第5話 赤い唇が嗤う

 人の心は、いずれは変化する。

 変わらないことは難しい。

 人はそうやって生きていく。

 

 人とは、そんなものだと分かっていても、知らないふりを繰り返す。



 それが楽なんだと、いつ、人は気がついたのだろう。

 


 ******


 インターフォンが鳴る。

 テレビドアホンを見ると、この場に似つかわしくない真っ赤なカーディガンを羽織った黒髪の女がうつむく。その隣に喪服姿の上品そうな高齢の女性が落ち着いた表情でこちらを見ていた。


「少々お待ちください。今そちらに向かいます」

 聖は咳払いをひとつすると、よろよろと身体を揺らして玄関へと向かう。昨夜はゆっくりと寝たはずなのに、睡眠の足りていない顔。気だるく重い身体。その全てにじんわりと線香の匂いが纏わり付く。無理に身体を引きずり、重い足取りで何処までも続くように畝ねる廊下に聖は眩暈がした。


「……ひじりちゃん、おばちゃんが代わりに出ようか? 昨日の今日だもの。もしかして昨夜は寝てないんじゃないかい? 顔色悪いわよ……」

 手伝いに来ていたクリーニング屋のおばちゃんが聖の顔を覗きこみ声をかける。


「ん…… 大丈夫。あとで温かい飲み物だけ頼んでいい?」

「そりゃ、おばちゃんはかまわないけど……無理しちゃ駄目だよ? ひじりちゃん……」

 聖の今の姿は、誰の目にも儚く。そして弱々しく映るだろう。父親が前触れもなく逝ってしまい、親族が誰一人も訪れず、昨日の昼から今まで連絡ひとつも寄越さないのだ。

 聖を身ごもった二十歳にも満たないお嬢様の母親と、板金工に見習いで働いていた譲治は駆け落ちをした。そして、二人はひっそりとこの町に小さな店を作る。必死で手と手を取り合って頑張ってきたのだ。身内はそれを知っても尚、冷ややかな目で手を差し伸べる事などしなかった。そりゃ、葬式にだって誰も来ないだろう。


 例え、この状況を把握していてもだ。


「この度は本当にご愁傷様です……」


 玄関の扉を開けた先の喪服姿の女性が丁寧に頭を下げる。それに釣られるように聖は慌てて頭を下げた。

 そんなふたりの横で赤いカーディガンの女性が長い黒髪の隙間の青白い顔を歪ませた。


「ねえ? 貴方がひいちゃん? ひいちゃんよね?」

 蚊が鳴くほどの小さく震える声が、扉の外の風にゆらゆらと揺れるカーディガンの女から聞こえる。この場に似つかわしくない真っ赤なカーディガンに黒いサテンのワンピース。袖口から見える手は陶器のような滑らかさにミルクを溶かした白い肌色。ゆっくりと頭を上げる、その女の顔が見える瞬間に聖は全身が痺れるような感覚になった。


「こんなことあっちゃならない! こんなことは納得がいかない!」そんな言葉が頭の中をかすめていく。


 写真立ての母親の顔。

 綺麗な漆黒の髪。ゆっくりと流れた時間が湿った風で聖の頬を撫でていく。

 古いレコードが逆回転していくような嫌な音が耳の奥を震わせた。ぞくりと首から背中に冷たいものが流れていき、寒気と吐き気に襲われる。喉元まで込み上げる甘苦い液体に耐えきれなくなった聖は洗面所に駆け込んだ。全てを吐き出す。音もなく溢れ出てくる涙も、想いも何もかもだ。慌てて水を流し、口元を拭う。聖は痛みで痺れる胃のあたりを片手で押さえた。震えなのか恐怖なのか、痺れる痛みがさらに緊張を後押しする。

 すぐ後ろで人の気配がして、聖は背中を幾筋もの汗が流れていくのを感じた。


「大丈夫だから…… そばに来ないで」

 その言葉が今は精一杯だった。


「ひいちゃん…… とても大きくなったわね…… ジョージさんには全く似てないわ……よかった。アタシに…… アタシに似てるもの…… 白い肌も薄茶色の瞳の色も」

 冷たく尖った声は、とても知った声だった。だからこそ、怖いと思ったのだろうか。


 その声に聖は、恐怖なのか緊張なのか分からないモノに震え、膝はガタガタとする。生まれて初めて、振り向くのがこんなにも嫌なことだと気がつく。それでも聖は首を左右に振り、気持ちを整える準備をする。


「あんた達ここに何しに来たの…… そこのアンタは誰だ?」

 やっと押し出た言葉に周囲の空気が張りつめる。


「聖くん、私たちはね……」

 さっきの喪服の女性がゆっくりと丁寧な声で、ぽつぽつと話し出す。


「叔母様、こんな所で話せないわ? そこの貴女、せめてお茶の用意でもしてくれるかしら? 安物の緑茶は嫌よ? そうね…… 苦味が少ない紅茶か、カフェインがない…… そうね、麦茶がいいわ。あのね、ひいちゃん、聞いて。とっても大事なことなの。ワタシたちの大事なこと。これからのことなのよ。ひいちゃん……」

 口元を片手で押さえ、赤いカーディガンの女が不躾な言葉を言い放つ。


「……たち?」

 聖は引っかかる言葉に女の顔を再度見た。


 真っ先に目に入ってきたのは、真っ赤な口元に含み笑いを浮かべた写真たての中の母親そのものだった。



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