花火は何故打ち上がったか3

 シマダは逆算した。

 8月31日が9月1日に変わる瞬間に大きな花火をあげる為に何をすればいいのか。残り2ヶ月の間で、自分で出来る事は何か。


 あの衝撃的な体験の後(重たく激しい快感を伴った■■を経て)シマダは文字通り変わってしまった。それは身体的にも革命と言うに等しい程であった。体躯が太い芯を持ち始めた。ツルっとした顔や肌はヌメる脂が覆い始め、うっすらとした髭が生え始める予兆があった。幾箇所かポツっとしたニキビができ始めた。■■が濃くなり始め、睾■がその重さをしっかりと主張してきた。ほぼ毎晩、自■をしなければ眠れなくなった。それはすればする程、干からびた砂漠に水を撒くような気分になった。


 シマダは自分の身体というものと、ほとんど生まれて初めて真剣に向かい合った。風呂に入る前に、鏡の前に立って全身を検分する事が多くなった。以前は自分でも女っぽい体つきだと思っていたが、胸板の厚さや腹筋の割れ具合、しっかりとした■■(きちんと■■は露出しているが、未だ心許ない)、持ち上がった睾■、締まった尻。身長ももっと伸びていく予感もあった。毎朝目覚める度に、自分を覆っていた薄い皮が破られ、まるで新品のような眩しさと活力を持って目が覚めた。俺は成長しているのだ、とシマダは思った。それは二度と目にする事のない景色を通り過ぎていくような気分だった。何人たりともそれを止めることは出来ない。


 精神的にも変革はあった。

 サキハラに宛てた手紙を書く為に使ったノートは、そのまま創作ノートのようになっていた。シマダは眠れない夜は絵や詩など、取り留めのないものを書き留めていた。全く意味のない図形のようなものから、言葉の羅列、執拗にこだわって陰影を付けた瞳の絵、流行しているポップソング(中森明菜やチェッカーズ)の歌詞などが書かれていた。


 シマダはほとんど活動はしていないものの、中学校の演劇部に所属していた。小学生の頃、近所の市民会館で偶然観た演劇にとても感銘を受けたからだ。今では題名も内容も、ほとんど覚えていない。平和な生活を送っていたお金持ちが、戦争が始まると共に没落し、国外へ逃げ延びるような話だった気がする。首尾よく逃げられたかどうか、結末すら憶えていない。鉄道がテロで破壊されたシーンの不気味さや、手漕ぎボートの上で交わす甘酸っぱい男女の会話をシマダは固唾を飲んで見守った。何と素晴らしいのだろう、とシマダは思った。両親に連れられ終演後に市民会館を出た後でも、その興奮は覚めなかった。


 精神の欠片のように、手持ち無沙汰を解消する為に書き込まれた深夜の創作ノートにおいて、もし仮に他人が覗き見たとして、唯一意味を持って読み解けるものは、細切れにした脚本のようなものだけだった。それはどこかのマレー熊の意味のない生活を書き記した、無意味性にこそ意味を見出さざるを得ない妙なものだった。例えば、こんな風に。


 マレー熊は蜂蜜が好きだ

 くま「ニワトリさんも食べるかい?」

 鳥「ハチミツを食べると産む卵が濁ってしまう」

 くま「そうかい、濁ってしまうのだなぁ」

 マレー熊は去った


 マレー熊は魚を食べる

 くま「次は僕の中で泳ぐでしょ」

 さかな「ピチピチ」

 くま「とっても広いんだ」

 熊は河辺でうんこした



 全く意味が分からないこのような会話群が、関係のない詩や図形の合間合間に現れた。シマダはそれらを時折読み返して、なぜ自分がこのようなものを深夜に書いたのか理解が出来なかった。深夜に書かれたものは、昼間に読み返すと突然他人のふりをして、シマダに指を突き付けて「お前は馬鹿だ、ノウタリンだ」と罵倒した。「お前には生きている価値が才能と同じくらいにない」。


 かもな、とシマダは思った。でも、それをやめる事はできなかった。そもそもシマダは才能になど興味もなかった。眠る前の自■と同じように、意識の欠片をノートに写しとることは、サキハラに向けて手紙を書いた時以来、自らの精神を安定させる為の儀式に過ぎなかった。そうしたノートは二冊になり、三冊になり、意味のない会話形式の細切れの脚本のようなものは比例して増えていった。


 サキハラに深い■■を導かれた後、その深夜のマレー熊の台詞には変化が現れ始めた。例えば、こんな風に。


 マレー熊は歌う

 くま「バーンペシエーロー」

 カピバラ「昨日も歌ってたね」

 くま「そう?」

 マレー熊の空はいつも蒼い


 マレー熊は死なない

 くま「ペリカンさん、どうして動かないの」

 ゴリラ「彼は眠っている」

 くま「穴に落ち続けているだけ」

 さようなら


 シマダは穴に落ち続けるだけ、という表現が気に入った。本当にそうかもな、とシマダは思った。我々は単に、落ち続けている事に慣れてしまって気付かないだけなのかも知れない。そのように、とりわけ■■の後は特に深い思慮をシマダにもたらした。


 花火を打ち上げるにあたって、一番簡単なのは金で解決する事だった。シマダは電話帳を手繰って、適当な花火打ち上げを専門とする店に電話を掛けた。安く見積もっても設置、打ち上げには三十万円は必要だった。しかもかなりショボい。

「自治体と消防署の許可も必要だよ。っていうか、あんた声からして子供だろ。悪戯電話は他所でしろ」

 シマダは手元の貯金箱と、郵便貯金の残高を確認した。十万円にちょっと足りないくらいだ。しかもそれを下ろすには親の許可が必要だ。貯金箱の中身は三千円くらいだった。そんなのはマレー熊のおやつ代にもならない。


 中学校は体育館を立て直す為に工事中だった。その音は授業中は止み、休憩時間中に遠慮なく鳴り響いた。意外と細かい配慮が行き届いていた。


「夏休み最後の日に花火を打ち上げたいと思います」

 シマダは宣言した。夏服に衣替えを済ませ、白いYシャツに黒いズボンだ。


 その前の席を拝借し、向かい合わせにしてシマダの机で弁当を食べているヨシノは、その宣言を無視して、粛々と弁当の卵焼きを口に運んだ。あの屋上での出来事から一週間程経ったある昼休みの事だった。屋上で取り残された事について、ヨシノはシマダに謝罪を求めた。シマダはきちんと謝罪し、二人は和解した。だがシマダはその後に何があったのかは頑なに話さなかった。生まれて初めて射精した様子を語る訳にはいかない。幼馴染の間にも言える事と言えないことがある。それはヨシノにある種の寂しさを覚えさせた。


 ヨシノは眼鏡を掛けていた。近頃、受験勉強に力を入れ過ぎて近眼が進んでしまったからだ。色白で、女子の間では背が高い方のヨシノは、そのアンバランスさで意外と男子にモテた。眼鏡を掛けるとツンと澄ましてそうな雰囲気だが、話すと存外に砕けて面白い。そのギャップが一定層を掴んでいた。髪もまとめて後ろで結んでいる。危うい自分の魅力にヨシノは気付いていない。シマダにとってもヨシノはヨシノであり、それ以上でもそれ以下でもない。

「聞けよ」

「聞いてるわよ」

 ヨシノはつっけんどんに言ってシマダが学食で買ってきた弁当からソーセージを一個取った。

「あっ」

「花火を上げるって、お金も掛かるし大変なのよ。馬鹿なの?」

「ちゃんと計画立てたよ」

 シマダは涙目になって言った。貴重な戦力ソーセージが弁当箱から突然失われた。それから、計画の詳細をヨシノに語った。最初は呆れて聞いていたヨシノだったが、だんだんと真面目な顔をして、身を乗り出すようにして、時折質問を挟みながら最後まで聞いた。

「あなたって本当に馬鹿なのね」

「至急演劇部のメンバーを集めたい」

 ヨシノは自分の席に戻ると、机の中からクリアファイルを持ってきて、部員リストをシマダに手渡した。

「二年の渡辺、大島、一年の山田、川島。こんなに部員が居たとは知らなかったな。……っていうか、何でお前、こんなリスト持ってるんだ?」

 シマダが驚いてヨシノに聞いた。

「あなた、ブチョー。私、フクブチョー。私たち、三年生。サイネンチョー。しっかりして」

 シマダは自分が部長だった事をすっかり忘れていた。

「彼らと今更、仲良く出来るだろうか」

 リストを見ながらシマダが呟いた。

「仲良く出来るか、出来ないかを心配するのは今じゃない」

 ヨシノが弁当を食べながら言った。

「どう仲良くするかを考えるの。花火を打ち上げたいんでしょう?」

 その通りだった。


 ◆


 シマダは学校に客用玄関に設置されている「手賀沼花火大会募金箱」に記載されている連絡先に電話を掛けた。そこからどこの業者に花火を依頼しているのかを聞き出した。

「有限会社越前煙火ですね」

 少し高い声の男が電話先で書類を手繰りながら応答した。

「ずっと昔からそこにお願いしているみたいです。近くに工場というか、ほとんど民家みたいな場所なんですけどあるんですよ」

「ありがとうございます」

 平身低頭を心掛けてシマダは礼を言った。親切な事務員は、夏の自由研究に取材をしたいと言うとその住所まで教えてくれた。確かに自宅から自転車で三十分程の場所に工場はあるようだった。


「日曜日、暇?」

 放課後、帰り支度をしているヨシノに聞いた。

「暇よ」

 ヨシノは答えた。

「自転車で付き合って欲しいところがあるんだけど」

「自転車はパンクしてる」

「じゃあ後ろ乗せてやるから、朝十時に駅前な」

「どこへ、何しに行くの?」

 ヨシノは一応聞いてみた。

「花火工場へ、大切なお願いをしに行きます」


 日曜日の朝、駅前で待ち合わせをして、二人は花火工場へ出発した。シマダは白い半袖のTシャツにジーンズ、黒いローファーを履いた。ヨシノは麦わら帽子を被り、青いワンピースと運動靴だった。小物を入れた小さなポーチを斜めがけにした。ヨシノは自転車後ろのステップに立つようにして、シマダが自転車を漕いだ。苦労して橋を超えると、心地よい風と午前の光が二人を祝福した。穏やかな田園風景がくっきりとした入道雲の下に現れた。

「登り坂ん時は自転車から降りてくれよ」

 死ぬ程息を切らしてシマダが言った。

「少年、試練は始まったばかりなのだよ」

 シマダの肩に両手を置いて、ヨシノはご機嫌だった。

「同い年だろ!」

「私の方が二ヶ月早い〜」

 その脇を車が排気ガスを撒き散らしながら軽々と二人を追い抜いて行った。

「地球環境を汚染しやがって」

「やっかむな少年。地球と君は未だ青いぞ」

「お前、マジで漕げよ、交代しろよ」

「いやーん」

 風が吹いてヨシノの麦わら帽子が飛ばされそうになり、慌てて抑えた。

 鉄柱が建ち、電信柱がある田園風景の畦道を自転車は進んで行った。その先にプレハブのような出で立ちの二階建ての建物があり、古びた看板に「(有)越前煙火」と表されていた。


 一階はシャッターが大きく開かれ、広い作業場が見えた。木製の机と職人道具のような物がたくさん散らばっていた。すえたような木の匂いも漂っていた。もしかしたら火薬の匂いなのかも知れない。

「すいませーん!」

 シマダは大声で中に声を掛けた。

「誰もいないんじゃないの?」

 その後ろでヨシノが言った。

「お昼ご飯食べてるとか」

 時刻は十一時半くらいだった。

「すいませええん!!」

 奥の引き戸が開いて、身長が低い五分刈りのいかついおっさんが出てきた。五十代後半か六十代前半に見える。

「何か?」

 爪楊枝を口にして、鋭い眼光でシマダを射抜いた。子供だからといって特別な扱いもしないし、容赦もしないぞという確固たる意識がそこには感じられた。いかにも「職人」という感じだ。

「本日はお願いに参りました」

 シマダが神妙に切り出した。

 それから名前も知らないそのおっさんの足元まで行って、土下座をしながら叫んだ。

「僕の為に、花火をあげてくださーい!」

 ヨシノはシマダの余りに突然な行動に凍りついた。馬鹿を通り越して気が狂っているように見えた。だが、後ろで見守っている訳にもいかない。シマダは本気なのだ。本気で花火を上げようとしているのだ。力を貸してあげたい。意を決して、呆気に取られて何も言えないおっさんの前にヨシノも進むと、同じく土下座をして

「お願いします」

 と丁寧にお願いをした。シマダの十倍くらい大人の雰囲気があった。

「顔を上げな」

 おっさんが渋い声を上げた。ステテコに腹巻、黒いハッピを羽織っている。絵に描いた昭和の職人的なおっさんだ。

「人にお願いする時ぁ、まず自己紹介からだ」

「すいません、僕は○○中学三年の、シマダユウスケといいます」

「私は、同じ中学校の同級生のヨシノと申します」

 ほん、とおっさんは頷いた。

「そんで、花火を上げろっつんなら、いくらでも上げてやんよ。おっちゃん、それでおまんま食ってるからな。いつ上げんでい」

「それが……お金がないんです」

 シマダが恐る恐る申し出た。

 ほん、とおっさんがまた頷いた。それからしばらく黙った。

「するってぇと何かい、俺様に、あんたらの為に無料で花火をぶち上げろと、そういう訳かい」

 迫力のある低い声で言い放った。シマダは震えた。大人は職業を得て、そこから収入を得て生きているのだ。そんな当たり前の事を忘れていた。いや、考えないようにしていたのかも知れない。

 何も言えずにいると、おっさんが怒鳴った。

「ふざけるな! 甘ったれるのもいい加減にしろ! 出て行け!」

「すいません、すいません!」


 シマダとヨシノは慌てて外へ逃げ出した。

「めちゃ怒鳴られた」

 シマダは落ち込んだ。

「無謀と蛮勇は違うよ、シマダ」

 ヨシノが苦笑して言った。シマダは無言だった。

 自転車を引きながら、二人はトボトボと畦道を歩いた。道の脇で、おばあさんが一人で農作業をしていた。広大な農地が広がっており、一人での作業はあまりにも無茶だ。

「手伝いますよ」

 シマダは突然自転車を電柱に立てかけて、畑へ入って行った。

「ちょっと!」

 ヨシノが叫んだ。

「あたしイヤよ! 洋服汚れちゃうもん!」

「あら、ありがとねぇ。こないだの台風で、畑は全滅するかと思ってたんだけど、意外と元気に実っててねぇ。嬉しい反面、収穫のアルバイトさんをキャンセルしちゃったら、とても全部収穫出来そうになくて」

 頰被りした、背の小さいおばあちゃんが嬉しそうにシマダに礼を言った。色とりどりの夏野菜が豊かに実り、風で揺れていた。

「いえ、良いんです。僕もちょっとあてが外れちゃってムシャクシャしてるんで、体動かしたくて」

「あら、そうなのかい。それは残念だったねぇ」

 シマダはキュウリやトマトをもぎ取り、収穫のカゴに次々と入れて行った。濃い草木の匂いがあたりに漂った。


「ねー、帰ろうよー。ねー、シマダー」

 最初はそうゴネていたヨシノだったが、その内畑に入って収穫を手伝い始めた。体を動かすのは嫌いではないのだ。

「見て! このきゅうりデカ! キモ! 虫キモ!」

 などと言いながら、結局ヨシノは楽しんでいた。


 夕暮れが近づいて来た。合間に休憩を挟んでいた(近くの用水路で冷やした野菜をみんなで食べた)が、そろそろ帰らなければならない時間になっていた。シマダもヨシノも心地よい汗を流し、畑がどうにも好きになっていた。去るのが寂しい。

「ありがとうねぇ、本当にたくさん収穫出来たよ本当にありがとう」

 おばあちゃんは二人に感謝した。二人に持って帰らせる野菜を見繕っている間(二人はいえ結構です、もうたくさん食べましたので、と辞退していたがお構いなしだった)、バタバタと軽トラがやってきて、近くに止まった。ドム、と安い車のドアが閉まる音がした。

「ばあちゃん、迎えに来たぞ」

 顔を見せたのは、あの怒鳴ったオヤジだった。

「あー!」

 ヨシノが声を上げた。

 オヤジが不思議そうに二人を見て、おばあちゃんに声を掛けた。

「こいつらと何してんの?」


 荷台に自転車と、たっぷり収穫した野菜を乗せて、夕暮れの畦道を軽トラが走った。窮屈な座席に何とか四人を詰め込んで、職人のオヤジが二人を駅まで送ってくれた。

「何だったら、また農作業手伝ってくれていいぞ」

 オヤジがぶっきらぼうに言った。

「また来てねぇ」

 おばあちゃんが取りなすように言った。

「はい! 必ずまた来ます!」

 すっかり農作業が好きになった、日焼けして赤くなったヨシノが後部座席で笑顔で言った。それから前で運転するオヤジにベーっと舌を出した。シマダは無言で助手席に座っていた。軽トラのサスペンションは愛想もなく、地面の凸凹をダイレクトに伝えて来た。

「だからって訳じゃあないが、花火の件も考えておいてやる」

 オヤジがボソっと言った。シマダはその横顔を見た。

「本当ですか。それなら毎日来ても良いくらいです」

「現金なやつだなお前は」

「部員も連れて来ます。僕、演劇部なんです」

 ほーん、とオヤジが声を出した。

「そりゃあ、花火と関係あんのかね」

「あります」

 それからまた車内は無言になった。後ろでヨシノは疲れて眠ってしまっていた。

「まあ、また作業しに来い。わしの名前は、兵藤って言う」

「はい。よろしくお願いします」

 二人は駅前で降ろしてもらって、安っぽい軽トラのテールランプを見送った。眠たそうにトロトロしているヨシノを後ろに乗せて、シマダは自転車を漕いでヨシノを家まで送っていった。ヨシノは後部座席で横座りし、落ちないようにシマダの腹に腕を回し、その背中にぴったりと右胸をつけた。シマダが自宅に着いた時には夜になっていた。両親に叱られたが、ヨシノと一緒に農作業をしていたと伝え、証拠におばあちゃんに無理矢理持たされた大振りな野菜を手渡すと、そう言う事ならと溜飲を下げた。農作業は良いな、とシマダは思った。色んな意味で。


 ◆


 第一回、演劇部会議が部室で行われた。

 部室と言っても、演劇部はほぼ活動がなかった為、ご大層な部室はなかった。生徒会室の半分を間借りした、机を六台程四角くまとめ、その周囲に椅子を置いた簡単なものだ。後輩たちの招集に動いたのはヨシノだった。教室に赤く日焼けした眼鏡を掛けた綺麗な先輩が来たという事で、後輩たちは色めいた。ヨシノは緊張する後輩が可愛らしく思えた。それにしても、日焼けでヒリヒリする。


「二年三組の渡辺と言います。趣味はファミコンとテレビです。どうぞよろしくお願いします」

 渡辺は大柄な体をした、おっとりとした男子だった。目が細く、いつも笑っているような口元をしている。これは沢山収穫してくれそうだな、とシマダは予想した。いけない、畑仕事ありきの判断になってしまっている、とシマダは居住まいを正した。

「はい、じゃあ次」

 ヨシノが進行を受け持った。

「同じく二年三組の、大島でーす! 演劇の活動ができるのが嬉しいです。この日を待ってました!」

 大島は大げさに泣くフリを見せた。どうやらヒョウキンなタイプみたいだ。収穫はあまり期待出来そうにない。シマダは頭を振って農作業を忘れようとした。

「はい次ー」

 軽いノリでヨシノが流した。そりゃないっすよ先輩、とお約束のように大島が騒いだ。

「一年二組の、山田です。あの、演劇はやったことないんですけど、部活動説明会の時の、ヨシノさんが素敵で、憧れて入部しました。その、あの、よろしくお願いします」

 山田は小柄だ。色も白く、真面目そうな雰囲気がある。声が小さいが、大丈夫だろうか。これで、人前で演技なんか出来るのだろうか。

「部活動説明会?」

 シマダがヨシノに聞いた。

「あるんですよー、一年生が入学した時に。普通は部長が出るんですけどー、うちの部長が真面目に不真面目してるんでー、代わりに私が出たんですよー」

 平坦なアクセントでヨシノが言った。後輩たちが笑った。

「あーそうだったのか、すまん」

 シマダが謝った。

「びっくりする程軽い謝罪に驚きを禁じ得ない。あたしに憧れる山田さんにも驚きを禁じ得ない。あたし、そんな素敵だった?」

「はい。アナウンサーみたいでした」

「あらぁ」

 ヨシノがニコニコして嬉しそうに手の平を頬に当てて語尾を上げた。

「驚きを禁じ得ない」

 シマダがボソっと隣で言って、ヨシノが舌打ちをしてその足を蹴った。後輩達がまた笑った。そんな二人をチラチラと、山田が頰を赤らめて見やった。

「じゃ、ラストちゃんお願いします」

 ヨシノが促した。

「一年五組の川島です。先に言っておくと、あたしは演技が出来ません興味もありません。イラストと文章を書くのが好きで入部しました好きな映画は実写ではヒッチコックと黒澤明でアニメーションだと断然ディズニーで、最近みた映画で面白いと思ったのは」

 ここまで一気に喋ると、川島はハァハァと息を切らした。天然パーマがきつい、ちょっと太った、眼鏡を掛けたおちょぼ口をした女の子だった。ヨシノが一歩間違ったらこうなってたタイプだ、とシマダは思った。

「落ち着いて」

 ヨシノが冷静に指摘した。目を瞑ってハァハァと息を切らす川島に、ヨシノは続けて優しい声を掛けた。川島の手元に、創作ノートのような物があったからだ。

「書いたもの、持ってきてくれたのね。ちょっと見させてもらってもいい?」

 ウンウンと大きく頷いて(まるでシマダだな、と思いながら)ヨシノは手渡されたキャンバスノートのページを開いた。

 イラストは物凄く上手だが、問題はその内容だった。男達が■■を触り合いながら、ウットリとした顔をして

「ああ、すごくいいぞ……」

「どうしてこんなに硬いんだ……」

「ウぉぅッ」

淫靡なセリフや、ヨシノがありとあらゆるジャンルで見たことも聞いたこともない擬音が丁寧な筆致で描かれていた。ページをめくると、男同士が連結して繋がっている絵もあった。

「小便が漏れそうだ……」

「ああ、いいぞ……」

 切なそうな顔をした男達の狂乱がそこには描かれていた。


 ヨシノは顔を真っ赤にしてそのノートをどう扱えばいいか必死で考えた。周りの人たちは、そのような世界が今まさにヨシノの手元で展開されている事を知らない。悟られてはいけない、今、自分がこの世界に触れていることを。


「どうした」

 シマダがヨシノを気遣った。周りの後輩達も、そのノートが自分達に回ってくる事を期待していた。そこには何が描かれているのだろう。身近な人の創作物に興味が高まった。

 ヨシノはパタっとノートを閉じた。

「これは私が預かって、後で川島さんに私が直接返します。二人でお話ししましょう。皆さんに見せるには、そのー」

 ヨシノは顔を真っ赤にして眼鏡を上げ、言葉を選んだ。

「世界観が独自過ぎる」

「なんだそれは」

 とシマダが言ったので、今度は本気で足を蹴っ飛ばした。

「いてえ!」

 不安そうにヨシノを見る川島の目をまっすぐ見やって、ヨシノは言った。

「あなたは天才です」

 川島は嬉しそうに、誇らしげに顔を綻ばせた。その顔には、どことなくカバっぽい雰囲気があった。


 それからシマダから今後の部活動の要旨が伝えられた。恐らく八月最終日に初の公演を行う事になるので、まずは心の準備をしっかりしておく事。特に山田さんは声出しをしっかりとしておく事。放課後はここ部室に集まって、声出しをする。土日祝は社会的な貢献と健全な身体的運動が演劇の基本となることから、近隣の農家へ行ってその収穫を手伝うこと。その為、雨が降らない日は最寄り駅朝十時に自転車で集合すること。

「脚本は」

 おっとりした渡辺が手を上げて発言した。

「脚本」

 とシマダは繰り返した。そのオウム返しが、何も考えていない時に発される事をヨシノは知っていた。シマダに代わって、ヨシノが答えた。

「脚本はこれから詰めていきます。ほとんど完成はしているんだけど(大嘘だが、後輩に心配させないようにこう答えた)、もうちょっと足していきます。川島さんにもちょっと入ってもらって、完成してから配役など発表します。楽しみにしててね」

 わかりました、と渡辺が言った。

「では、ひとまず解散。明日、またここで」


「川島さんは残って」

 ヨシノが言って、解散した。

 シマダはヨシノに外で待っているとジェスチャーで告げて、先に出た。後輩達は(主にひょうきんな大島が)騒ぎながら出て行った。新しい始まりに浮き足立っている様子が感じられた。


「すごいね」

 ノートを川島に返して、ヨシノが讃えた。

「こんなの、見た事ない。才能ある」

 すると、川島は立ち尽くしたまま涙を流し始めた。

「いつもみんなに馬鹿にされてたんです。変な絵を描く、キモいって、ずっと虐められていました。でも、あたしこれ描かないと頭が変になりそうで、みんなに変って言われても、何が変なのかわからなくて、辛かったんです。褒められてすごく嬉しいです。ありがとうございます」

 ヨシノは川島の肩に手を添えて、私にこんな事を言う資格がいつからあったのだろう、と思いながら言った。

「これから、あなたの力を私たちに貸してね」

 うんうん、と川島は何度も頷いた。やっぱりシマダに似ている所がある、とヨシノは思った。

「でも、あまり人にそのノートは見せない方がいいかも知れない」

 はい、わかってます、と川島は小声で答えた。


 ◆


 それから毎日、放課後に生徒会室の一角に集まって、声を出す練習と滑舌の練習をした。そこには川島も参加した。当初、自分には関係ないからとその参加を拒んだが、「同じ経験をする事で書ける脚本もあるから」とヨシノが説得した。シマダは出席しても途中で退席したり、そもそも来なかったりしなかったりした。シマダはほとんど毎日、越前煙火に顔を出した。頑固なオヤジと顔を付き合わせて話し、おばあちゃんに挨拶をして帰った。花火を打ち上げる事以外に興味はなかったのだ。部員はその為の駒のように思っていた。脚本は? とヨシノに聞かれても、あー、うんとお茶を濁した。


 ◆


 祝日と土日は部員達を連れ立って、おばあちゃんの畑の収穫に向かった。何しろ広大な畑は、いくらでも作物が採れた。人手が増えた事で、その収穫量はちょっとしたものになった。おばあちゃんはニコニコしながら、

「手塩掛けたのが、腐らずに採れることが一番うれしい」

 といつも言っていた。部員達は自転車に乗り、優雅な夏の風を全身で感じながらそこへ向かい、収穫して夕暮れに帰った。その作業は部員の間で不思議な連帯感を生み出した。たくさん会話を交わした。色が白く、声が小さかった山田は健康的に日焼けをして、休憩の合間に「ほら、大声出してみろよ」という大島の冷やかしに思った以上の美声が腹から出て周囲を驚かせたり、太り気味だった川島も少しずつ痩せて、引っ込み思案ではなくなっていった。

「ホモが嫌いな女子はいません」

 と発言してヨシノをヒヤヒヤさせた。大柄でおっとりした渡辺が、実は不思議なリーダーシップを持っている事が発覚した事も大きな収穫の一つだった。的確に指示し、ふざけてばかりいる大島(やはり収穫量は少なかった)を注意したりした。

「次期部長だな」

「と不真面目代表の部長が申しております」

 と、畑から帰る夕暮れのあぜ道を走る、シマダの自転車の後ろでヨシノがおどけて言った。

「って言うか、お前の自転車いつまでパンクしてんだよ、いい加減直せよ」

 とシマダが言った。

「何ですか、部長権限であたしの自転車が本当にパンクしてるか調べるんですかあたしの肌着の色とか知る為に部長権限を行使するっていうんですか生徒会に言いますよ告げ口しますよ明日から学校来れませんよ」

「白」

 とシマダが言い当てた。

「最悪、死ね」

 ヨシノが背中に思いっ切り頭突きをした。

「いて」

 自転車が揺れた。

「でも、感謝してる」

 シマダがボソっと言った。

「え、なに!?」

 ヨシノが聞こえないふりをした。

「何でもねーよ!」

 シマダそう大声で叫ぶと立ち漕ぎして、後ろのヨシノは慌ててその腹に手を回した。真鴨の子供のように後ろをついて来た後輩達も、慌ててスピードを上げた。夕暮れの風の形が見える静かな畑に、色々な声がこだました。


 ◆


「花火のことだけどよう」

 幾度かの部員の収穫と、数え切れない程通い詰めていたシマダに頑固オヤジが切り出した。キた、とシマダは思った。

「余った火薬や何やらで、上げてやる事は出来る」

「ありがとうございます!」

 シマダは頭を下げた。土下座はしなかった。このオヤジが、そう言うのが嫌いな性分であることをシマダは知っていた。

「どんだけ必要だ?」

「出来るだけ沢山、大きければ大きいほど」

 ガハハ!

 とオヤジが初めて笑った。地鳴りのような、笑い声だった。

「そおりゃそうだろうけどよ。まあいいや、それなら、打ち上げ場所が大事になる」

「打ち上げ場所」

 シマダは繰り返した。

「花火っちゅうのはな、高度が大事なんだ。デカければデカいほど、打ち上げる高さちゅうのが必要になる。そんでな、低いとこから打ち上げると、火薬がもっと必要になって、量が作れなぐなんだ」

 オヤジが言った。

「だから、最低でも十五メードルぐれえはある高いところがら打ち上げられれば、どでけえの、何発でも作ったる」

「十五メートルっていうと」

「ま、ビル五階建ての屋上ぐれえだな」

 校舎だ、とシマダは思った。







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