第10話 蟻と蜘蛛の巣

 この世界に昆虫は何匹いるんだろう。

 総数は、およそ百四十京匹だと科学者たちは見積もっているらしい。

 昆虫は地球上で全ての種の八十パーセントを占めているとも言われている。

 植物の種類よりも、甲虫の種類の方が多い。

 シロアリの女王は一日に最高で三十万個まで卵を産むことが出来るそうだ。


 一粒の砂糖に一匹目の蟻が気がつく。

 一度、その一匹が巣に戻って報告をし、仲間を連れてくる。


 乱れず真っ直ぐに、ひとつに群がる。

 一度、獲物を決めれば自らの何倍もある大きさだろうが、重さだろうと気にしない。


 例え、それが危険を伴うと分かっていても。

 何かを守る為に、残す為にと必死なのだ。




 *****


「美夜子、もう大丈夫そうかい?」

 叔母様の三越京香が電話越しに心配そうに声をかけた。


「ええ、もう大丈夫です。いつまでもお店を閉めているわけにもいかないです。叔父様もきっとお店がこんな状態だと辛いですもの……」

「あの人のことも、店のこともそこまで気にしてくれているのかい。ありがたいわね…… だけどね。美夜子、まだ無理することないんだよ? スタッフのことも考えるとね」

 京香の心使いが今日はとても胸を締めつける。思わず涙が溢れそうになるのを美夜子はぐっと堪えて明るい声を出す。


「それこそ、スタッフのお給金が払えなくなってしまいます。明日の夜からお店は再開します。お心遣い本当にありがとうございます、叔母様」

「……そうかい、美夜子の気持ちは分かったよ。でも無理をするんじゃないよ? いいね?」

 美夜子はその言葉を伝えると、電話の奥で安心したような京香の溜め息が聞こえた。美夜子は、それをとても嬉しく感じた。


「姉さん…… 明日のスタッフの事なんだけどね。ちょっと言い辛いんだけど……」

「まこ…… 何かあった?」

「あ〜 うん、あったね。ものすごく。辞めたいって数人のスタッフから連絡があってね。あんな事件があれば当たり前なのかなって……」

 その言葉を聞いた美夜子は分かっていたような表情をして、グラスに冷えた紅茶を注ぎ入れ、諒の前に静かに置く。


「そういうことか…… 知ってた。アタシの所にも何本か電話が来たわ」

「嘘でしょ? それじゃ、あと何人ロータスに残っているの?」

「アタシとひなたちゃんと聖くんとまこ…… これだけよ」

「いやいや、それじゃ、いくらなんでも……」

「分かってるわよ…… そんなことアタシだって嫌ってほどに分かってる」

 そう言うと、美夜子は頭を抱えてダイニングテーブルに突っ伏す形で項垂れてしまう。

 

 こういう時って、どうすればいいのだろう。ない頭を左右に振っても何ひとつ良い案が出てこない。僕ら姉弟は人に何かを相談することも、お願いすることも苦手だった。そんなこんなで、ますます二人は頭を悩ませた。


「とにかく、ひなたさんと聖くんにも聞いてみないとね…… さすがに申し訳ないと言うか…… これじゃ、お店は再開出来ないよ」

「……そうね、それは大事だわ。まこ、すぐに連絡して」


 電話をすると、ふたりとも「大丈夫です」とは言っていたものの、この人数であの店でどうしていけば良いのか、やはりふたりは頭を抱える事となる。美夜子が携帯電話の着信に気が付き出ると、若林からの連絡のようだった。


「まこ〜 今からてっちゃんが来るって」

「へ? こんな時間に? って今から家に?」

「うん、なんだか渡したい物があるみたい」

「今じゃないとダメなの? そういや、慎一朗からも姉さん宛にこれ預かってた」

「……なにこれ?」

「えーっと…… 黒い猫のキーホルダー?」

 小さくて可愛らしい小袋を開けてみると、黒い猫のキーホルダーが入っていた。


「そんなの見りゃわかるわよ! そういう事じゃなくて……何でネコのキーホルダーなの?」

「知らないよ、そんな事まで」

「しんちゃんの子供みたいなところ、昔から全然変わってないね」

「アイツが変わるわけないと思うよ」

「それもそうね…… でも、これ可愛い」

「それにしても甘いね〜 やる事がとことん甘いね〜」

「何よ、それ?」

「さあ〜」

 慎一朗のお陰でふたりの空気も元に戻っている。やっぱり、あいつのこういうところには頭が上がらないと思った。

 そうこうしていると、若林がマンションに到着したと電話をかけてきた。


「うぃーす。諒、クルマから荷物を運ぶの手伝え」

「手伝うけど、そんなに多いの?」

「ああ、ちょっと多いかな。とにかく手伝ってくれ」

 マンションの下に出ると若林の嫌味ったらしいほどの高級車の前に台車が二台置いてある。その横にはダンボール箱が結構な数が重ねて置いてあった。


「なんです? この数のダンボール箱……」

「おお、ちょっとな。部屋まで運ぶぞ」

 とにかくふたりでマンションの部屋までそのダンボール箱を運ぶと、美夜子が怪訝な表情になった。


「なんなの? このダンボール…… ものすごい数…… まさかこれ全部を部屋に入れるつもり?」

「そ〜ね〜 全部ね。仕事に使えそうな物〜」

 若林がひとつのダンボール箱を開けると美夜子がそれを覗き込んだ。中には様々な国のアルコールとアルコロックグラスにシャンパングラス、それにアロマキャンドルやフラワーベースまでが入っていた。


「みーちゃん。今回の件で、店…… 人がどんどん辞めてったろ?」

「てっちゃん…… 言ってもないのになんで分かるの?」

「そういう商売だし、そういう業界? かくなる俺も同業者〜ってわけよ」

 若林がにやりと口元を緩めると「叔父様相手のクラブじゃなくて、ショットバーにすりゃいいんだよ! 客引きも要らねえ、そこまで高価な酒も置かない。若い子も入りやすいようにちょこっと内装も変えりゃいいんだよ。それに最高級のバーテンダーもロータスには居ることだしね」

 若林は僕をちらりと見てから、にこりと微笑んだ。


「てっちゃん…… それのためにこれ運んできたの?」

「うん。そういうこと。まあ、全部うちの残り物だけどね」

 その若林の考えに僕らは呆気に取られた。この数日間に知らないところでそんなアクティブに動いていたのかと。色んなことがありすぎて、逃げ出したくなっていた僕らに変わって。この人は本当に経営者なんだと感じる。俺なんかじゃ考えもしなかった案だった。


「俺の知り合いの内装業のヤツにも話は通してある。あとは美夜子のお答えをいただくだけだ」

「それなら、すぐに答えが出るわ。多分ダメって叔母様が言うもの。だからね、てっちゃんがせっかく用意してくれたのに。ごめんね」

「ほほう〜、俺からその素敵な叔母様に連絡がもう行ってるって言ったら、美夜子はどうする?」

 美夜子は目を丸くして両手で口元を押さえて言葉にならないようだった。


「なんて手回しの良いこと良いこと…… 若林さん、策士だ」

 そして僕は苦笑いをして、ある提案をアイツにも連絡をすることにした。もちろん、即返答があり、僕らはふたりぼっちじゃないことに気がついた。



「で? ……誰、こいつ?」

 工具箱を片手に慎一朗が片目を大きく見開き、だるそうな物言いで若林を見る。


「もう〜 牙むき出しの狂犬か? 慎一朗〜、そういう態度! お前はすぐに大人に敵意を出す。そういうとこだぞ」

「……ああ? なんか言った? 諒」

 若林の前であからさまに不機嫌な表情を見せ、慎一朗はすぐに何かを感じたらしい。こういうヤンチャなところも変わってない。それも、まったくだ。


「ああ〜! しんちゃん来てくれたんだ」

 真っ白なワイシャツにタイトな千鳥格子のパンツを履いた、あのロータスの蓮の刺繍の入ったエプロン姿の美夜子が店の置くから出てくると慎一朗を見て柔らかく微笑む。


「美夜子さん!」

 おい、なんだ。その犬が久しぶりにご主人様に会った時のような雰囲気は。ある筈のない尻尾まで見えるよ。どんだけだよ、慎一朗。


 その様子を黙って見ていたひなたが、ゆっくりと近寄って来た。

「なんか別の種類の小僧がまたひとり増えた…… 短髪の金髪に編み上げブーツと革のブレスレット…… うわ、まだ居るんだ、こういうの……うわああ〜 趣味わるぅ〜」

「……うん? なんか今聞こえたけど? 空耳か?」

 ひなたを目の前にして慎一朗が遠くを見るような仕草をした。


「ちょっと! そこまでアタシは小さくないわよ!」

「あ、そこに居たんですね? 小さくて見えなかったわ! 悪いね〜って俺は全然悪くないわ」

「きいいいい! 諒! この無礼な男はなんなのよ!」

 それをまた隣で見ていた聖が眉間にシワを寄せ、肩を上下に揺らして不意に吹き出して笑いだす。


「おお? なんともまあ、フレッシュなイケメンちゃんが居るじゃん! バイトの子? 音楽とか興味ある?」

「お前はどこの気さくな兄ちゃんだ! ったく、何しに来たんだよ……」

「お前に呼ばれたから、すぐにスタッフに仕事を押付けて休んで此処に来ました! 矢熊 慎一朗です! どうぞよろしくお願いします〜」

 ぺこりと敬礼をすると、にやりと軽薄そうに慎一朗が笑った。


 数日間、こんな日が続いて、へとへとになりながらも充実感はあった。


 聖は学校にしっかりと行き、帰りに此処に寄る。「ぼくひとりだから誰かに頼りにされるの嬉しいです!」と笑い、父親譲りの器用さで色々とこなしていく。

 ひなたは美夜子の手伝いして、前と変わらずロータスのムードメーカーになっていた。


「ロータスの看板って、このデザインのまま行きますか?」

 内装デザインの人がパソコンを打ち込み、美夜子に声をかけた。


「うん。それは変えないで。白い看板に真っ黒な大きな蓮の花。それから力強いグレイの文字。私ね、気に入ってるの。とても好きなの……とても」

 店の名刺を華奢な指先で持ち、美夜子がとても静かに力強くはっきりと言葉を伝えた。



「美夜子さん…… とても綺麗だな……」

 僕の斜め後ろで、小声で聖が呟いた気がした。


 蜘蛛の糸は鋼鉄のワイヤーの二倍近い強度を持っている。蜘蛛の糸は、蜘蛛が蜘蛛の巣を作るために生み出すタンパク質の糸。

 蜘蛛の糸は蜘蛛の身体にある小さな管、出糸突起から出てくる。依り合わされた太い糸が、風や雨、落ちてくる小枝や葉にも耐えられる耐久性を持っている。蜘蛛の巣はとても丈夫だ。巣は渦巻き状の細くて粘着質の糸が蜘蛛の貪食、つまり貪り食うためにあるのだ。


 獲物が自らの脚で来るのを、今か今かと待つのだ。



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