BAR LOTUS(仮)

櫛木 亮

第1話 馬鹿な姉と真面目な弟

 泣いているあの子は、いったい誰だろうか。


 

 いつも僕の夢の中で、ひとりきりで泣いている。

 真っ白な雪降る街灯の下。うずくまって、ずっとずっと泣いている。鼻先と指先をうんと赤く染め、泣いている。

 

 手を伸ばせば、もう少しでとどくのに。

 あと一歩のところで、いつも夢は覚めてしまう。もどかしくてやるせなくて、僕はいつも幸せにはなれないと、ベッドに身体をもう一度預けるのだ。


 この先、僕は、この子に何をしてあげられるだろうか。


 そんな事を、ふと思った。




 ******


「諒、ちょっと聞いてるの? ねえ、三匹の子ブタってお話あるじゃない? あれってさ、実は子ブタの方が悪だったりしたら面白くない? 狼の方が善人だったりしたら、どうかしら。見た目が可愛くて、絶対に弱いって思わせておいて〜 なんて、あたし最近そう思うのよね〜」


 珍しく真剣な顔をしてると思ったら、そういう事ですか。なんというか、呆れた。いや、僕は元々そんなに貴女を認めちゃいないけどね。僕は指紋を残さないようにと、丁寧に慎重に薄く繊細なワイングラスを磨く。時折、光をうつしては満足気に薄ら笑いを浮かべる。


 その隣で細く長い煙草に火をつける女。ゆっくりと、濃く蜘蛛の糸のように煙が上がっていく。口元の小さなほくろと、大きな瞳に御自慢の長い眉毛が儚さを演出する。この女はチーママ兼、ナンバーワン・ホステスの僕の姉である。


 ここは横浜の路地裏にひっそりと佇む、祖父が残した小さなお店。


 その名も『BAR LOTUS』

 

 BARなんてのは名ばかりで、お姉さんたちが楽しい場を作ってくれる飲み屋だと僕は思う。キャバクラという言い方が僕は非常に嫌いです。どうしても下品に聞こえてしまうからだ。昔の大人のお酒を嗜む店のキャバレーやクラブはとてもカッコイイと思うのです。煌びやかで、ちょぴり妖艶で。いい意味で下品で。毒々しさに艶美な空間。毎夜開かれる魅惑のダンサーたちの華麗なショー。たまらなく唆るのだ。もちろん、これは人それぞれですから文句を言っているわけではありませんよ。


 赤い煉瓦の店内は、古き良き時代のウエスタンを連想させる内装で、所々に祖父の趣味が全開に突っ走っている。木製の両開きの扉に、中身の入っていない意味のまったくわからない酒樽。おもちゃのような片輪の歯車。はっきり言って、僕はこの雰囲気が好きじゃなかった。それにつけ加え、趣味の悪い艶やかな蝶が舞うシルクの漆黒のチャイナドレスのホステス。ヨコハマと言えば中華街ですかね? って馬鹿おっしゃい! もっといいものいっぱいあります。

 そこにあの姉だ。ギラつく真っ黒のピンヒールの姉は何故か「美人で気さくな、いい女」と此奴を目当ての客も多い。空間が捻れた嫌な匂いがする。鼻につくとは、まさにこの事だろう。

 この店にはもっと若くて綺麗な子が揃っているっていうのに、ここの客はみんな頭と目がおかしいのだろうか。こんな場所で遊んでないで、病院に行ってください。


「あっ、そう……」

 僕はグラスを棚に静かに置くと、愛想なく返事をした。


「何よ! 生意気に仏頂面なんてしちゃって! 客引き兼、バーテンダーが聞いて呆れるわ!」



 そりゃ、こっちのセリフだ。


 こっちが好きで客引きやってるとか思うなよ? 従業員が少ないからやってるだけだよ。それに 男の僕が客引きしたって、どうせ誰も見向きもしないしね。


 おっと。もう、十九時だ。

 そろそろ、お客様が来る頃だ。

 

 オープン前の、この神聖な空間に水を差すような姉さんに僕の調子を狂わされるのは勘弁御免だった。ここは無視を決め込もうと、僕は真っ黒の蓮の花の刺繍が胸元に入ったシルクのエプロンを付け、大きく息を吸い込み、両手で扉をゆっくりと開けた。


「おまちしておりました。ようこそ、いらっしゃいました。BAR LOTUSへ」



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