた。ずっとこの生活が続けば良い、とさえ思っていた。保護され、誰にも傷つけられず(もちろん誰も傷つけず)、友人と遊び、笑い、テスト勉強の合間に雑誌を眺めて空想に耽ったり、物欲に翻弄されたりする生活を愛していた。


 運が良ければ、健全な眠気はいつも通りに訪れた。その気配を感じたシマダは学習机の蛍光灯の電源を切り、部屋の中央に垂れ下がっている蛍光灯の線を二回引っ張って暗くし、自分のベッドに潜り込んだ。だが、その闇に呑み込まれる前に、救いようの無い何かが毎晩シマダの胸を掻きむしった。自分の本体は胸にある、とシマダは思い知った。自分のこの胸の深い疼きは、後頭部に繋がっている。心臓が脈打つたびに、脳に血液が送り込まれ、吐き気の手前のような、居ても立ってもいられない気分に陥った。薄いタオルケットの下で、シマダは何度も寝返りを打ち、自分の胸を抱くように、小さく丸まってその衝動を何度もやり過ごした。脳裏とまぶたに、あの車窓からまんべんなく照らされる夕陽を存分に受け、複雑な陰影を透明な瞳に写し込むあの女性が蘇った。その女性は誰にもわからないように涙を流していた。どうしても、何が何でも、俺はあの人にとって一番にならなければいけない、とシマダは狂おしく何度も決意した。女性は一人の男としか普通、付き合わない。結婚するとしたら、一番好きな人と結婚する筈だ。だから俺は、あの人に一番好かれるように、努力しなくてはいけない。


 あの人は何が好きなんだろう。どういう男の人が好きなのだろう。どういう曲を聞く人が好きなのだろう。体が大きい人が好きなのだろうか。それとも、自分を笑わせてくれる人が好きなのだろうか。って言うか、お母さんと話をしている男は嫌いだろうか。お母さんに服を買ってもらっている僕の事を、好きになんかなってくれるのだろうか。


 やむにやまれず、シマダはベッドから起き上がった。横になって目を閉じていると、自分で自分の重さに耐え切れず、柔らかく押し潰されそうになった。俺は単なる甘ったれでしかない。あの人に好かれる要素なんか、もしかしたら何一つとして持ち合わせていない。このままじゃ、駄目だ。どうにかしなくてはいけない。気持ちばかりが前を走った。肉体だけが取り残された。もう一度だけ会いたい、とシマダは強く願った。机に向かっていつもの座席に腰を掛け、暗闇の中で顔を両手で覆い、擦った。胸の疼きは治らず、容赦なく大きく振りかぶってシマダを傷つけた。闇に耐えられず、シマダは机の蛍光灯を点灯させた。数回瞬いた後、真っ暗闇に安っぽい光が灯り、眩しさで涙が滲んだ。それでようやく、シマダはしばらくぶりに親友と再会したような、心穏やかな気持ちを取り戻せた。


 そうだ、手紙を書こう、とシマダは思った。もしあの人に再会を果たせたとして、俺は一体何をすればいいのだろう? 「好きです」って言えば良いのか? 言える訳がない。そんなの、そこら辺に落ちてる恋愛漫画や、ドラマみたいだ。俺のこの気持ちは、そんな安っぽい、ありがちなものじゃない。断じてない。そんなあり合わせの、大量生産された安っぽいTシャツみたいに思われたくない。そうじゃないって、ちゃんと告白しなくちゃいけない。どれだけ真剣に、あなたの事が好きなのか。俺の胸をカパっと割って、その中から芯のようなものを取り出して、見せなくてはいけない。ラブレター。何て安っぽい響きだろう。そう呼びたければ呼べば良い。


 ペン立てからHBの鉛筆を取り出して、回転式の手動鉛筆削りで先を尖らした。深夜に甘く思慮深い鉛筆の匂いが立ちこめた。便箋などは手元にないので、以前使っていた青いキャンバスノートの後ろの余りページを使う事にした。


 あなたが好きです


 ページ頭にそう書いた。書いてから、ちょっと突然過ぎるかもな、とシマダは冷静に思った。手紙を書いた事はないが、最初は宛名……例えば、○○さんへ、というような呼びかけが必要なのではないか。そのページを乱暴に破って捨てた。でも、あなたは一体誰なんだ。シマダは少し考えて、こう書いた。


 電車で泣いていたあなたへ

 僕は あなたの事が好きです


 事実を書いた。

 だが、そこで終わってしまった。

 それから、途方もなく自分が馬鹿みたいに思えてきた。何だこれは。伝言メモか。シマダはじっと、そのキャンバスノートの一番上と、一行空けた次の行に書かれた二行の手紙を何度も読み返した。しっかりとした、事実が書いてある。そうだ、事実しか書かれていない。俺は、新聞を書きたい訳じゃないのだ。新聞、とシマダは思った。それから、朝刊の一面の黒地白抜き文字で、デカデカと「電車で泣いていたあなたへ」と印刷され、その下に中位の大きさの文字で、「僕はあなたの事が好きです」と書かれている様を想像した。それをどこか誰か知らない他人が、朝の食卓で手に取り、大きく足を組んでトーストを食べながら眺める様子も。


 こんなの駄目だ、シマダはまたページを破って、クシャクシャにしてゴミ箱に捨てた。そうした事を何度も繰り返しながら、夜はいつも通りに白んでいった。百万年前から予定されていた通りの夜明けだった。シマダにはやがて、後頭部を金属バットで殴りつけるような眠気が襲ってきた。机に突っ伏したまま、シマダには久しぶりに、安穏とした、満たされた休息が訪れた。風ひとつない、夏の水平線のようにまっすぐな眠りだった。手元には書き終わった手紙があった。


「なあ、手紙のあの折り方教えてくれよ」

 シマダから話かけられたのは久しぶりだった。ヨシノは最近の様子がおかしいシマダに、積極的に話し掛ける事はなかった。朝、スクールバスから教室に向かうまでの間、「おはよう」「おう」と挨拶を交わして隣を一緒に歩くくらいだ。その間も、シマダはぼうっとしていた。学食で昼食を食べる時や、購買でパンなどを買って男友達と一緒に食べる時も、シマダは普段通りに見えるが、以前とは明らかに違っていた。周りはシマダの変化に気付いているのだろうか。それにしてもどうして私は、シマダの事がこんなに気になるのだろう。

「手紙って、あの?」

「そう。女同士でよく回してるじゃん、授業中に。アレ」

「女子の秘密を知りたいのね?」

 ヨシノは久しぶりに話しかけられたのが嬉しくて、シマダにグーやチョキでくすぐるようにちょっかいを出した。

「門外不出、秘伝奥義なのよ」

「そういうのいいから」

「ふふーん」

 ヨシノはシマダの席の前を拝借すると、渡されたA4の白紙を折り始めた。それはノートを切ったもので、一応両面確かめてみたが、何も書かれていなかった。

「ここをこうして両方折って、こう。ここにこれを差し込んで、こっちも差し込んで、はい完成!」

 シマダはその手つきを見ながら首を傾げて、

「も、もっかい」

 と言って、自分のノートの後ろを慌ててもう一枚切り離した。

「だーかーらー、ここをこう」

「こう」

「そうそう、それで、真ん中をこう」

「こう」

「これからがクライマックス。女子の秘伝奥義」

「奥義」

 クスっとヨシノが笑った。

「この端を、ここに差し込みます。ジャジャジャジャーン」

「ん? ん?」

「これあるでしょ、この端っこ」

 シマダの方の紙を使って実演する時、ヨシノの指と、シマダの指が少し触れた。

「で?」

 急に黙り込んだヨシノにシマダは先を促した。

「これをどうすんの?」

「ここに、こう」

 辛うじてヨシノは気を持ち直して、実演した。

「おおー、すげえ。もう一回やってみていい? 今度俺だけでやる」

 ヨシノは黙って頷いた。それから、駄目だ折り目付いてると癖ついてバレバレだ、等と無邪気にもう一枚ノートを破るシマダを見た。


 いつの間に、シマダは自分を「僕」ではなくて「俺」と言うようになったのだろう。いつの間に、指が男らしく長くなったのだろう。いつの間に、中学校の学生服のボタンが苦しそうに見える程、胸板が厚くなったのだろう。喉仏が少し出始めている。声も少し、低くなっているような気がする。

「僕の方がいいよ」

「え?」

「俺、じゃなくて僕の方が、シマダは良いと思う」

 小さい声でそう言って、ヨシノは席を立った。

「ありがとな!」

 後ろで嬉しそうなシマダの声が聞こえた。そういえばもうすぐ生理だ、とヨシノは思い出した。



 シマダと女子高校生の再会は突然訪れた。

 水曜日の朝の電車で、いつも通りシマダは一番前の車両の窓際に陣取り、そのプラットホームに滑り込んでいく景色に目を凝らした。曇りの日で、風景は暗く沈んでいたが、シマダの目はキラリと瞬く何かを目の端で捉えた。居た、シマダは息を飲んだ。ついに見つけた。絶対に、あの一瞬の煌めきはあの人だ。俺だけにしか見えないひかりなのだ。


 電車が停車する前に、シマダは後部車両へ人混みをかき分けて行った。この駅では人が大勢乗り込んでくる。午前中の通勤ラッシュの山場とも言える駅で、早めに行動を起こさなければ、あの人を見失ってしまうかも知れない。電車が停車し、ドアが開くと一斉にサラリーマンや、学生やら何やらが乗り込んできた。瞬く間に電車は人で満たされ、シマダはギュウギュウ詰めになり、身動きが取れなくなった。チキショウ、今日はいつもよりもっと酷い混雑具合だ。こんなの、ほとんどコンクリート詰めと変わらないじゃないか。


「すいません、ちょっと、先に行きたいんですけど」

 か細いシマダの声は真っ黒い集団の中でもみ消された。学生鞄が手から離れてしまいそうだ。走るような格好のまま、何人もの間でシマダは釘付けだった。汗と、防虫剤の匂いが入り混じった。やがて電車のドアが閉まり、動き始めると、さらに人の体重が節々に掛かり、曲がってはいけない方向に関節が曲がりそうになった。

「痛い痛い! ちょっと!」

 シマダがたまらず悲鳴を上げた。だが、周りの大人たちは一切関わり合いがないように、見て見ないふりをした。こんな過酷な通勤列車で、子供風情が何の用だ、とでも言いたそうに。

「こっち」

 そこに手を差し伸べてきた女性の声が聞こえた。たまらずその手を握ると、一気にその手は力強くシマダを引き寄せた。周りから非難めいた、不快を表す声が幾分上がったが、そんなの一切気にしていないようだった。あのブレザーの制服を着た女子高校生だった。

「大丈夫?」

 高校生は心配そうに小声でシマダに声を掛けた。やはりその人は座席と扉の間の、一番良い場所に立っていて、その胸に抱かれそうな形でシマダはすっぽりと収まった。その人の息はシマダの鼻の上あたりに掛かり、歯磨き粉の匂いがした。シマダは声も出せず、そのまま息を整えるのに必死だった。間違いない、あの人だ。あの、ずっと会いたかったあの人が目の前にいる。その距離はものすごく近かった。ほとんど抱き合っていると言ってもいい程の距離感に、シマダはその鼓動が一層早くなるのを感じた。その人の鼻息が前髪にかかるくらいだ。体に触れてはいないが、体温が感じられる程の近さだ。右手は未だ握られており、じっとりと汗ばんだ。


「あの……」

 シマダは手を離して声を上げた。それからその人を仰ぎ見た。背は15cmくらいシマダの方が低かったからだ。それから、シマダは目の前の白地のふち取りに緑のラインが施されたセーターに、女性らしい柔らかそうな膨らみがあるのに気が付いた。Vネックの隙間から覗く白いブラウスからは、うっすらとブラのワイヤーが浮かんでいる。シマダは赤面した。

「何?」

 シマダは汗が噴き出した。この電車の音が響く、満員電車の中で、二人だけの会話は秘密の内緒話のように響いた。

「ずっと探してたんです、あなたのこと」

「あたしのこと?」

 その人は驚いた声で、でも小さい声で確認した。

 シマダは大きくうんうんと頷いた。目なんかとても合わせられない。目が合った瞬間、死んでしまうかも知れない。じっとその人からの視線を顔の上の方に感じた。

「君と、どこかで会ったかな?」

「一週間くらい前に夕方の電車で」

 シマダはやっとの事で声を絞り出した。

「あなたが泣いてた」

 ハッとした様子が前から伝わってきた。電車が揺れ、一斉に同じ方向に人とつり革が傾いた。シマダは前の柔らかい身体に一瞬ぶつかった。

「ごめんなさい」

 慌ててシマダは謝った。少し大きい声で謝った。ふふ、と目の前の女子高生は少しだけ笑った。いいのよ、とでも言いたそうに。それから無言のまま、二人はじっと向かい合って電車に乗っていた。次の駅に停車すると(シマダは注意深く、身体に触れないように足を踏ん張った)、下車する人波に押されてシマダとその高校生は一緒に外へ出た。そしてそのまま離れ離れになりそうになった。女子高生の後ろ姿が人混みに消えていった。

「待ってください!」

 慌てて女子高生の姿をシマダは追った。自分でも驚く程、大きな声を出した。今を逃しては、一生後悔する、と思って。それから右手で、がむしゃらにその人の手を捉えた。二人は立ち止まって、お互いの目を見合わせた。大勢の人達の流れが二人を中洲のように避けて追い越して行った。やはり、綺麗な目をした女性だった。何かを知りたがって、でも、こと誰かに親切に教えられた事に対しては、何かしらの疑いのようなものを抱いているような光をたたえていた。


「手紙を書いたんです」

 シマダは学生鞄から折りたたんだ、ちょっとクシャクシャになった手紙を慌てて取り出すと、その人に手渡した。女性は右手でそれを受け取ると、シマダにふっと笑顔を見せて、そのまま人波に溶け込むように紛れて消えて行った。シマダはそこでずっと立ち尽くしていた。大勢が歩く靴の音がやけに大きく聞こえ始め、時々背中に誰かがぶつかってシマダを乱暴に押した。でも、シマダはなすがままだった。今あった事が、まるで本当の事かどうかを、誰かが教えてくれるのを待っているかのように。空はようやく曇り空から青空をのぞかせ、柔らかな午前らしい光をホームにそっと落とし始めた。


 ☆


 電車で泣いていたあなたへ


 僕の人生は変わりました。多分、変わったのだと思います。あなたが電車で泣いていて、その涙に心を奪われてから、大好きだったご飯が食べられなくなりました。夜も眠れなくなりました。勉強も(もともとあんまりしていなかったけど)あんまり出来なくなりました。面白かった漫画も、今では全然です。ドラゴンボールは好きですか?


 僕はずっと、あなたの涙について考えてしまいます。どうして、あなたは泣いていたのだろう? 僕は、それだけが気になって、自分の身体の調子がおかしくなったのだと思いました。僕はあの時、もっと勇気を出してあなたに声を掛けるべきだったのだと思います。大丈夫ですか? 涙が流れてますよって。それから、どうして泣いているのですか?と聞けばよかったのです。


 なんでそんな事を聞けば良かったと後悔しているかと言うと、考えれば考えるほど、あなたが、好きな人を想って泣いているような気がしてきたからです。それから、僕の頭はおかしくなりました。あなたが好きな人が、どうしようもないくらい羨ましくなった。どうして、あんなにきれいな涙を流す人が、僕じゃない誰かを好きになってしまったんだろうって、馬鹿みたいに何度も何度も思いました。もし僕があなたに好かれたなら、何でも、何だって言う通りにして、かっこよくなったり、笑わせたり出来るのにって。絶対に泣かしたりしないで、仲良くしていけるのにって。


 僕はあなたの事が好きです。僕は、初めて人を好きになりました。恋は楽しいなんて言った人を、助走をつけて後ろから蹴っ飛ばしてやりたい。とてもとても辛いです。あなたの事を考えるだけで、地球の真ん中に大穴が空いたみたいに、ぽっかりと胸の奥が空洞になるのです。覗き込んでも、反対側の真っ暗な宇宙が見えるだけです。心の底から、あなたにもう一度会いたいと思っています。そうしたら、この手紙を渡す事が出来るのに。僕がこんなにもあなたが必要だってことを、伝える事ができるのに。


 もし運が良くこの手紙を渡せたら、ここに電話をください。

 ドラゴンボールの新刊もあります。待っています。

 電話番号 ○○○○

 シマダ ユウスケ


 ☆


 サキハラの名前は、高校生の間では主にヤリマンとして有名だった。サキハラ自身も、その噂の事は知っていた。誰かがサキハラに対して

「お前、ヤリマンなんだってな」

 などと親切に噂を教えてくれた訳ではなかった。ただ、女子トイレの落書きに「サキハラアイはヤリマン」「誰とでも寝る都合の良い女」「ビッチ」などと書かれていたりしただけだ。それと、女どもが三人ほどで、サキハラの服装や態度などを注意……と言う名の誹謗中傷……をしに来た時に、涙を流しながら半狂乱に「このヤリマン!」と罵られたくらいだ。サキハラがその女が好きな男と知らずに手酷くフッて、その八つ当たりに来た際に口喧嘩となり、大声を出されたのだ。


 サキハラは水泳部に所属していて、そのプロポーションは人目を引いた。高校生にしては大きな乳房とくびれがある腰、広い存在感のある尻、程よく筋肉がついた長い足など、学校の老朽化が進んだプールにはそぐわない華やかさがあった。セミロングの髪はやや明るく染めていた。教師に注意されると、「プールのカルキで自然に色が抜けました」と嘘をついた。スカートは他の生徒よりも多めにたくし上げ、足を綺麗に露出していた。自分が持っているものを、自分が見せたいように見せるのがサキハラの矜持だった。一体誰に対して遠慮をして、いちいち隠したり、コソコソしなくてはならないのか?


 水泳の練習はハードだった。授業が終わり、部活が始まるとプールの中に帰宅する時間まで入り浸りだった。ひっきりなしに五十メートルプールを往復し、クロールやバタフライ、背泳ぎなど、厳しいタイムコントロールを求められた。あまりに激しすぎて、プール内に吐瀉物が浮いている事さえあった。20名ほどの部員は男女が半々で、激しい練習に共に取り組む事で、結束は悪くなかった。



 どうでもいい先輩にしてやったフェラチオが他の生徒に見つかってしまったのは失敗だった。恐らく見られたのだと思う。サキハラは激しい練習の後、身体が文字通り性的に火照った。特に冷たいシャワーを浴び、更衣室で身体を拭いて、肌着や制服を元通りに身につけ、やがて冷えた身体がその熱を再び取り戻す時、サキハラのスカートの奥にひっそりと息づくものはいつも熱く何かを求めた。乳首が敏感に立ち、滲み出たとろりとした透明な液がショーツを濡らした。


 元々は相手にもしていない先輩だったが、やたらしつこくサキハラに迫った。頭が悪い、イガグリ頭で、顔もニキビの跡が残る、「いかにも体育会系」というような、サキハラの好みに擦りもしない風態の男であったが、身体だけは好みだった。広い肩幅から胸の筋肉、それに繋がる腹筋は綺麗に割れ、教室に差し込む夕方の光線はその質感を豊かな陰影で示した。陰毛は剃られ、黒い浅めのピッタリとした下着から張り出すその固さは想像するに充分だった。


「なあ、頼むよ、もうこんなんなっちまったんだよ」

 先輩は部活が終わった後のサキハラが一度教室に戻り、水筒や手荷物を取りに帰る事を知っていて(サキハラは女の集団行動を意識的に避ける為にそうしていた)、いつも先回りしていた。そしていつも馬鹿みたいに冗談ぽくそれらを見せつけ、サキハラに迫った。その度に、サキハラは無視したり、「馬鹿じゃないですか?」とか、「キモッ」と一言捨て吐いてその場を去るのが常であった。


 だがその日は違っていた。サキハラは、窓際に並んでいる机の上に腰を下ろしている先輩にまっすぐ近付くと、思わず腹筋を撫でた。浅黒く日焼けした男の肌は自分の質感と全然違っていた。それから臍と、その下にある、剃毛した筋肉質の男だけが備えている少しだけ窪んだ性器に繋がる部分をゆっくりと指で押した。先輩が驚いて息を飲む音が聞こえた。いつも通り、邪険に扱われるとばかり思っていたからだ。サキハラはゆっくりともう一度厚い胸板と固い乳首、そして腹筋を撫でた。下衆い笑みを浮かべて先輩がキスをしようとしてきたが、顔を背けて避けた。黙ってされるがままにしとけば良いんだよ、この動物。誰がお前なんかとキスするか。


 ピタッとした男の下着をゆっくりと太ももまで下げると、勢いよく飛び出た。先ほどまでプールに浸っていたものは全てが消毒され、清潔そうに見えた。

「もう堪んねえよ、頼むよ咥えてくれよ」

 うるせえ、とサキハラは思った。それから左手でスカート越しにきつく閉じた自分の両足の付け根で指で動かしながら、作業に取り掛かった。すぐに自分の顔と同じくらいの大きさになり、透明な液が糸を引いた。これは、とサキハラは踏んだ。それから自分を慰撫する手の動きを早めながら強く呼び起こし、先端に柔らかく当てて解放を促すと、間もなく男は呻き声をあげて果てた。サキハラは口に放たれないように、注意深く顔を逸らしておいたので、勢いよく放出される音はサキハラの右耳の間近でよく聞こえた。その音を聞きながらサキハラも自分の指で達した。それにしてもすごい勢いだ。隣の机に掛かってしまったのではないか。ビ、ビビー。


 ハンカチで口元を拭って、余韻もなしにサキハラは鞄を持って教室を出た。スカートに自分の体液が染みているのに気付いた。

「お前まじで上手いな、最高!」

 息切れしながら、後ろから先輩がサキハラに声を掛けた。

 サキハラが廊下の窓に背けた視線のずっと先に、夕日と、その光を鈍く反射してそびえ立つ鉄塔を見た。その先に、もくもくと煙を吐く煙突も。



 屋上でシマダから渡された手紙を読んだ。部活動前の時間、サキハラはいつもここで一人になった。誰にも会いたくなかったからだ。同じ部のわざとらしい連帯感の醸成に一役買うのも気が進まなかった。彼女達だって、私がああいう事を殆ど男部員全員にやっている事を知っている筈だ。でも、まるで何事もなかったかのように接してくる。私が感謝でもすると思っているのだろうか? どうせ陰で死ぬ程悪口を言っている癖に。サキハラには定期的に性交する相手がいた。サッカー部の同級生だ。だが、それとは別にどうしてもやめられなかった。男が快感の終焉に勢いよく放つ音を聞きながら、自身も達する事を。


 風が吹いて、読んでいる手紙がパタパタとなびく音がした。サキハラは片手で耳に髪の毛を引っ掛けながらその手紙を読み、概ね好感を持った。決して上手い字ではないし、文章もたどたどしい。だが読む者を(私のことだ)感動させようとしていないところが気に入った。私の事が好きだという事をひたすら言いたいのだろう。ドラゴンボールの事はよく分からない。漫画である事くらいしか知らない。


 どのような好意を示されても、記載されている番号に自分から電話を掛けるのはどうも気が進まなかった。一体何を言えば良いのだ。「今朝手紙を渡された者ですが」。いや、違う。電話を掛ければ、きっと母親か父親が電話口に出る筈だ。「もしもしシマダでございます」。「友人のサキハラと申します。今朝方、お宅の息子さんに手紙を渡されまして」……馬鹿げている。そもそも友人ではない。


 手紙を丁寧に折りたたんで、サキハラはブレザーのポケットに手紙を入れた。まあいいや、とサキハラは思った。どうせ十五分後には私は苛烈なプールの中にいる。その時だけは何も考えずにいられる。私は何者にもならずにいる。


 手紙を渡した当日、シマダは中学校でいつも以上に上の空で授業を受けた。完璧に足が地についていなかった。今朝あったことは、今まで過ごしてきた人生の中でも、明らかに祝福すべき大いなる決断、英断、今後の人生を決定付ける偉業であると感じていた。手紙を書いて数日後に、あの女性に再会を果たし、首尾よく手渡す事が出来たのだ。これを運命と呼ばずして何と呼ぶのか。


 鬱屈とした気分から取り敢えずは解放され、シマダは歯痛が束の間引いたようなフワフワとした幸福感に満ちた。後は天に運命を委ねるだけだ。ヨシノはその様子を見て色々とちょっかいを出してきたが(シマダが歩いてる横から足を出して引っ掛けたり、後ろから小さい消しゴムを投げてぶつけたりした)、シマダはヘラヘラとしていた。学食の焼きそばパンがこんなにも美味いとは。流し込むコカ・コーラがこんなにも冷たかったとは。授業中に満ちる教室の日差しが、これ程までに平和なものであったとは(相変わらずヨシノは後ろの席からちぎった消しゴムを執拗に投げてきた)。


 だがいつも通り友人達と別れて帰宅すると、暖かな家の光に相反して冷たい現実感が戻ってきた。具体的には、黒い電話機が気になった。晩御飯を食べ、テレビを観ている最中にも、チラチラと電話機を横目で見た。時折、突然ベルが鳴り響いて飛び上がる程驚いた。その度に母親がいつも通り、聞いたこともない気持ちが悪いテンションの声で応対する様子にしばらく聞き耳を立て、糞ろくでもない自治会の話だとか、近所の噂話をするにつれ、失望は色濃くなっていった。失望は塗り重ねる事ができるという事をシマダは知った。恋は色んな事を教えてくれる。ファミコンで遊んでいても集中出来ない。やがて父親が帰宅して、シマダは顔を合わせないように慌てて片付けて風呂に入った。結局昨日と同じく、鬱屈とした気分で湯船に浸かり、シャンプーをしながら、自分が書いた手紙の内容を思い出そうとした。


 何か変な事を書いてしまったのではないか。相手を傷付けるような失礼な事を書いて、怒らせてしまったのではないか。あの手紙を、誰か親しい人に見せて、笑っているのではないか。教室の後ろの黒板に貼り付けて、みんなで笑い者にしているのではないか(見ろよ、『反対側の真っ暗な宇宙』だってさ、まじウケるんだけど)。しまった、どうして俺は手紙のコピーをとっておかなかったのだろう、とシマダは風呂で後悔した。でもあれは、世界で二つ同時に存在してはいけない物なのだ、と感じてもいた。結局自分は湯船に浸かりながら、相変わらず黒電話に聞き耳を立てている。昨日、一昨日と何も変わらない気分で。いや、もっと酷い。


 シマダには、いつも慣れ親しんだ健全な眠気は訪れなかった。ベッドの上で頭の下で両手を組み、じっと天井を睨みつけていた。夜の11時を過ぎては、今日はもう電話は鳴らないだろう。あの人も同じく、今の夜を過ごしているのだ、とシマダは思った。一体何をその両眼に映しているのだろう。勉強をしているのだろうか、それとももう眠ってしまったのだろうか。手紙を読んで、どう思ったのだろうか。嫌われたらどうしよう。ほとんどシマダは泣きそうになっていた。電話してくれ、何て書くんじゃなかった。待つ程こそ恐ろしい事はない。待ち続ける事ほど、内にある恐怖を呼び起こすものはない。きっとあの人は電話なんかしてこない。俺だって、変なやつに手紙を渡されて、「電話してほしい」なんて書かれていても絶対しない。本当に、俺は何て甘ったれなんだろう、ほとほと愛想が尽きる。最後の最後まで、相手に何かしらの選択と行動を求めてしまうなんて。馬鹿でアホで図々しくて、途方も無い我儘野郎だ。死んでしまいたい。死んでこの気持ちを証明出来るのなら、今すぐに。


 シマダは立ち上がった。それから学習机につき、手紙を書いたノートを取り出して、鉛筆を走らせた。何かを書かずにはいられなかった。自分の心を落ち着かせる為に。今の気持ちを、どこかに焼き付けておく為に。










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