第4話 止まった時間

 同じ土壌に咲く花も、愛情を持って育てるかどうかで鮮やかに美しく、そして儚く可憐に息衝く。


 だが、花は蕾のまま咲かずして枯れることもある。


 誰からも愛情を受けずに、何も知らずに果て逝くのだ。


 植物は、やがて何も無かったように新しい種を撒き、青々と命は育つ。


 何も知らない、誰も気がつかない。

 そうして皆に忘れ去られていくのだろう。


 とても単純で、とても簡単なことだ。

 



 *****


 本日、店に掃除業者が入ることで一日お休みになる。そんな日は決まって家の掃除と姉の散らかった部屋と姉の脱ぎ散らかした洗濯物に追われることとなる。大抵のモノはクリーニングとハウスキーピングに任せるのだが、やっぱり人に全てを任せるのも嫌なこともある。余りにもなモノに気が引けるとも言えよう。下着やバスタオルなどの細々したモノ。ごちゃごちゃとしていて人に触らせたくない思い出たち。どうしても捨てられないミニカーとか、お菓子の缶に入った手紙や甘酸っぱい思い出の品などなど。


「諒、まだそんなモノ持ってたの…… あんたって子は……」


「ああ、うん。どうしても捨てられなくてね。とくにこの部屋は触りたくないんだ、手付かずで、あの日のままで置いておきたい……」


「まったく…… そんなこと言ってたらここから何処にも行けないし、何も成長しないわよ! その時計壊れちゃってるんでしょ? もう捨てたらいいじゃない。どうせ竜頭を巻いたって動かないんでしょ?」

 銀の懐中時計を手にした僕はそのセリフにピリッとする。何気ない言葉は時として棘に変わり、毒をゆっくりと心に流し込んでいく。その言葉と美夜子に罪はない。彼女はまったく悪気はないのだ。それだからこそタチが悪い時もある。それを分かっていても、僕は苛立った。


「ちょっと黙っててくれるかな…… もうこの際だから正直に言うけど、姉さんは一言がうるさいんだよ。またいつものようにバカにしたいのなら別だけどね」


「べ、別に馬鹿にしてるとかじゃないわよ?

 こういうことってアタシが言わないと誰も言わないでしょ…… って誰にも言えないわよ、こんなこと…… まこだって知ってる癖に」


「それが分かってるならもういいよ…… でもね。今日はもういいから。そっとしておいてよ、あと……」

「うん?」

 その言いかけた言葉に救いを感じた美夜子が、少し期待をして顔を上げた。


「いい加減、この部屋から出ていってくれる?」


「諒…… アタシね…… あの時ね……」


「姉さん…… もういいから…… 今はもういいから……」



 これ以上は耐えられないと感じた。それに、美夜子に怒ってる顔を見せたくない。今の僕はそれだけでいっぱいだった。頭を下げ、沸き上がる苛立ちを隠せずに父の書斎を出て、自室に戻ると、おもむろにベッドに体をあずけた。寝返りを打つとベッドが軋む。ぎしぎしと今の僕を煽るようにスプリングのしなる音。憂鬱と苛立ち。思い出される記憶。血中濃度が上がったように身体が熱くなり、いてもたってもいられなくなる。僕は散らかった部屋をあとにして浴室へ向かう。熱めのシャワーを頭から浴びると、少しだけ気持ちが安らいだ。

 

 落ち着け、落ち着けよ。

 苛立ってもいい事なんて何もない。焦ったって元には戻らないんだ。子どもの頃からずっとずっと、自分にそう言い聞かせてきた。


 浴槽に張られた水は青白く僕をゆらゆらとうつす。いつも泣いていたあの頃と違って、大人になった僕が、死んだ目をして口元を歪めた。


 もう先に進まなきゃ……

 ここに突っ立てたって何も変わらない。

 分かってる、分かってるんだ。



 浴室から出て、洗面所で髪を軽くタオルドライしていて、リビングからの微かな音を感じる。リビングと廊下と洗面所はわずかの距離でテレビの音や話している声が若干だが聞こえるのだ。髪を拭く手を一度を止め、僕は何気に耳をすました。


 話し声?

 テレビの…… ではない?

 ラジオ? いや、まさかね、姉さんはラジオは顔が見えないからと好まなかった。だから、聞いているところなんて見たことないのだ。……じゃあ、なんだろう?

 隣人? 騒いでる? まさか、このマンションはしっかりと防音はされてる。それにまだ朝だ。こんなに騒ぐはずがないだろう。


 咄嗟に僕は嫌な予感がして、背筋から首筋にかけてぞくぞくと寒気がした。泥棒? まさか強盗?


 そっと洗面所のドアを開ける。なるべく音を立てないように、まるでスパイや忍者のように。廊下に顔を出せるくらいの隙間が出来て安心したのも束の間。リビングから姉さんの声に交じって男の声がする。何かを喋っているのか?

 

 ん? ……え?

 これってまさか、喘ぎ声?

 まさか! 姉さんが襲われてる?

 んな訳ないか…… って……これはこれでまずくないか? 冷静になれ。


 聞き間違いでなければ、僕はこのまま、情事が済むまでここから出てはいけないのではないか?


 これはいけないな、すこぶるタイミングが悪い。


 っていうか、弟が家にいるかもしれない状況で男を連れ込むか? さっき喧嘩をしたのに、だぞ?


 幸い、僕の部屋はリビングとは逆の方向だ。タオルを手に僕は忍び足で洗面所から出ることにした。頭を一度ひっこめ、片方の腕と肩を出し廊下側にねじ込んでいく。よし、これは難無くクリアだ。次が大事で脚をそろりと出し、ゆっくりと全身をスライドさせていく。……おお! これもいけるか? まるでスパイごっこだ。若干だがワクワクする。よーし!



「……諒。オマエはパンツ一丁で、なにやってんの? 忍者ごっこか? 夜と違って子供みたいな趣味か、変わってんな……」


「はい? ……えっ?」


「諒…… それ、なんのプレイ? 我が弟ながら情けないったら、ありゃしないわよ」


 僕の後ろで聞き覚えのある男の声と、姉さんの声がした。恐る恐る後ろを振り向くと、姉さんと若林が呆れた表情でリビングの扉を開け立っていた。


「なんだ〜 若林さんか〜 ……って、若林さんっ? ちょっと、なんで! え? どうして?」

 僕は安心したのも束の間、若林さんを見て気が動転していた。


 このふたり、そういうアレなの?

 いやいや、ないだろう。

 でもな〜 案外 ……ちょっと待って、案外って何?


「諒…… オマエ今、何考えてる?」


「……へ?」


「顔が色々おかしなことになってるぞ……」


「いや、なんでも…… ないですよ…… 若林さん、おかしなことを言っていますよ!」


「こういう嫌なタイミングで、ぎこちない敬語ってオマエ…… 嘘、下手くそかよ!」


「すいません…… 僕、もの凄く正直者で……」



「どうでもいいけど…… 諒、その格好なんとかならない? 馬鹿だから風邪は引かないだろうけど、目障りなのよ…… わざとらしいだけの見世物筋肉体型が……」


「大きなお世話! あと、ひとこと多いよ! 着替えてくるから」


「ねえ! 諒、珈琲あとで入れてくれる?」


「……ああ、うん。分かった」


 着替えを終えてリビングに戻る。あからさまな距離感。あからさまなふたりのシャツと髪の乱れ方。ソファーとオットマンのぐちゃぐちゃのカバーに、やけに脚を上げたラフな座り方。どこをどう取っても、まさにって感じが、逆にわざとらしいくらいだ。ということは、やっぱりか。


 少々、飽きれ顔で僕は何も言わずにコーヒーメーカーに深煎りロースト豆を入れて水をセットする。珈琲が出来る上がる間にミルクをスチームで泡立てる。静かなモーター音が聞こえ、鳩時計が午前九時を知らせる。部屋に珈琲の香ばしく深みのある香りが広がる。その間に作り置きしておいたワッフルをオーブンに入れ、じっくりと温める。冷蔵庫からホイップを出し、コアントローを一滴入れる。軽く混ぜ合わせたことでフルーティーなダークオレンジの香りに鼻腔がくすぐられて、僕は少し得意気な表情になる。それを皿に乗せ、ブルーベリーソースを輪を描くように縁に掛ける。白いホイップクリームにひと手間かけるだけで見た目は華やかになり、甘さだけでなく、ブルーベリーの酸味が加わり飽きさせない味になる。最後にベランダで栽培しているハーブの葉を一枚ちぎって軽く水で洗ってクリームの上にそっとのせる。温まったワッフルを皿に乗せたら完成だ。テーブルに皿を置き、淹れたての珈琲をカップにゆっくりと注ぎ入れる。空気に混ざったことで芳醇な香りに少しだけ甘さがプラスされた。


「ああ〜 いい香り! まこちゃん! もういただいでもいい?」

 美夜子は両手の指を絡ませ、うっとりとした。僕はそんな姉に冷ややかな視線を落とす。


「えーえー、それはそれはお待たせしましたね、お姫様。香りが損なわれないうちに、どうぞ召し上がれ」


「ほおお! こりゃすげえ! 諒…… オマエいつでもお嫁に行けるな」


「ははは…… それは、どうもありがとうございます」


「それはそうと。諒、オマエに言いたいことがあって今日は来たんだよ!」


「ん?」

 僕は珈琲を飲みながら、若林の顔を見た。




「言い難いんだが……」


「ちょっと。てっちゃん……」


 てっちゃんって……

 日頃はそんな呼ばれ方してんのかよ!

 何? 私達、お付き合いしてます! と、でも言い出す気? そういうのはいいよ。ガキのホレタハレタじゃあるまいし、勝手にしてくれよ。

 

 そう、僕は思った。が、意外な程にそれは裏切られることになった。


「鞍馬山モータースの件なんだけどな……」



「……へ? あ、え? はい?」


「うん?」


「そっちですか?」


「ん? そっちって…… どっちよ?」


「いやいや、なんでもないです。鞍馬山モータースがどうかしたんですか?」

 フォークを片手に取り、若林は渋い表情になった。



「あの話には、続きがあってな……」



「続きですか……」


「左手首が…… 未だに見つかってないんだってよ……」


「そういうのって珍しい事なんですか? 犬がくわえて持って行ったとか……」


「それ…… だったらいいんだけどねえ〜」

 

 嫌な予感がする。そりゃそうでしょうよ。第一声が「左手首が見つかってない」からですもん。

 予感は的中。テレビや映画のサスペンス劇場だよ。ありえない。若林は珈琲を一口飲むと喉を潤し、ニヤニヤと口元を歪めた。



「てっちゃん、まこちゃん。鞍馬山モータースって商店街の端っこの?」

 美夜子が僕らの会話に首を突っ込み、驚いたような表情を見せた。


「ああ、うん。あそこのおじさんらしいよ」


「おじさんったって、まだまだこれからって歳だよ。俺とそんなに変わらないさ」


「若林さんって幾つなんです?」


「嫌だな〜 歳は聞かないって約束よ?」


「女性じゃあるまいし…… ってどうでもいいです。まったく興味ないです」


「あっそ」

 若林はニヤニヤと笑い、クリームをフォークでつついた。



「この前、面接したあの子が息子さんなんでしょ? お父さんが亡くなる前に来たよね?」

 美夜子がテーブル越しに僕らの会話を真剣な表情で聞いていたが、痺れを切らしたように間に入ってきた。


「あ〜 うん。確かそうだね」


「なあ、高校生がバイトするにのロータスってどうなのよ?」


「水商売だしね…… 流石にね」


「俗に言う、キャバクラでしょうよ……」


「その言い方…… 僕はすごく嫌いです」

 僕はコイツは何を言っているんだろうと呆れた目で見る。そして、若林の言葉にため息をついた。



「この際いいじゃない!」


「……良くない」


「諒って、そこにいつも変に拘るのね?」


「はは、仲良いね〜」

 席を立ち、灰皿を手に若林は笑う。美夜子は急いで換気扇の強度を上げると、ライターを手渡した。


「そんなことはいいです! 続き!」


「黒瀧が言うには、急ぎの金が必要だったから嘘までついてバイトしたかったんじゃないかって」


「高校生でしょ? 欲しいものがあったんじゃんないの?」


「そりゃそうでしょうよ…… けど、ここら辺の最低賃金を考えても、無理にキャバクラで働かなくてもね、普通のお店でも結構もらえるでしょ?」


「確かにね……」


「うちってそんなに高額なバイト料を払ってる?」


「そうでもない…… かな? スズメの涙、安月給…… ってうるさい!」


「キャバ嬢もお給金って安いの?」


「てっちゃん! そういう事が聞きたくて今日はここに来たの?」


「ごめんごめん。みーちゃん、そう目くじら立てるなって! で、本題ね? ロータスを敢えて選んだんじゃないの? って俺は思うんだよ」


「どうして?」


「そこまでは、まだ……」


「なにそれ? 結局なんにも分からないんじゃないですか!」


「てっちゃん…… 寄せ集め探偵団でもやるつもりなの?」

 美夜子は呆れた表情で、ワッフルの最後のひときれを口に頬張った。


「いや、気のなってね。だって変でしょ?

 なくなった左手首は? それから、こないだの変な電話は?」


「ん〜」

 僕はその言葉に腕を組んだ。食べ終わった皿とティーカップを手に美夜子が立ち上がり、キッチンにそれを運ぶとつまらなさすぎたのか頬をふくらませた。



「アタシいちぬけええ! つまんないいい!」


「でしょうね……」


「それよりせっかくのお休みよ? どこか行きたーい!」


「……中華粥でも食べに行く?」


「それ! そういうの待ってた! 連れてって! アタシすぐ用意するから!」


「ああ、分かった!」



「……」


「何、その諒の顔……」


「別にいいです。お気になさらずに……」


「拗ねてんの? なんなら、オマエも行く?」


「拗ねてません。それから、行かない……僕が行く意味がない」


「なんだよ〜素っ気ないね〜、美夜子さんとはなんでもないよ…… って言えばいい? まこっちゃん!」


「……好きにしてよ、お互い、いい歳なんだし!」


「誰がいい歳よ! アタシは、まだ二十代なんだからね!」


「けっ! それはそれは悪うござんしたね!」

 美夜子が自分の部屋から大声で反論し、僕は適当な返事をする。そこに若林が神妙な顔で、僕に声をかける。




「……諒、ちょっといいか?」


「もう! なんですかっ! 若林さん! 僕はどうでもいいって言ってるんですよ!」


「そうじゃなくて、鞍馬山モータースの件だけど、諒、オマエひとりだけで首突っ込むなよ?」


「しませんよ、そんなこと」


「ならいいけど…… ちょっとだけ気になったから……」


「若林さんは姉さんから、あのことを聞いてるんでしょ……」


「なんのことかな? さてさて、美夜子には俺はクルマにいるからって伝えといて。諒、よい休日を〜」


「はい…… ごゆっくりどうぞ」


 若林さんの屈託のない優しい笑顔に「例の事」を聞いてるんだと僕は確信した。父親と母親が僕らを残して死んだことも、姉さんが親のように僕を育てたことも。


 すべてすべて……

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