第9話 矢熊 慎一朗という男

 僕は携帯電話を耳に当てたまま、急いで玄関の扉を開ける。そこには、いかにもだるそうな体制で壁にもたれる金髪の男がこちらを見て軽薄そうに笑う。男は肩にギターケースを背負い、手には数本の缶ビールが入ったビニール袋と某所の有名鰻屋の紙袋をぶら下げて僕の顔の前にぶらぶらと差し出した。


「諒、やっぱり家に居た…… 生意気に居留守なんて使ってんじゃねえよ!」

「慎一朗か。お前、なんて早い時間に来てるんだよ、まだ昼だぞ?」

「はあ? 馬鹿か! もう昼の間違いだろう。これだから夜の人間はって…… おまえ、人の話を聞いてるのかよ」

「ああ、そうかもね…… ああ、すごい太陽眩しい……」

「そうかもね…… ってまだ寝惚けてんのかよ。ところで、中、入れてくんないの?」

「ああ、すまない。上がれよ……」

 玄関で真っ黒な編み上げブーツを手間取って脱ぐのは相変わらずだな。そこまで大変なら無理してまで履くなよ。スニーカーにすれば楽なのに。ってコイツを見ていると何故だか少しだけホッとできる。不思議なほどに、心が落ち着きを取り戻す。


「もうさ、最近は人の愛し方がよく分からないよ〜 愛想を振ってればいいの? 男とか女とかって差別化するなよ〜。男は男で大変なのよ〜 な〜? 慎一朗〜」

「なんだよ、久しぶりに会って、なんともロックな会話だな〜 あと、なんかジジイくさい。まあ、そこが諒らしいっちゃらしいけどな」

 缶ビール片手に子供のような無邪気な顔で嬉しそうに笑い、慎一朗がビールを一気に喉に流し込んでいく。実に美味そうに飲み干した。


 

 この男は、矢熊 慎一朗やくま しんいちろう


 子供の頃からの親友で、兄弟のように何処に行くのもずっと一緒だった。

 本人曰く「俺んちは貧乏だし、兄弟とか居ねえし、親は暴力ふるうし、散々なんだよ。お前と一緒だと安心感あるし、姉ちゃん綺麗だし?」と、馬鹿の一つ覚えのように毎度耳が飽きてしまうくらいに繰り返し言っていた。

 学校のある日は、一番端の一組から僕の居る七組まで弁当を持ってわざわざ食いに来る。休憩時間は廊下で話もたくさんした。もちろん学校が休みの日も当然のように一緒に遊ぶ。

 泊まりに来ると慎一朗は朝まで音楽の知識を僕に大盤振る舞いしてくれた。長期の休みは、ふたりで野外フェスにも何度も行った。

 慎一朗は文化祭ではスリーピースバンドを組み、ボーカルとベースを担当して性別問わずにとても人気があった。後輩の女の子にお弁当やお菓子をもらっているのも知ってる。別に気に入らない訳では無いが、慎一朗が自分で思うよりもモテていたのも事実だ。

 卒業式に胸のボタンは全て、可愛い子たちに僕の目の前でもらわれていきました。あわよくば制服や学生カバンまで奪われかけたほどだ。追い剥ぎじゃあるまいしと、ふたりで帰りの公園の遊具の上で大笑いしたのも良く覚えている。

 今は趣味が高じてライブハウスを営んでいる社長に出会い、そこで店長をしている。そこそこ有名なミュージシャン達が演奏をしに来る店で経営は上々らしい。



「で? 美夜子さんは相変わらず綺麗で元気なのかよ? ってなんだよ? その諒の顔は……」

 恋まだ終わっちゃいないと言わんばかりのきらきらな少年の面構えと、大袈裟な身振りで話すのも相変わらずだなと思った。そんな慎一朗に僕は思わず面食らって苦笑いをしてしまう。


「あー……それは…… ねえ?」

「なるほど〜 今は良い人が居るって事だな?」

「悪いな」

「なんでそこをおまえが謝るんだよ。そこはかとない空気を醸すなよ…… まだ俺だって諦めちゃいないわけじゃないしな」

「相手が相手だけに弟としてはホッとできるような、そうでもないような…… でも今は無理だな。お前じゃ、無理! 絶対に無理! お前じゃ勝てない」

「なんだそりゃ! 決めつけんなよ! 俺も意外とやるのよ?」

 まさか、美夜子の相手が有名なホストクラブのCEOとはさすがに言えなかった。それに、若林さんは軽そうに見えて、芯のしっかりした大人の男性だ。美夜子は若林に口説かれなくても、いずれ惹かれていただろう。



「ただいま〜! まこぉ〜 お姉ちゃんが帰ってきたわよ〜 お出迎えしなさいよ〜」

 

 このタイミングで、玄関の鍵の開く音と美夜子の声が聞こえた。無造作にピンヒールを脱ぎ捨て、豪快に廊下で倒れ込む。かなりの量のアルコールを煽ったのか、美夜子はリビングに辿り着けずに洗面室の壁に寄りかかったまま寝てしまった。


「あーあー…… 美夜子さん! そんな場所で寝ちゃって。起きた時に身体あちこち痛くなるぞ〜」

 眉根を下げ、慎一朗が美夜子の前で声をかけた。だが、美夜子には慎一朗の声は聞こえていないようで、目を閉じたまま口元を緩ませた。


「姉さん、笑ってるよ…… もう、だらしないな……」

「諒…… 美夜子さんの部屋の扉開けろ!」

 慎一朗は当たり前のように美夜子を抱き上げると部屋の前まで移動する。コイツのこういうところが僕らは好きなんだと、心のどこかでいつも思っていた。


 親が居なくて寂しい思いをしなくて済んだのは慎一朗のおかげだと僕は思う。きっと姉さんも同じだろう。


 珍しく横浜に大雪が降った日、トラックと両親を乗せたタクシーが正面衝突をして、大型トラックの下に潜り込むような形でタクシーの運転手諸共、即死だった。

 遺体安置所で冷たく変わり果てた両親は、何度声をかけても、もう二度と笑ってはくれなかった。もう二度と僕たちを抱きしめてはくれなかった。残されたのは家族で住んでいたこのマンションと、少しばかりのお金と、有り余るほどの時間と孤独だった。それもまだ小さかった僕たちに。長くて胸が潰れるほどの事だった。

 あの悲惨な事故で両親を亡くし、美夜子も僕自身も、身も心もボロボロになった。そんな時にも、お世辞やお節介抜きで、最初に駆けつけたのも慎一朗だった。

 

 美夜子が高校生のころ遅くまでバイトをして近道をしようと入った緑道運動公園で、酔っぱらった数人に酷い目にあった時も僕より先に駆けつけたのも慎一朗だった。あと一歩遅ければ、美夜子は死んでいたかもしれない。大雨の中、痛みと悔しさで泣きじゃくった美夜子を何も言わずに抱きしめ続けたのも慎一朗だ。


 雨の中、美夜子を迎えに行った慎一郎の傘は血と泥でボロボロになって地面に落ちていた。


 


 僕は、人間としても、男としても惚れる。

 矢熊 慎一朗は、そんな男だ。


 今回もまるで、何処かで何かを聞きつけたみたいに僕の好物の鰻屋にわざわざ遠回りしてまで寄って。苦手なくせに行列の中ならんで、これを買ってきたのかと思うと僕は鼻の奥がツンっとした。


 疲れた身体と空っぽの心がすっと元気になっていく気がした。


 結局ふたりで夜中まで飲み合いをして、最後には酔い潰れてリビングでぶっ倒れたように寝てしまった。



「本当にふたりは相変わらずだな…… しんちゃんも、まこも、風邪ひくよ……」

 美夜子はブランケットをふたりに一枚ずつ掛けて、ソファーに深く腰をかけると、自分もその場で子供のように寝息を立てて寝てしまう。


 美夜子も諒も久しぶりに心から眠りについた気がした。

 朝、起きると慎一朗の姿はなく、雑な文字のメモが残してあった。


「鍵ポストに入れとくな!」


 こういうところも慎一朗は相変わらずだなと、諒は笑った。

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