第12話 渦

 踊れないあやつり人形は、いらない。

 ぼくには、そんなモノは必要ない。

 馴染みのある、穴だらけのタオルケットの方がまだ、ぼくには必要だ。


 答えが見つからないんじゃないよ。

 まだ、見つけないんだ。

 面白いことは、後回し。



 まだまだ、迷路で迷うんだ。


 だって、その方が楽しいじゃない。

 そっちの方がいいじゃない。




 *****



「こんばんは。美夜子さん、すみません、ホントに遅くなりました……」


「少しくらい遅くなったって大丈夫よ。今夜はみんな揃っているから。それより、聖くんが事故にあったとかじゃなくて本当によかった…… もう誰も居なくならないで欲しいの…… だからね、本当によかった」

 息を切らして裏口から入ってきた聖が慌てたように頭を下げた。そこに美夜子がそっと指先で軽く聖の淡いミルクティー色の髪に触れる。美夜子から優しくふんわりと甘い余香がする。ジャスミンとバラの香水の馥郁と美夜子の指先から伝わる体温で、聖は何故か胸の奥が締めつけられる思いがした。鼻の奥で水の中に沈んだ時のような痛みを感じる。すると、みるみるうちに目に涙が溜まっていった。顔を上げようにも恥ずかしさと複雑な感情が溢れて、聖は身体を小刻みに震わせる。それが何を刻んでいくのかすら分からずに聖は困惑した。


 答えが見つからなかった。

 見つけられなかったんだ。

 ぼくは、この人の傍に居たい。ただ傍に居たい。


「もっと早くに、ぼくは貴女に出逢いたかった…… どうして、今なんだろう…… どうして今更こんな……」

 途切れそうに小さな声が自然と口から零れて、聖は慌てて手を口にあてがうと、目をぐっと力強く閉じた。


 聖は、自分がよく分からない。

 一体全体、何が起こったのか理解出来ないと。

 そう思った。これだけは、嘘なんかじゃないんだ。



「え? ごめんなさい。聖くん、今、なんて言ったの?」

 店の音が大きくて、美夜子は聖の小さな声が聞き取れず聞き返す。


「……いえ、なんでもないんです。ぼく、すぐに着替えてきますから。これ以上みんなに迷惑かけられないですから」

 その言葉を残して聖はロッカールームに走り去っていった。これ以上は声に出来なかったのだ。心が苦しかったから。


「聖くん…… 泣いてた? いったい何があったの?」

 美夜子は、聖の後ろ姿を目で追うが、既にロッカールームに入ってしまったあとだった。美夜子は、聖の立って居た場所にリングのピアスを見つける。拾ったピアスには、薄らと血の塊がこびりついていた。美夜子は急いでそれをハンカチに挟むとエプロンのポケットに締まった。




 ギターの軽快な音色。ベースやドラムのリズムが身体に痺れるほどに快音を耳に余韻のように残す。演奏の喧騒の中、客が楽しげに音に酔いしれる。そして、空間に溺れていくように、笑い、踊り、逸楽の時間が流れる。客の快楽にも似た姿が諒たちの目に映り、全てが圧巻だった。


「いや〜、イベント順調に進んでますね〜」

「そうな。これだと一ヶ月に二回ほどやってもいいんじゃないか? いやいや…… それ以上もありだな」

「後で慎一朗に聞いてみましょうね。アイツ、今夜は本当に楽しそうだ。音楽に関することになると、本当に昔からかっこよくなるですよ」

「そのようだな。本当に彼は楽しそうに仕事をする男だ。 諒と矢熊くんは仲良いんだな。お前らまるで兄弟みたいだな」

「そう見えますか? 小学生からの親友なんですよね〜 でも、あいつは、ただの親友じゃないです」

「そうか…… そういうの大事にしておけよ」


 カウンターの中の僕は、音楽に心が弾む。若林はニヤニヤと、この情景を楽しんだ。僕はコロナビールにライムの皮に飾り切りを入れ、縁にそっと添える。青いライムの香りが弾け、サーキュレーターの風がゆっくりとその青い香りを辺りに撒き散らし広げていく。若林は差し出されたそれを口に含むと、次の計画を企てていく。この人の貪欲さが成功に繋がるのだろう。僕は素直な気持ちで納得した。


「なんか、ヤなんだけど……」

「どうしたんですか? ひなたさん、何かありましたか」

 ひなたが空いた器や汚れた灰皿をカウンターに運んできて全身に嫌悪感を出し、怪訝な表情を見せる。そして徐に言葉を口にした。


「ん〜 ……ホントに嫌な感じ」

「どうしたどうした。小難しい顔しちゃって。ひなたちゃんらしくないね。どうしちゃったの?」

「若林さん、あそこに変な人が居るの。入口付近に…… ほら、ふたり」

 真っ黒なスーツ姿で髪をグリースで固めた男がふたり。様子を伺うように店内を見つめ立っている。


「なんだろうな? この界隈の同業者って感じでもないな…… ちょっと俺、聞いてくるわ」

 若林はひなたに言われた男たちに声をかけに行く。僕とひなたがカウンター越しに様子を黙って見る。若林が男たちに声をかけると男のひとりが若林を手を払い除けるような仕草をすると、もうひとりが何か慌てたように電話をかけている。すると、エプロンを頭から被りながら聖が笑顔でカウンターに歩いてきた。


「遅くなりました! ちょっとテストの点数が違っていたみたいで、先生に話を聞きに行ったら色んな用事を押し付けられてなかなか学校から帰れなくって…… ってふたりともカウンターで何してるんですか? スパイごっこみた……い……」

 そう笑いながら聖がふたりの視線の方向に目を移して、徐々に引き攣った表情になっていく。男のひとりが聖に気がつくとこちらに歩いてきた。聖は慌てたように裏口に走ろうと身体の向きを変えた瞬間に男が叫ぶ。


「やっぱりこの店に居たぞ!」

「おやおや、鞍馬山くーん! おじさんたちキミを探したんだよ〜 それはそれは、ずーっとね」

 聖の姿を見つけた男たちは口々に、にやけた面を前面に出し、聖は慌てた形相で裏口の扉を開け走って行ってしまった。


「ちょっとちょっと、なんなの? 今の……」

 ひなたが唖然として口をぽかんとし、その隣で僕も同じ表情をしていただろう。時間の流れに逆らう気持ち悪さを僕は感じていた。


 あの時の電話の声?


 若林さんの話では金融関係の人だったそうだ。しかも、タチの悪い金融会社。


 あの時の店にかかってきた電話の事がやっと理解が僕には出来た気がした。


「なんだ今のヤツら…… サングラスに黒スーツって暑苦しいな〜 スパイ大作戦か?」

「ああ〜! 慎一朗、ダメダメ! お前が出てくるとややこしくなる! それになんか例えがおかしい!」

「何がだよ…… 別に俺は何もしねえよ!」

「そういうこと言ってる場合?」

「あんまりいい雰囲気じゃないね……」

 

 手にタオルとソーダを持って、慎一朗が怪訝そうな顔でカウンター越しに唖然としている僕らに声をかけてきた。間の抜けた慎一朗の声に僕は慌てたように両手を顔の前に出し、大袈裟に止める。そんな僕らを見て、ひなたが呆れた声を出す。そこに若林が神妙な顔付きで顎のあたりを手でさすった。


「聖くんが無理にここを選んで働きたかった理由が尚更、分からないな……」

「若林さん、どうして?」

「借金返済の為ならロータスは給料がね……」

「何? 少ないとでも言いたいんですか?」

「うん。まあ…… 多くはないよね…… ってそういう事を言いたいんじゃないんだ。返済の為だけなら手っ取り早い仕事をするのが当たり前じゃないか?」

 若林の言葉に皆が黙ってしまう。確かにその通りだ。借金返済のために働くなら効率よく稼ぎたいはずだ。ロータスはお世辞にも給料が多いわけではない。ましてや、週末だけの数時間ではたかが知れている。ロータスを選んだ理由、喧騒に紛れるためにここを選んだのだろうか。



「昼下がりの未亡人の小遣い稼ぎじゃあるまいし…… パパっと大金を稼ぎたいだろ?」

「何? その古風なAVのタイトルみたいな言い回し…… まあ、嫌いじゃないけど……」

 斜に構えた真顔の慎一朗の言葉に若林が吹き出すように笑うと、僕とひなたの表情がゆっくり変わっていく。それは尊敬ではなく呆れた顔だった。


「慎一朗…… おまえ…… この雰囲気とこの場で言うセリフじゃないと思うよ」

「ホントにコイツは最低だわ……」

「え? 何がよ?」

 2人の呆れた表情に慎一朗はニヤつきながらおどけるような素振りで煽った。


「冗談言ってる場合か? お前らは……」

「やっぱり警察に相談するべきかな?」

「こういう場合は、まだ様子を見るってのもポイントだと思うけどな……」

 若林の低く重い声が僕らの上に降り注ぎ、真剣に考えているのだろう、強く腕を組んだ。そこに美夜子がそっと寄り添うように立つ。


「彼が相談してきたの? こちら側の勝手な行動で結実する時もあれば、大きなお世話って事もあるのよ? それよりも今はお店が優先よ! お客様にはこのことは関係ないもの…… 冷たいわけじゃないのよ……」

 美夜子はその言葉を残しフロアに戻っていった。


「美夜子さん……」

「姉さん、なんか怒ってない?」

「俺も持ち場に戻るぞ」

「……ああ。慎一朗、頼む」

 ひなたの顔が一気に曇り、僕も、慎一朗ですら空気を読んだ。


 まだ賑わう店は全てを流し、夜はゆっくりと更けていく。世間は何も知らない。何も、何も。

 閉店後の静まり返ったカウンターで僕と慎一朗は片付けをする。聖がいつ戻ってきてもいいようにと、テーブルには彼の荷物とガーベラの小さなブーケが氷の入ったグラスに傾けられていた。




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