花火は何故打ち上がったか4

 シマダは職員室に演劇部顧問の教師を訪ねた。顧問の深澤先生は社会科の教師で、おっとりとした初老の男性だった。その授業は殊更よく眠れると評判だった。黒板をほとんど使わない。チョークに含まれる発ガン性物質を気にしているという噂だった。シマダは、長年活動していなかった演劇部を再結成し、毎日集まって声出しの練習をしている事、校外活動も活発化している事を報告した。素晴らしいね、と先生は感心したように言った。

「最近、シマダ君は輝いてるなって思ってたんだよ。何て言うか、ナイトみたいだなって」

「ナイト?」

「そう。お姫様をお守りする騎士。恋してるんじゃないのかね?」

 は、はぁとシマダはお茶を濁した。


「夏休み最後の日の企画として、中学校生活最後に学校の屋上でどデカい花火をぶち上げようって、ちょっとした演劇のような物を開催して、大勢の卒業する人たちや、後輩達に見てもらおうと思ってるんです。お力を添えていただけませんか?」

 ほほー、と深澤先生は顎に手を当てて考えた。

「良い企画だね。脚本は、どんなだね?」

「きゃくほん」

 何度目かの同じおうむ返しをシマダはした。全くそんなの考えても居なかった。

「本がなければ、演劇は出来ない」


 ◆


 シマダは眠る準備をして、いつもの通り自慰を済ませた。妄想はサキハラとの経験だけで充分だったが、最近は時々、ヨシノが脳裏によぎる事があった。農作業中に見えた白いブラジャーや、背中に押し当てられた未熟な胸の形などが、果てる瞬間に浮かんで来た。


 シマダは自分が成長の過程にあり、混乱している事を自覚していた。夢の中で、母親と交わりそうになった事もあった。日々、勝手に勃起する制御できないペニスや、何でもない事に対して右往左往する、自分の心の揺れにシマダは辟易とした。世間の大人達全員が、こんな不自由な身体や心を諌め、なだめながら成長していったのかと思うと不思議な心持ちになった。


 シマダは机に着くと、何冊かある創作ノートを頭から読み始めた。とにかく、脚本を考えなければならない。七月も半ば過ぎ、二ヶ月前に手紙を書いた事が大昔のように思えた。今読み返すと目も当てられないような恥ずかしい心情が吐露されており、一瞬シマダは奇声を発しながらノートを破り捨てそうになった。落ち着け、とシマダは自分を抑えた。ここから脚本を拾い出すのだ。それ以外に、俺の武器は何もない。


 マレー熊の日常が目に留まった。

 シマダはそれらを、新たに書き足したり、文章を整えながら別紙に書き留めていった。全く、深夜の俺は何故マレー熊にこだわっていたのだろう。サキハラとの経験以前の下らない会話形式のものから、その後の何某かの示唆・教唆・考察、『目に見えないが、確かにそこに存在している事を言語化しようとしている』会話の断片まで、丁寧に写していった。ここ最近の創作ノートに近づくにつれて、マレー熊の出現はぐっと下がっていった。森に還っていったのだろう、とシマダは思った。今頃、ドングリを拾い集めて、兄弟の熊達と日向ぼっこをしているのかも知れない。


 ◆


「脚本」

 ヨシノはシマダに突然封筒を手渡され、面食らった。昼休みの事だった。

「ついに書いたのね」

 ヨシノはピンク色の弁当箱に箸を立てかけて、真っ先に読み始めた。シマダは焼きそばパンを食べながら、じっと紙に目を落とすヨシノを眺めた。健康的に日焼けし、フレームが細い眼鏡を掛け、綺麗な鼻筋にそのブリッジがあり、唇が少し上を向いて、物憂げな顎はほっそりとしたうなじに繋がっている。今は原稿を読んでいるので、時々セリフを確かめるように口をもごもごと動かしている。前髪は眉の上でじっとしており、頭のてっぺんより少し後ろ側で纏められた髪は肩のあたりまで伸びている。


 ヨシノもいずれ、サキハラが自分にしたような事を誰かにするのだろうか? ふとそう思うと、胸の奥の、今まで一度も痛みを感じた事がない場所が疼いた。


「ふうむ」

 ヨシノは偉そうな編集者のような真似をしてシマダに向き直った。

「これ、本当にシマダが書いたの? 全部?」

「そう」

 とシマダはドキドキしながら答えた。頭がおかしいと思われても仕方がない。


 マレー熊の朝は早い

 クマ「シャケ美味しいね」

 うんこブリブリー

 シャケ美味しいね


 マレー熊に昨日や今日はない

 昨日は死んで今日はいつも新しい日

「やあ」

 エリマキトカゲが走った

 クマは死んでまた生きた


 うーん、とヨシノは唸った。

「もちろん、悪くはないのだけど……脚本っていうよりかは」

「言うよりかは」

「コント?」

 シマダはガックリうな垂れた。

「とにかく、俺が書いたのはこれくらいだ。後は、お前に任せる」

「これをあたしに任せられても」

 ヨシノは困惑した。

「川島にも見せてみればいい。あいつ、天才なんだろ?」

「あ」

 ヨシノは思い出した。

「てか、あいつのノート何が書いてあったんだよ。いい加減教えろよ」

「それは言えません」

 ヨシノは丁寧にお断りをして、箸を手に取ると再び弁当に戻った。

 今日の部活に、川島は来るだろうか?


 ◆


 声出しと基礎練習が終わった後、ヨシノは川島を呼び止めた。

「ちょっと時間いい?」

「はい」

 日焼けして少し痩せた川島は、以前よりずっと健康そうに見えた。

「これ何だけどね、ちょっと読んでみて」

 封筒の中身を取り出して、川島に手渡した。

「お疲れ様でしたー」

「おつかれー」

 ほかの部員は去っていって、二人だけが残った。


 座席に着いて、川島は読み始めた。鼻息が荒く、時々、ブフッと吹いたり、神妙な顔をして唇をペロペロと舐めた。没頭すると、周囲が見えなくなるタイプだ。しばらくして、バサっと紙を置いた。

「どうだった?」

 ヨシノが不安そうに聞いた。

「あたしが気になるのは……」

 川島が俯いて、顎の右手を当てて、いかにも『考えてます』というポーズを取って言い放った。

「マレー熊さんがタチですか? それともネコですか?」

「はあ?」

 ヨシノは普通に声が出た。

「マレー熊さんが様々な動物とコミュニケーションを取るっていう、不思議な物語です。他の動物たちが示唆に満ちた考察を熊さんに与えていく。でも熊さんは自分が生きているって感覚すら無くて、昨日と今日の継続性すら知らない。それで、恐らく熊さんは他の誰よりも長生きして、最後に死ぬ時に『あっ』て気付くのがクライマックスになると思うんです」

「そ、そうね」

 ヨシノはシマダが持ってきたコントの台本(のような脚本)に、そこまでの物語性を見出していなかった。いやしかし、そこに『うんこブリブリ』って書いてあるんですけど、とヨシノは思った。

「で」

 川島が勢いよく区切った。

「熊さんはどっち何ですか? タチですかね、やっぱり。いや、物語性の中では受動的なネコの立場ですが、それは神話の中におけるアダムとイブの、どちらがタチかネコかという議論に立ち戻る必要がある訳なので、それと言うのはつまり、肉体としての雌雄と、飽くまで物語としての……」

「タチ」

 と適当にヨシノは言った。

「熊さんは、タチで」

「わかりました」

 川島はホフウ、とため息をついてニヤっと笑った。

「ヨシノさんは、よく解っていらっしゃる」

 フヒヒ、と聞いた事もない笑い方を川島はした。

「お好き、何ですね」

「え、ええ。まあ」

 ヨシノは曖昧に微笑んだ。タチって何だろう、と必死で考えた。ヨシノには、タチと言えば、西部警察の舘ひろししか思い付かなかった。だが、先輩として後輩に「分からない事がある」という風には言えなかった。威厳に関わる事だ。

「いつぐらいまでに、ちゃんとした脚本みたいに改編できそう?」

 あまり突っ込まれないように、ヨシノは話題を変えた。

「明後日には出来ます。すっごいのが」

「よろしくね」

 ヨシノは微笑んで言った。それから一緒に帰りながら、川島がたまにボーっと上の空であるのをみて、つくづく川島はシマダとそっくりだと思った。


 ◆


 ヨシノが休憩時間中に、教室で次の授業の準備をしていると、そこに川島が訪れた。

「で、出来ました。すっごいの」

 教室にまで後輩が訪れるなんて、初めての事だった。その熱意に、ヨシノはすっかり感心してしまった。

「ありがとう! すぐに読んでからシマダに渡しておくから」

「フヒ、フヒヒ」

 川島は去って行った。

 だが、そのまま科学の授業が始まって、ヨシノはその原稿を確認することをすっかり忘れてしまった。科学は最もヨシノが苦手とする教科だった。代表的な熱量保存の法則からして、人類に敵意を持ったサイエンティストが嫌がらせに考えた付いたものとしか捉えていなかった。だから、余計に勉強しなくてはならなかった。川島の熱意は嬉しかったが、それを脚本を確認するという行為にまでは結び付かなかったのだった。


「川島、どうだって?」

「あ」

 放課後、ヨシノは机の中にある、幾分分厚くなった紙の封筒を手渡した。

「まだ、中身読んでない」

「センキュー」

 と言って、シマダはそれを受け取った。

「なんか、難しい事言ってた。神話性とか、アダムとイブとか、タチとかネコとか。あたしより、ずっと話を把握してるみたいだった」

「ほー。じゃあそれ程変な風にはなっとらんだろう」

 まんざらでもなさそうにシマダが言った。

「ちょっと職員室行ってくる。脚本出せって、深澤先生に言われてんだ」

「一応、目を通しておいた方がいいかもよ」

 ヨシノは忠告した。だが、取り出してそれを一緒に確認する事はなかった。ヨシノは日直当番で、ゴミ捨てや掃除をしなくてはならなかったからだ。

「あの子、ちょっと変わった世界観を持ってるから」


 ◆


 神妙な顔をして、深澤先生は手渡された原稿に向かった。

 おかしいな、とシマダは思った。前のノリなら、よっぽど変じゃない限り、

「お、良いねえ」

 とか

「うん、さすがだね」

 と一発でゴーサインが出る筈だった。

 しかし、深澤先生は心なしか、怒っているようにも見える。まるで、宿題を忘れた生徒のような気分で、シマダはその前で立っている。


「これはちょっとなぁ……」

 ブツブツ言いながら、チラチラとシマダを見た。

「その、人の性癖は決して、決して否定はしないんだが、これは、君が書いたのかね?」

「あ、いえ。僕が書いたのを、みんなに手伝ってもらって脚本に直したものです」

 手放しで褒められれば、川島の名前を挙げた筈だったが、どうも風向きが違うと読んだシマダは「」とそれを言い換えた。


「これは、どういうものかね?」

 シマダに見せた紙には、イメージイラストらしき物が書かれていた。力強い鉛筆使いで、熱意が溢れている点については疑いようがなかった。激しく誇張されて描かれたマレー熊の性器がウサギを尻から五匹ぐらい貫き、先端のウサギの口からおたまじゃくしのようなものを噴出させながら

「けふも大漁ぢゃ」

 という歌舞伎のようなフォントでセリフが書かれていた。

「修正します」

 とシマダは乾いた声で言った。

「修正できるのかね、これは」

 深澤先生は溜息と共に感想を述べた。

「ある意味では完成しておるよ」


 ◆


 部長が顔を真っ赤にして怒鳴る姿を、ヨシノを含めた全部員が初めて見た。いつもはちょっと寡黙な、ヨシノ先輩とだけは仲良く話す怖い部長という認識だった。

「なんだこの脚本はあ!」

 バシっと床に叩きつけた脚本にはびっしりと小さな字で台詞が書いてあるページもあれば、大きなイラストのみのページもある、紙にして30ページ程の脚本……になる予定であった物だった。

「俺はホモじゃない!」

 ガンガンと上履きで上からそれを踏みつけた。

「やめて!」

 ヨシノがシマダを取り押さえた。川島が顔を蒼白にしてブルブルと震えていた。

「川島ぁ!」

 シマダが指をさした。

「おま、お前才能の無駄遣いにも程があるだろ! 絵は上手いよ絵は! すげえよ天才だよ! でもな、ホモが好きなら他所でやれ! ここではやるな! 気持ち悪いんだよ!!!」

 ヨシノがシマダの頬を張った。すごく大きい音がした。

「な……」

 唖然として、シマダはヨシノを見やった。ヨシノは涙を目いっぱいに溜め込んでいた。元はと言えば、確認しなかったあたしが悪いのだ、とヨシノは思っていた。隠していた川島の性癖を、よりにもよって全部員の前で明かしてしまう羽目に陥ったのは自分のせいだと責任を感じていた。

「何よあんたの脚本だって! ゴミみたいなもんじゃない!」

 ヨシノは大声を上げた。

「『うんこブリブリ』って何よ! 馬鹿じゃないの!? 死なない熊!? 何が言いたいの!? ちょっと気取ってるだけじゃない!! 気取って、『僕はみんなわかってますよー』みたいなスタンスで、面白いことが言えなくて結局言ってる事はうんこブリブリーじゃない! ただ大人ぶりたいガキじゃない!!! 一番恥ずかしいのはあなたよ!! 大馬鹿なのはあんたよ!!!」

 絶叫に近い響きがあった。

「……何だとこのやろぉーーー!!」

 慌てて後輩たちが二人の間に入って喧嘩を仲裁した。

「先輩、先輩やめてください!」

 時期部長の予定である大柄な渡辺がシマダを抑えた。

「先輩、落ち着いてくださいおねがい!」

 ヨシノの方は声が大きくなってきた小柄な山田が必死で抑えた。ほとんど抱きつくように抑えて、山田は頬を紅らめた。

「先輩みてください、ほら、うんこブリブリーですよ!」

 小柄でひょうきんが取り柄の落ち着かない大島がつま先で立って、数字の5になるように両手を突き出して繰り出した。

「うんこブリブリー」

 教室が静まって、全員が大島に注目した。大島はその静けさの中で、今こそ、今世紀最高の「うんこブリブリー」を披露する時だと悟った。俺にそれができるだろうか? 森本レオの声を意識しながら、両手の平を前に突き出して、爪立ち先で立ってかます、うんこブリブリー。

「うんこ……」

「落ち着いて!」

 シマダは大島をぶん殴ろうと勢いよく体をよじらせた。

「やめて!」

 脚本を直した川島が大声を上げた。

 今度こそ部室は静寂に包まれた。

「本当にごめんなさい。私、脚本の原本読んで、すごく盛り上がっちゃって、それで、ああいう風になっちゃいました。自分が大好きなものはみんなが大好きなんだって、思い込んじゃって。ヨシノ先輩も、好きだからいいのかなって思っちゃって。本当にごめんなさい」

「あなたは悪くない! 好きな物は好きって大声で言っていい!」

 ヨシノが思わず叫んだ。

「全部あたしが悪いの!」

「なんでも自分のせいにする先輩は嫌いです」

 川島が淡々と述べた。

「それって、あたしの事を信じてくれてないからじゃないですか」

 ぐっとヨシノは言葉に詰まった。

「もう一度だけチャンスをください。今度は完璧に仕上げます」

 川島はそう言うと、荷物を持って部室を出て行った。

「離せ、馬鹿」

 シマダは渡辺を振り払った。ぎこちない静寂が部室を覆った。山田はずっと目を閉じたまま、幸せそうにヨシノに抱き着いたままでいた。


 ◆


 脚本はともあれ、シマダにはやるべき事がたくさんあった。

 体育館の建て直しの為に、大きなクレーン車が学校に設置されていた。そして、そのクレーン車の動きをずっと眺めている少年がいた。

「こんにちは」

 シマダは声を掛けた。

 その少年は身体が痩せっぽっちで、いつも顔色が白かった。支援特別学校に行くか、それとも通常の中学校に行くか、極めてギリギリの判断でシマダが通う私立中学校に特別に入学した子供という噂だった。一般的な生活には多少不自由があるものの、一定の分野に関しては大人の専門家以上の興味を示し、その知識を蓄えた。

「いつもクレーン車見てるね」

 シマダは優しく声を掛けた。男の子はチラっとシマダを見て、それからまた視線をクレーン車に戻した。本当に、ああいう大きい重機が好きなのだ。

「カッコいいよね、三菱製かな」

「IPI建機、1982年製造」

「詳しいね」

「近くに寄って見たら書いてあった」

「どれどれ」

 シマダは三角コーンで覆われている重機の近くまで寄って行って、それを確認した。

「本当だ」

 当然、という風な顔をしてその少年はシマダを見た。

「あのクレーン車、動かしてみたい?」

 シマダは少年に聞いた。少年は目を輝かせて、ウンウンと頷いた。

「運転してみたい!」

「でも、難しいんじゃないかなぁ。あんなにいっぱい、操縦桿やらボタンやら付いてるし」

「操縦桿じゃなくて、揚力推進スロットルとアクセルレバー。パネルスイッチ群AとB」

 少年が訂正した。

「そうか、そういう名前なのか」

「常識だよ」

 ぷいっとそっぽを向いて少年が言った。

「じゃあ、運転出来るんだ?」

「もちろんだよ、僕が一番あれを上手く操縦できる」

「ふうん。そうか、それじゃさ、物は相談なんだけど……」

 シマダは少年に耳打ちをした。


 ◆


「花火の打ち上げには許可が必要だ」

 越前煙火の兵藤さんが言った。

「これとこれに判子を貰ってこい」

 シマダはその二枚の紙を持って文面を確認した。「火器扱い承諾書」と、「特定区域火気・爆発物取扱承認書」と書かれていた。

「そっちは消防署、こっちは自治体のやつな」

 シマダは頷いた。

「どうした、あんまり元気ねぇな」

「ちょっと色々ありまして」

「まあ花火でもぶち上げりゃ、元気になっぺよ。もうちょいだ、気張りな」


 打ち上げの機械も、かなり専門的な物を設置すると兵藤さんは約束してくれた。大きな花火大会(手賀沼だ)で打ち上げ機器は大方出払ってしまっているが、試験運用中のものが残っていた。だが、それはかなり大きく、重たい。

「クレーン車でもありゃあな、簡単だけどな」

 高い場所で打ち上げる為の弊害だった。

「地面に設置するのは簡単だがな」

「ありますよ、クレーン車」

 シマダは体育館の建て直しをしている風景を思い出しながら言った。

「何とかします」

「ほーう」

 兵藤さんが感心の声を上げた。

「じゃあフックが掛かるように、厳重に梱包しておくか」


 ◆


 脚本は完璧だった。

 シマダが言いたいが言えないモヤモヤのような物を、川島は的確に言葉を置き換え、職人的に組み替えていった。とても中学校一年生が書いた文章とは思えない美しい日本語で、もちろん「うんこブリブリ」は削除されていた。ト書きで「ごめんなさい、アレは消しました」と書いてあった。

「あああー」

 大島が絶望の声を上げた。

「俺の今世紀最高の『うんこブリブリ』をこのまま埋もれさせていいのかよ! 世界はそれを許すのかよ!!」

 許した。


 それから、宣伝の為のポスターも作った。川島がそれも担当した。リソを掛ける為に、色を付けても意味がないのを残念がった。

「すごいの出来るのに、残念ですねぇ」

 フヒフヒ、と川島は笑った。シマダが謝罪した。

「川島、お前はスゴイ。この前は悪かった」

 いえいえ、と川島は笑いながら答えた。

「それより、描いたポスター、みてください」

『マレー熊の一生』というタイトルと、その後ろに子供が描いたような筆運びで、中央にマレー熊が立ち、その他動物が熊を囲むという絵が描かれていた。線は不安定だが奇妙な程バランスが良く、劇の内容を見る者に想像させた。

「お前、本当はもっと上手く描けるだろ?」

「左手で描きました」

 フヒヒ、と川島が笑いながら言った。

「それで充分だって分かったんです」


 ◆


 深澤先生も太鼓判を押した。

「うん、これいいね!」

 何度も頷きながら脚本を褒めた。

「大したもんだよ、よくここまで修正したもんだ!」

 これは公演が楽しみだと手元の扇子を大きく仰いで笑った。

「ありがとうございます。これは一年の川島が修正してくれたんです。大した大物です。こちらのポスターもそうです」

「おーおーおー」

 深澤先生は目を大きくして驚いた。

「怪物だ」

「つきましては、こちらの方に掲示のサインを頂戴できればと思いまして」

 シマダは紙を五枚ほど差し出した。真ん中には、八月三十一日の校舎屋上使用申請許可書、下の方には、兵藤さんから受け取った花火を打ち上げる為の申請書が二枚程、しれっと挟み込まれていた。

「あーはいはい」

 それら全てに三文判で、「深澤」という完璧な流れ作業が押印された。


 ◆


 練習の合間に衣装も作った。

「マレー熊ってこんな間抜け顔だったっけ?」

 ヨシノは猿の茶色い繋ぎに、お面のような物で各種動物を表現しようとしていた。残念ながら、驚くほどヨシノには絵心がなかった。

「デュフ、ヨシノ先輩。マレー熊の顔はもっとこう、黒が基調で、アライグマを意識しながら線を変えていくんです、ドゥフ」

 そこでも川島は大活躍だった。

「鶏はこうだっけ」

 大島は自信なさげに描いて、みんなに見せた。

「これは酷い」

「ひどい」

 全員一致で「ひどい」に決定した。

「デュフ…絡み合った男同士の陰毛…デュフフ」

 時々えげつない表現をする川島を、部員全員は才能の発露として受け入れていた。「いんもう…」切なげにまだ生えていない大島がつぶやいた。


 ◆


 シマダは用務員室に行くと、ノックした。

「すいません、ちょっとお聴きしたい事が……」

「なに?」

 初老の作業服を着た眼鏡を掛けたおじさんが、校舎から少し離れた用務員室の小屋から出てきた。

「あの体育館って、いつ頃完成するんでしょうね?」

「さぁなあ。俺みたいな下っ端には、まったくそういう情報入って来ねえからなあ」

「そうなんですか。じゃあ、あの移動式クレーン車って、いつ頃無くなるんですかね」

「あー、あの体育館の屋根を持ち上げるやつな、デカブツだからな」

 おじさんは近くの「入出管理」と大きく書かれたバインダーを手に取ると、パラパラと一枚づつ捲って確認した。

 その間にシマダは部屋の中を確認した。六畳程の畳の部屋だ。綺麗に整頓されているとは言い難い生活感が漂っている。その隅っこの棚に、安そうな洋酒の瓶がそっと隠すように置いてあるのを見つけた。

「九月末まではあるな」

 眼鏡を上にずらして、おじさんが教えてくれた。

「ほら、この人が運転手なんだよ。最後に入ってくるのは、九月の二十三日。な、頭いいだろ」

 ふふん、と得意げにおじさんが笑った。

「スゴイです!」

 シマダはおだてた。

「あのクレーン車の鍵ってどこに保管してあるんですか?」

「ここ、ここ」

 おじさんは気分よく、玄関から少し入った、鍵がたくさんぶら下がっているボードが立てかけてある場所を指差した。その一角に、「クレーン車」と黒いマジックで書かれたシールが貼ってあり、その下に鍵の束がぶら下がってあった。

「あいつらに鍵任せてちゃ、休みの日とか突然工事おっぱじめるからな、こっちで管理してんだ」

「そうなんですか」

 シマダはわざと驚いたふりをした。

「危ないですもんね」

「だろう?」

「もうすぐ夏休みですけど、おじさんは夏休みないんですか?」

 おじさんは一転、ムっとした声でシマダに聞き返した。

「どうしてそんな事聞くの?」

「え」

 シマダは声に詰まった。

「いつも学校を守ってくれるおじさんも、ちゃんと夏休み取れればいいなって、思って」

 無理やり説明をした。途切れ途切れになって、冷や汗が出た。怪しまれれば、行動が取りにくくなってしまう。おじさんの目がシマダの顔をじっと注視した。


「だろおおおお?」

 ムッとした表情のおじさんは、顔を一転させてクシャクシャに崩し、同情を買うような声を上げた。

「俺もそう思うんだよ、だって生徒いないぜ? 夏休みとか、生徒全然いないぜ? なのにさ、公務員だからってさ、いっつも通りに学校来て、管理しろっつて。なに管理するのさっちゅー話じゃん!? もう信じられないけどさ、大人って辛いんだよな!」

 シマダはホッとした。普段あまり人と喋っていないからか、ペラペラとシマダに対してよく話した。切り上げるのに苦労した。もうすぐ夏休みだが、大切な花火を打ち上げる予定である八月三十一日には、用務員のおじさんはきちっと出勤する事が確認できた。これは大きな収穫だった。


 ◆


 学校内に貼った宣伝は、意外な程話題になった。

「うちの学校、演劇部なんてあったんだ」

「結構遅くまでやるんだね」

「屋上からだったら、手賀沼の花火大会も良く見えるんじゃない?」

 

 あまり話題になり過ぎても困るが、嘘を隠すには大規模になる方がシマダには好都合だった。

 深澤先生も楽しみにしていた。

「頑張って、中学校最後の夏に、でっかい花火を打ち上げてね!」

 と応援してくれた。まさか、本当にシマダが物理的に花火を打ち上げるとは思ってもいないのだ。だが、言質は取った。シマダはほくそ笑んだ。


 ◆


 夏休みに入ると、演劇の練習は週二回程になった。その他に畑へ行って、夏野菜の収穫を行ったので、ほとんど一日おきに部員たちは顔を付き合わせた。雨の日はほとんど無かった。部員たちが会う日は概ね天候は快晴で、もしくは通り雨が稀にある程度だった。収穫の最終日には、兵藤さんはみんなの為にバーベキューを催してくれた。野菜と肉をたっぷり焼いて、部員たちは大いに満喫した。きちんと越前煙火の黒電話から、全員が自宅に電話する事も忘れなかった。

 部員たちは作業をしながら、あるいは行きと帰りの自転車を漕ぎながら、演劇の脚本の話をした。どうして、マレー熊はこんな事を言ったのだろう、鶏のこの時の気持ちはどんなのだろう。そうした、取るに足らない些細な会話は小さな積み重ねとなり、演技に不思議な味をもたらした。

「っていうか、マレー熊役は誰がやるの?」

 全員がすべての台詞を覚えていたので(30分程度の可愛らしい寸劇だからだ)、熊役は誰でもやれた。

「私は、部長が良いと思う」

 脚本を書いた川島が真面目な声で言った。

「異議なし!」

 すっかり元気な女の子になった山田が大きな声で言った。

「だって、部長さん、復活した演劇部の一番の立役者ですもの!」

 シマダは辞退したがったが、周りがそれをさせなかった。まいったな、とシマダは思った。花火が上がれば、俺はそれだけで充分なのに。


 ◆


 シマダとヨシノにとって、長いようであっという間の中学校最後の夏休み、最終日がやってきた。演劇の練習に、受験の夏期講習に、実家の墓参りに、畑の収穫に、大忙しの一ヶ月だった。だがシマダは一秒足りともこの計画が頭から離れる事はなかった。計画の日が迫ってくると、プレッシャーで胸が苦しくなった。本当に自分が思った通りに計画が進むのかと、気持ちが焦った。ここまできたら、もうやるしか無い。


 父親の酒棚からくすねておいた、とびきり高そうな洋酒の箱を手提げ袋に入れて、シマダは昼一時に学校へ向かった。メンバー達とは夕方の三時に学校で待ち合わせなので、少し早い。兵藤さんとの打ち合わせでは、夕方五時に学校校舎前で打ち上げ花火に必要な機器を受け取る予定だった。


 シマダは用務員室のドアを叩いた。

「こんにちは」

「おおー、君か」

 用務員のおじさんは部屋の中でテレビを観ていた。

「明日からまたお世話になるので、僭越ながら差し入れを持ってきました」

「うお」

 それはブランデーのナポレオンだった。陶器の入れ物に入っている、父親の酒棚の中でも、恐らくとびきり高いやつだ。

「お前、こんなの貰えないって、これすげー高いんだぞ」

「いえ、ぜひ受け取ってください。父が海外へ単身赴任してしまったので、もう家には要らないんです」

「単身赴任なら、帰ってくるだろう。そん時飲むの楽しみにしてるかも知れないじゃん」

 シマダは俯いて、涙ぐんだ(ふりをした)。

「帰ってきてくれれば、良いなってお母さんともよく話ししています。また、家族全員が笑い合えればいいねって……」

 事情を何となく察したおじさんは、受け取った。

「分かったよ、そういう事ならもらっておくよ」

「お父さんみたいな、おじさんに呑んでもらえたら、嬉しいです!」

「はいはい、ありがとうな。ありがたく貰っておくよ」

 それから、シマダはクレーン車の鍵がそこにある事を確認して、退室した。


 ◆


 部員達は三時にやってきた。人気のない正門で、部員達は気持ちが盛り上がった。天気も申し分ない。カラっと晴れて、心地よい夏の最後の日だ。

「これから花火がやってくる」

「花火?」

 ヨシノ以外の部員がなんの事か分からず、聞いてきた。

「手に持つやつですか?」

「そんなショボいもんじゃあない」

 シマダはフフン、と片方の唇を上げてニヒルに笑った。

「ガンガン打ち上げる、ガチなやつだ」

「えぇー!」

 他の部員が一斉に驚きの声を上げた。

「収穫を手伝った、兵藤さんのご厚意だ。我々の演劇、最後のフィナーレでぶちあげる。ちなみにその時間は、ちょうど午前零時を予定している」

「でも、予告のポスターには開演八時って書いてしまってます」

 渡辺が指摘した。

「鋭い」

 シマダは指を立てた。

「それまで、軽音部の人達が最高の舞台を演出してくれる」

 シマダは『マレー熊の一生』のポスターをポケットから取り出すと、その右下に「夜七時会場・開演八時(軽音部によるパフォーマンス→十一時まで 十一時半→演劇マレー熊の一生)と小さく書いてあるのを指し示した。

「抜かりはない」

「気付かなかった……」

 部員達は唖然とした顔でそれを眺めた。


 ヨシノは頭を抱えた。

 本当にやる気なのだ。

 先日の夜は眠れなかった。

 学校の屋上で花火を打ち上げるなんて正気の沙汰ではない。だが、段取りを説明するシマダに躊躇はなかった。何より、これまでの準備があまりにも楽しすぎた。ヨシノは腹を決めた。やるしか無い。


 四時になると、いつもより大きな2トントラックで兵藤さんが乗り付けてきた。その荷台には、打ち上げ花火用の筒が縦に6、横6に並んでいる改良中の花火打ち上げ機で、リモコンのボタン一つで次々と打ち上げるものだった。次弾装填も自動で行われる。

「はっきり言って、これはヤバイやつだ」

 兵藤さんはニヤリと不敵な笑顔を浮かべてシマダに言った。

「無料でやるような規模じゃあねえぜ」

「感謝します」

「いいんだよ。うちの婆さんがすっかりお前らが大好きになっちまってな。正直、あんなに元気で楽しそうな姿を見たのは何十年ぶりかわからねえ。こっちこそ、お前たちに感謝してんだ」

 兵藤さんは荷台に乗って、持ち上げる為のフックを引っ掛ける為の縄をギュウギュウと力強く締め直しながら、シマダに聞こえるか聞こえないか程の大きさで言った。もちろん、シマダには聞こえていたが、聞こえていないふりをした。


「で、これどうやって屋上に運ぶんでぇ」

「あれで」

 移動式クレーン車が体育館の前にそびえていた。

「あれっつったって……」

 兵藤さんが絶句した。子供が動かせるものではない。

 顔が白い、いつもクレーン車を眺めている男の子が、校門をくぐってこちらに歩いてきた。

「運転させてくれるって約束した」

 少年が目を逸らして小声で言った。


 ◆


 用務員室に足音を忍ばせて向かうと、おじさんはすっかり差し入れのブランデーを呑んで、出来上がって眠り込んでいた。我慢なんか出来る訳がないのだ。窓からそれを確認して、シマダは玄関の扉をそっと開け、忍び足で鍵がたくさんぶら下がっているボードの前まで行くと、可能な限り静かに「クレーン車」と書かれて貼られているシールの下にぶら下がっている鍵の束を取った。


 ◆


 勢いよくエンジンが掛かり、移動式クレーン車は目覚めた。そのコクピットには満面の笑みを浮かべる、顔が白い男の子が座っていて、熟練したパイロットのように自在に手元の長い棒状のものを操った。

「オラーイ、オラーイ」

 シマダが誘導して、体育館の前から怪獣のようにクレーン車がやってきた。そして先端のフックに打ち上げ機を引っ掛けると、そのままゆっくりと学校の屋上まで引き上げ始めた。静かに夏の夕暮れの光を反射する大きな校舎に、エンジンの音が大きく響き渡った。シマダは用務員のおじさんがその音で目覚めてしまうのではないかとヒヤヒヤしたが、今のところは大丈夫のようだった。夕方五時の日暮れ近い青とオレンジ色が混じった空に、鉄筋で組んだ屋根のような打ち上げ機が黒々と映えた。カッコいいな、とシマダは思った。


 ◆


 屋上に機器が無事降ろされると、兵藤さんは早速その設置に取り掛かった。打ち上げの衝撃で機器が動いたりしないよう、固くボルトで地面と接続していった。複雑な線をまとめ、花火の玉を順番に装填させていく仕掛けに、次々と安全装置のような何かを差し込んで、いつでもリモコンから下される着火命令に従うように仕込んで行った。


 兵藤さんは自分の腕時計を見ながら手元の発射ボタンのリモコンを押し込み、カチカチカチと次々に自動で動く打ち上げ機が正常に作動する事を何度も確認した。

「これで完璧」

 ニカっと兵藤さんは笑顔を見せた。

 それから、その場に居たシマダとヨシノに起動装置のリモコンの扱い方を説明した。赤いキャップカバーを外して、現れた黒いボタンを押し込むだけだ。今それをやると、途端に打ち上がってしまうからな、と兵藤さんは念を押した。

「絶対に今、押しちゃいけない」

 わかった、と二人は大きく頷いた。まるで、橋のたもとにダイナマイトを仕込んだ兵士がその起爆方法の説明を受けているかのようだった。

「ワシが打ち上げボタンを押すが、一応お前らにも説明しておかんとな。脚本通りに進めば、問題はない」


 ◆


 兵藤さんは「用事があるから」と言ってトラックに乗って帰って行った。「打ち上げる時には戻ってくる」と約束をして。

 兵藤さんは家に向かう畑の中で、熱中症で倒れたおばあちゃんを発見して病院に担ぎ込み、そのまま入院する事となったおばあちゃんの世話をする事になる。


 だが、そんな事はシマダ達は知らない。少し高いステージを音楽室から拝借して屋上に組んだ。スポットライトも放送室から借りてきて、電源を打ち上げ機と同じ場所からとった。他の部員達は椅子を調達する為に散って行った。スタンバイが済んだら、何度かリハーサルをする予定になっていた。


 ◆


「すっごい楽しいね」

 ヨシノが屋上で、景色を眺めながらシマダに言った。

 シマダは屋上で頭の下で手のひらを組んでステージの上で横になり、一休みしていた。

 あたりは涼しい風が篭った熱気をふっと奪い去っていった。遠くに日暮れのピンク色と水色が合わさったオレンジ色が淡く見えた。まず間違い無く、美しい夕暮れだった。あと何度、こういう景色が観れるのだろう。、とヨシノの脳裏に浮かんで、やはり私はシマダが好きなのだ、という素直な気持ちを抱いた。幼馴染で、馬鹿で素直だった男の子はがむしゃらに「花火を打ち上げる」という目標に向かって突き進み、あらゆる手段を行使して今にも実現しようとしていた。


「どうして花火を打ち上げようと思ったの?」

 ヨシノはシマダに聞いた。そう言えば、動機なんて聞いてもいなかった。「何故打ち上げる必要があるのか」なんて、どうでも良かったのだ。ただただ準備に追われ、美味しい野菜と個性的な仲間達に囲まれて。充実感に満ち溢れたここ数ヶ月だった。


「あの人が約束してくれたんだ」

 目を閉じたまま、シマダが言った。

「今日花火を上げれば、俺と付き合ってくれるって」

「あの人って」ヨシノが硬い声で聞いた。

「そごうの屋上で、不良っぽい男の人とキスしてた人?」

「そう」

 シマダが当然のように答えた。


 死んじゃおうかな、と唐突にヨシノは思った。

 失恋したからじゃない。

 失恋は、そごうの屋上でもう済ませていた。

 多分、あれは失恋だった。

 もう一生過ごせないこの季節を記憶に焼き付けたまま死ねるのなら、それで上等なんじゃないかとヨシノは思った。ひょっとしたら、これ以上の幸福はもうなくて、もしかしたら私は一生、このシマダと二人きりで過ごす夕暮れを反芻しながら、でもそれ以上の幸せな瞬間を求めて、乾いた地面を這いつくばって生きていくだけなのではないか。それは漠然とした将来への不安とは別の、ヨシノの心の底を揺るがす恐怖だった。失われていく季節に、私はなす術がない。


「よいしょ」

 わざと大きな声を上げて、ヨシノは腰よりちょっと高めの手すりを乗り越えた。


「ねえ、シマダ、見て!」

 ヨシノは両手を広げて、屋上の端っこのブロックに立った。足元から、十五メートル下の木の緑や、黒い土や、葡萄色の屋根が見えた。人は誰も見当たらなかった。風が吹いて、ヨシノの脇の下や足の間を通り抜けて行った。まとめた髪の毛が揺れた。目前には、黒々とした電線を通す大きな鉄塔が連なって、夕暮れの緑色の木々と、遠くに霞んだところに煙を吐いている煙突が見えた。空気の中に変なものを混ぜて垂れ流している。


「やめろ」

 乾いた声でシマダが起き上がって言った。その表情には驚きも何も浮かんでいなかった。

 やめろ?

 前だったら、もっと大きな声で騒いだじゃない。「やめろー!」って、絶対言ってたよ。何その、落ち着いた声。まるで大人じゃない。あたしが子供みたいじゃない。


「じゃあ近くに寄って、あたしにキスして」

 ヨシノは両手を広げたまま、顔だけ振り返って大きな声で言った。

「大人のシマダ君になら、きっと出来ますよね」

 そう言って微笑んだ。

「それは出来ない」

 ヨシノは耳を疑った。

「俺には好きな人がいるから、お前にキスはできない」


 屋上のドアが開いて、椅子を調達してきた部員達が戻ってきた。

「ただ今戻りました……って、ヨシノ先輩!」

「ヨシノ先輩!」

「先輩!」

 後輩たちが次々と叫んだ。山田だけ声も出せずに持っていた椅子を取り落とし、口を両手で塞いだ。

「何をしてるんですか」

 渡辺が落ち着いた声でヨシノに声を掛けた。

「落ちたら死んでしまいますよ、こっちへ戻ってきてください」

「そうしたいんだけどねー」

 ヨシノが両手を広げたまま言った。

 こうなったらとことん子供になってやる。

「シマダ君が、あたしにキスしたくないんだって」

 全員がシマダに目を向けた。

「シマダ君は好きな人の為に一生懸命ここまで花火を打ち上げる準備をして、一緒に頑張ってきた私には、そのご褒美をなあーんにもくれないんだって」

「キスしてくださいよ先輩」

 渡辺がシマダに迫った。

「いいじゃないですかそれくらい!」

「やめて!」

 山田が叫んだ。

「ヨシノさんを汚さないでください!」

「お前が出てくるとややこしいんだよ! 黙ってろ!」

 大島が珍しく笑い声以外で大声を出した。


「わかりました、じゃあこうしましょう」

 渡辺が提案した。

「僕がこれから、シマダ先輩を殴ります」


 何言ってるんだ?、と全員が声を上げそうになった。

 シマダを除いて。

「よし。来い」

 シマダが足を踏ん張った。

「手加減しませんよ。こう見えても、結構色々溜まってるんで」

 渡辺が右手拳を左手のひらに当てて、「パアン!」と良い音をさせた。


 右ストレートが炸裂して、シマダが地面に倒れた。

「まだ一発目です、立ってください」

 ノロノロとシマダが起き上がった。

 鋭い右ボディが炸裂して、シマダがまた倒れた。


 渡辺は無心で殴り続けた。気が付いたら、夕暮れの中でシマダに馬乗りになり、夢中になって殴っていた。手加減はいつのまにかやめていた。


 ヨシノはその音を背後に聞きながら、真剣に飛び降りるかどうかの瀬戸際にいた。飛び降りようとするともう一人の自分がそれを止め、その止めた自分を意気地なしと罵るもう一人の自分がいた。生と死の境目は意外と近くにあって、簡単にそっち側へ跨ぐことができた。マレー熊と違うところは、死んでしまったら「私には明日はもう、絶対に来ない」という事だけだった。明日はもう、絶対に来ない。



 



 



「渡辺を止めてー!」



 ヨシノが振り返って大声で叫んだ。

 他の部員が折り重なるようにして渡辺を止めた。右手の拳から血が流れ、目つきが尋常ではなくなっていた。シマダは気を失ったように動かなかった。ヨシノは手すりを跨いでこちら側に戻ると、倒れているシマダの頭を抱き寄せた。それから、自分の顔にシマダの血がつくのも構わず、そっと部員たちの前でシマダに口付けをした。ストロベリー・ソフトクリームの味の方がマシだったな、とヨシノは思った。最初からこうしておけばよかった。あのそごうの屋上で、私は躊躇わずにシマダにキスをすればよかった。大切な事がわかるのはいつも、全てが通り過ぎた後だ。


 山田が泣き声を上げ、渡辺はその口付けの様子から顔を逸らし、大きな音を立てて屋上から降りて行った。


 ◆


 夜七時になると、客が入り始めた。ステージにはスポットライトが二機光を当て、否が応でも祝祭的気分をもり立てた。だが、お客であるほとんどの中学生は、その校舎の中を電気も点けずにウロウロしたがった。肝試しのような、非日常に触れたがって、多くの人達が屋上よりも暗い校舎内を散策した。頭が悪そうな軽音楽部の者達がチューニングを始める音が涼しい風に乗って、校舎の周りに聞こえ始めた。シマダは部室で横になり、腫れて相当痛む顔に氷を当てて横になっていた。その隣には川島と大島が看病にあたっていた。

「いてぇ」

「でしょうね」

 デュフフ、と笑いながら川島が言った。

「ヨシノさんも相当痛かったと思いますよ」

「アイツ、どうしてる」

「渡辺が探しに行ってます」

 大島が答えた。

「多分校舎にいるとは思うんですけどね」


 ◆


 兵藤さんは、手賀沼と利根川の花火大会が終わった夜九時過ぎに、おばあちゃんが入院している病院を出た。それから慌てて2トントラックを駐車場から出発させて、学校に向かう際に事故を起こしてしまった。国道と合流する際の、出会い頭の衝突。飲酒運転をしていた相手が信号を無視して突っ込んできたのだ。兵藤さんは大怪我をしていたが、意識はあった。だから兵藤さんは責任感から、学校に行って花火を上げる約束があるので、だれか代役を向かわせてほしいと懇願した。火薬を扱う免許を持ってるやつなら誰でもいい。


 警察が最初に確認したのは、今日という二箇所で大きな花火大会を開催する日に、わざわざ中学校という特殊な場所で花火を上げる許可を自治体が下しているか、という事だった。もちろん、そんな許可は出ていなかった。どうもおかしい事態が起こっているらしい、と警察は気が付いた。だいぶ大規模な花火の打ち上げの準備らしいが、どういう事だろう。誰かが向かうべきなのかも知れない。


 ◆


「僕ではダメですか」

 渡辺は暗い校庭で、ちょうど手賀沼方面で上がっている大きな花火を眺めながら、ようやく落ち着いたヨシノに言った。下手くそな軽音部の演奏が、途切れ途切れに花火の爆発音の合間に聞こえてきた。

「僕はずっと、ヨシノさんに憧れていました」

「知ってた」

 ヨシノは目を閉じて、体育座りを崩した。

 花火が大きく開いて、風で斜めに消えていった。

「じゃあ待っていて下さい」

 渡辺が言った。

「僕がちゃんと大人になって、迎えに行きますから」

 ヨシノは、ありがとうと礼を言った。それからぼうっと二人で打ち上がる花火を観た。


 ◆


 警察車両が滑り込むように学校に入って来たのは、夜11時30分の事だった。間も無く『マレー熊の一生』が開演するところだった。部員達は舞台袖で待機していた。夕方の出来事は部員達の間の空気を固くしていた。大島の渾身のギャグも滑りまくっていた。

「もうすぐ開幕ですよ」

 山田が大島のギャグを無視してシマダに言った。

「兵藤さん、戻ってこないと、やばくないですか」

「警察だ!」

 誰かが学校の下を見て、声を上げた。

 記号のような格好をした、いかにも「警察官です」という二人組の、青い制服を着た男達が、学校の正門でパトカーを止めて辺りを見回していた。どうやら、屋上への入り口を探しているようだった。

「やばいな」

 シマダは傷が痛んだ。

「シマダ君」

 辛抱強く舞台の開演を待っていた深澤先生が近くにやって来た。

「あの舞台の後ろに設置されている機械は何かね?」

「あれは花火の打ち上げ装置です」

 シマダはちょっと微笑みながら本当の事を言った。

「言ったでしょう? ぶち上げますよ、ド派手な花火」

 深澤先生は複雑な形に頭を振った。縦と横に振ろうとしたのだろう。

「その怪我は大丈夫なのか」


 ◆


 スポットライトがステージに当たった。


「マレー熊の一生」

 大きな綺麗な声で山田がナレーションを開始した。ようやく舞台が開演したのだ。

「マレー熊に昨日はない。明日もない。毎日生まれて、毎日死んでいる。マレー熊はそう思っている。朝はたった一回だけの朝、夜は眠るだけ。穴の中に落ち続ける。さようなら」


 シマダは劇が始まる前に、念入りに屋上の出入り口に鍵を掛けておいた。そこから不穏な「ガチャガチャ」という音が響いたのは、半分程公演が進んだところだった。


「カピバラさん」

 シマダが続けてセリフを言おうとした所でその音がした。

(ガチャガチャガチャ)

 シマダはその音を敏感に察知した。

「みなさんにお願いがあります!」

 シマダは台詞を変更した。


「花火を打ち上げさせてください!」

 馬鹿みたいな茶色い繋ぎを着て、頭にやけにリアルなマレー熊の絵が書いてあるお面をつけて、シマダは懇願した。あと5分で約束の時間だった。兵藤さんには何かがあったのだろう。恐らくもう戻って来ない。だとしたら、とシマダはポケットの中にある起爆装置の安全装置が掛かっているかを指先で確認した。起動の仕方はわかってる。キャップを外して、赤黒いボタンを押すだけ。


「お願いします!! 誰にも邪魔をさせないで下さい!!」

 シマダの目に涙が溢れてきた。そして、舞台袖にるヨシノに頭に付けていたマレー熊のお面を渡すと、舞台から降りてしっかりと指揮を執り始めた。観客の50名程は、一体何事かとシマダを注視した。


「余った椅子をドアの前に!」

 渡辺と大島と、山田と川島がそれに従った。何人かの観客もそれに従った。大きなサイレンが鳴り響いて、数台の消防車が中学校の正面に止まった。大勢の消防士達が降りて来て、手際よくそのホースを消火栓に繋げて行った。照明車両も現れて、屋上の辺りを一斉に照らした。


「これやべえんじゃねえの?」

 観客が騒ぎ始めた。入り口の向こう側には警察が殺到して、

「開けろ! 早く開けんか!」

 と威嚇していた。その中には、用務員のおじさんもいた。校舎の下からはライトが照らされ、パトランプを盛大に回しているたくさんの消防車両が見えた。

 警察が開けようとしているドアを、部員達は必死で抑えた。だが、その部員達を観客が引き離そうとした。

「やべえって、ちょっとこっから出させてくれよ!」

「何で警察が来てんだよ!」

 出入り口付近は混乱を極めた。

「出せ! こっから俺たちを出せ!」

 シマダは殺到する人達が折り重なる中で、必死になって起動装置をヨシノに投げた。

「頼む!」

 ヨシノはそれを上手くキャッチした。

 それからシマダは混乱する人の波に埋もれて見えなくなった。

 手元の機動装置の赤いカバーをヨシノは親指で静かに外した。

 どうしてこうなってしまうんだろう、とヨシノは思った。


 あたしが好きな人が、好きな人の為に一生懸命やったことを、結局あたしがその代わりにやってしまう。何だったら、この起動装置を思いっきり校舎の外に投げ捨ててしまっても良いくらいだ。ざまあみろ!って叫びながら。夕方の時のあたしが本来、そうなっていたように、この起動装置のリモコンはバラバラになってしまうだろう。


 そうだ、あたしはあの時、死んで「ざまあみろ」って言いたかったのではないのか。あたしが好きな人があたしを一生忘れないように、ざまあみろって、その目の前で身を投げたかっただけではなかったか。幸福を焼き付ける為なんて、あたしは何を綺麗事で言い訳をしていたのだろう。


 シマダ、私だけを見て。

 私だけを好きになって。

 どうして私が好きなシマダは、私じゃない人を好きだって言うの?


 警察が扉を突破してきた。次々と警察官が大声を上げながら屋上に乱入してきた。

「頼むヨシノ! 押してくれ、起動させてくれ!!!」

 シマダの声が聞こえた。

「ヨシノさん!」

 他の部員達の声も。


 ヨシノはシマダに渡されたマレー熊のお面を被った。

「聞け人間!」

 右手に起動装置を掲げ、大股開きでここぞとばかりに決めた。みんなで、百回以上は練習してきたマレー熊のセリフだった。


「マレー熊は死なない!」


 ボタンを押した。

 シュコンッ、と小気味良い音が聞こえて、何かが頭上に放たれた。そして、一際大きい花火が頭上で爆発し、重低音が空を駆逐し始めた。


「マレー熊は信じる! 爆発を!」


 シュコンッ


 どうしてこの毎日がずっと続いてくれないの、ヨシノは思った。

 みんな私を置き去りにして行ってしまう。大人になって、昨日までの苦しさを知らないふりをして、その先に進んで行ってしまう。まるで、最初から自分は大人でした、とでも言いたげにして。


「マレー熊は信じる! 必ず来る明日を!」


 シュコンッ

 シュコン

 シュコン

 次々に花火が空を彩る。

 重低音が空を駆逐していく。

 観客達と警察官達は呆気にとられて、その空をずっと仰いでいる。


 ヨシノはもう、馬鹿みたいに泣いた。

 子供みたいに大きな口を開けて、大きな花火の下でただただ大声を上げて、大粒の涙を流しながらひたすらに泣いた。






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