第15話 一天俄にかき曇る

 空は灰色の厚い雲に覆われる。楽しかった時間は虚構の世界を改作するために使われる。


 ぼくは異性を特別に思うことがなかった。思し召し。面白い言葉だよね。でも、きっとこれは、邪恋だ。上手くいくなど、到底思えない。それは周りから見ても分かるだろう。


 戯言? 戯れ事?

 どっちでもいいや。


 もう飽きた。

 これで終わればいいんじゃない?

 そんな感じでいいんじゃない?



 歪んだ愛は燃えて消えゆく。

 そんな運命もいいんじゃない。



 ******


「聖くんは、あれから連絡はないのかい?」

 若林の声は誰の耳にも届いているはずなのに。皆は顔を見合わせては、上手く言葉に出来ないでいた。


「家に誰か行って様子は見たのか?」

 痺れを切らしたように若林が出した言葉に、慎一朗が大きな声出して立ち上がった。


「おおお! それがあったか! 俺が今から行ってみようか?」


 若林は額に手を当て、くくくと笑いを堪える。それに釣られて諒も笑いだした。慎一郎だけが、キョトンとして笑う二人を見ていた。


「あっきれた…… アタシですら気がついてたわよ。でも、アタシがこういうデリケートなことに出しゃばって言えないじゃない? それに、アポも取らずに勝手に家になんて行けないじゃない」

 ひなたがモジモジして上目遣いでこちらを見ているが敢えて、諒は無視してみる。


「ちょっとおお! どうして、そこ黙んのよ! 今すごくいいこと言ったでしょ」

「ひなたさん…… もういい。本当に…… もういいですから」

「ねええ! どうして若林さんは、目に涙を溜めてまでして笑いこらえてるのよ」


「ひなた! ひなた!」

「何よ! って呼び捨てにしないでよ! 金髪猿のくせに」

「誰がサルだ!」

「あら、ごめんなさいね。山猿だったわね!」

「なんていうか、キンシコウだな…… 絶滅危惧種だな」

「誰が西遊記の猿だよ」

「へえ〜 矢熊くんは、妙なことはよく知ってるな」

「全然、自慢にならないけどね」

「別に自慢してねえよ」

「……んん」

 例の言い合いになる前に美夜子が咳払いをひとつする。


「美夜子さーん」

「ひなたちゃん、今日もかわいいわね。でもね、おしゃべりよりも開店準備よ?」

「はーい」

 美夜子のひとことで、ひなたはお利口さんな返事をしてパタパタと在庫の品を確認しにバックステージに入っていった。


「さすが、美夜子だな」

「人を猛獣使いみたいに言わないで」

「俺はそこまで言ってません」

「あ、そう」

 そんなふたりを横目で見ていた慎一朗は小声で諒に問いかけてきた。


「……結局、あのふたりはそういう仲なのか?」

「え? 今なんて?」

「…………っっち」

「若干なんだが、おまえ今、拗ねたのか?」

「……黙れ、諒」

「お前は呆れるほどに、まだ諦めてなかったって訳か」

「うるせえよ……」

「姉さんなんかのどこがいいわけ?」

「なんかとか言うなよ。そんなおまえには死んでも分かんねえよし。死んでも教えてやらん」

「あ〜 はいはい」

 誰が分かるかよ。姉弟だぞ。いくらもがいても愛とか恋とか分かるはずがない。いや、分かるつもりもないさ。からっぽだからね。今の俺は。




 ******


「ホンマにあんたは要領悪いやっちゃで……」

 乱雑に投げ捨てられたビニールテープと、紙袋に血のついたシャツが最後まで入らずに横に倒れていた。血の匂いが鼻の奥にじんわりと残る。その匂いに今にも吐きそうになっている茶髪の青年が横たわっていた。


「……臭い。もう、吐いちゃいそう」

 その言葉に関西弁の男がピクリと反応した。


「……今、兄ちゃんなんつった?」

 その言葉と共に歩く音が横たわった青年の耳に聞こえる。あちこちが削れた踵の履き古した黒のローファーが青年の傍でゆっくりと止まった。


「ああ…… 誰か分からないけれど、助けて。足と手を拘束されてるテープを外してくれよ。このままじゃ俺は殺される!」

 慌てるように騒ぐ。


「……なんでやの?」

「へ? なんでって……」

「……なんでそんなに哀れやの? ここまで来てジタバタしたって結果は同じやん。もうじきアンタは、お迎え来るで? なあ? どうせ死ぬんよ。そうやったら、もうハチャメチャに楽しもうや」

 その興奮した言葉と息遣いに、青年は自分の血の気が引いていくのがわかった。その場でしゃがみこんで青年を覗き込む顔は色白のまだあどけなさの残った少年だ。指先に持つ安物のカミソリが少年の目に映る。男はひんやりとした青白い顔と美しい笑みを見せた。


「まあ〜 ジ・エンドや…… けどね?」






 心の色は、澱む海の底の色。

 誰よりもお利口さんだったから、綺麗な海水はたった一滴の心の隙にあった汚れであっという間に濁っていく。汚れた水は水蒸気となって、やがて雨になる。その雨粒たちは汚れた水で潤っていく。青々と育っていた小さな果樹を汚していった。


 悪い芽は摘まないで黙って育つのを見守る。一人で孤独を苦しんで、もがいて溺れるいる聖をゆっくりとゆっくりと、汚していった。


あっという間に、ひとつの心は壊れていった。いとも簡単に。



 そう、じっくりとね。




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BAR LOTUS(仮) 櫛木 亮 @kushi-koma

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