第2話 変わり果てた肌
誠心は受け継がれる。
瞑想は続けてはいけない。
迷走は思う存分すればいい。
これは小さな封筒に入れられた、薄黄色の紙に藍色のインクで書かれた小さなメモ。見るからに乱暴に殴り書きで残された言葉だった。でも、妙にひかれた文章だった。
これがもしも、あの人の本当の言葉ならば、そうであってほしい。
常々、僕はそう思う。
気持ちは生意気にも煮込まれ、ふつふつと沸き立つ。
愛は惜しみなく、奪う。
謙遜しないで。
自信をもって。
そう、思うが侭に。
なんてね。
うんと遠くに投げ捨てて、もう同じ場所に戻れないほどに、お前なんて愛していないと言ってほしかった―――
それが彼の最後の言葉だった。
******
「もう叔父様ったら、本当に素敵なんだから。今夜は私のために一本入れてくださるんでしょ?」
「まいったな。では、ピンクを一本頼もうか。美夜子の為に入れよう」
「あら、叔父様、一本でいいのですか? 今後のお話もっと聞きたいのに、ピンク一本だけで足りるかしら…… ね?」
「それでは、あと十本お願いしようか。店の繁栄と私たちの未来に乾杯だ。店のみんなにもグラスを用意してくれ! あとフルーツを頼もう」
「きゃあああああ! 叔父様ったら美夜子、本当に感激ですわ」
そういうと美夜子は勢い良く立ち上がり、ダブルのスーツに腹を豪快にのせた、眼鏡の小太りの親父に絡まるように身体を密着させた。そして、少女のような満面の笑みを美夜子はこぼした。徐に美夜子が後ろを振り向くと、胸元の小さな宝石が揺れる。美夜子は舌を出し、見下すような冷ややかな視線を床に落とした。
まったく、この女は馴々しくも、したたかだ。そして人類が全て消滅したとして、ゴキブリのように、しぶとく生き残るであろうと僕は思ったのだ。
「美夜子さんは今夜も上機嫌だね。真っ黒なカクテルドレスに人を食ったような妖艶な真っ赤な口元がお美しい。本当に赤が良く似合う美しい女だ。一度お手合わせ出来るものならハイアット・リー○ェンシーの最上階を彼女の為に用意するさ。なあ、諒」
「それはそれは、どうも…… 僕にお気遣いなく、どうぞ、ご勝手に……」
僕はどうしようもないくらいに呆れた顔をしていただろう。昔からこの手の言葉も、嫌ってほどに聞かされている。今からも、これからもそうだろう。
だが、これだけは言っておきたい。姉さんはビッチではない。金は好きだが、その為にはもっと別の手を使う。それも汚いやり方で。うん、きっとそうに違いない。
「……諒、女の身体はね、そんなためにあるんじゃないのよ。もっと自分を大事にしなきゃね…… ね?」
と、大雨の中、びしょ濡れで泣きじゃくった美夜子がくしゃくしゃの顔で無理に笑ってた。そんな美夜子が優しく頭を撫でてくれたことを諒は忘れないでいた。いや、これからもきっと一生忘れないだろう。
「黒瀧さん。もっと上品じゃなきゃ。美夜子さんが下品極まりないお前なんぞを相手にもせんだろうよ? 身なりだけ揃えたってお見通しだろうな」
「下品極まりないって…… 若林さん、分かってますって! 彼女はそんなに簡単じゃないからこそ、そそられるんじゃないですか」
「そりゃ、失礼しましたね〜」
黒瀧の言葉に、少々呆れ気味の若林がピーナッツの殻をわざとらしく、音を立てて割った。
「……諒。取っておきのサイドカーを作ってくれるかい? 今夜、俺のために」
「ええ、それは喜んで。取っておきのサイドカーを黒瀧さんにお作りしましょう。僕が心をこめて。少々お待ちを……」
伏し目がちにすべての流れを聞いていた僕は、笑いたいのを我慢して薄い唇をくっと噛む。
ブランデーをベースにホワイトキュラソーを入れ、レモンジュースをシェイカーに注ぎ入れ、上下に小気味よいリズムで振り混ぜる。サイドカーとは第一次世界大戦の時に作られたと言われる「女殺し」の異名を持つカクテルだ。もちろんブランデーはメーカーやブランドによって味も風味も変わる。それを好むとは少々変わり者だと僕は思った。
ちなみにジンベースにするとホワイト・レディ。ウォッカベースにするとバラライカになる。ウィスキーベースにすると、これまた味は変わってウィスキー・サイドカーなんてモノになるのである。どれが好みかは人それぞれだ。
この店はいつもこんな感じ。客が変われど、店の雰囲気はなにも変わらない。
でも、今夜は少し違った。いつもはきちんとした紳士な常連客の黒瀧さんがネクタイを緩め、重ったらしく話し出した事で、胸の奥底にある仕掛け時計の歯車が一向に進まずに、ぎこちない音を立て同じ箇所で行ったり来たりとする。厭な物言いをしたのも、このせいだろうか?
「諒、お前さ。この話どう思う?」
サイドカーの前に頼んだブランデーをひとくち口に含み、ゆっくり喉に通して飲みこむと黒瀧が、やや苦い顔をした。
「うん? 黒瀧さん、それってなんの話ですか」
僕はその黒瀧のなんとなく切り出された言い回しに、苦虫を噛み潰したような、なんとも言えない興味にそそられる。グラスに氷水を入れ、黒瀧の右手前にそっと差し出した。いつもなら何も思わないことなのに。今夜は嫌に変な感じがする。その氷水を慌てて飲み、口元を拭うと黒瀧が喉を鳴らした。
「……○○橋の下の遺体の話だよ」
「なんだよ、それってアノ噂の?」
「若林さんは知ってたのか。まあ、あれだけの気味悪い事件だ。近隣の人間ならば嫌でも耳に入ってくるか。なのに、どうしてかニュースにも新聞にも載らない、あの事件だよ」
黒瀧の言葉に隣に座る若林が、いき込むように横入りした。その言葉たちに周囲の空気が巻き込まれていくのを一瞬にして理解をした。
「お客の話は聞いても飲み込まれちゃいけないのよ?」と、教えられていたのに、分かっていたつもりなのに。だけど、どうしても、ひかれていく自分がいた。
「アノって?」
「なんだ諒は知らないのか? なんでも奇妙で不思議な遺体だったそうだ……」
若林がスーツのジャケットから煙草を取り出し、ライターをごそごそと探す仕草をすると、黒瀧がスマートに自分の銀色のライターを渡す。僕は灰皿を静かに若林の手元に置く。それを目だけで若林が会釈すると、煙草に火をつけ、間接照明で青白く滲む煙を頭上に吹く。
「奇妙で不思議な遺体?」
「そ、それも飛びっきりのな」
若林は片目を閉じ、もう一度、煙草を吸い込んだ。
―――橋の下で見つかった遺体。
青白く染まった顔には外傷はなく、安らかな死だったと言われている。殺人や事故でこんな顔で死ぬことはないという。オレンジ色の作業つなぎのような形の服を着た中年くらいの男性だ。春の冷たい川で大量のゴミと一緒に橋の欄干に引っかかるように見つかったそうだ。右手の中指にはアメリカ製の繊細な装飾の施されたカレッジリングをはめ、髪はツーブロックで上の部分を後ろで結んだまだら模様の金髪。多分、車やバイクいじりの好きな人。爪の間には黒く油が詰まっていたそうだ。爪は短く切りそろえられ、かなり几帳面な人だったのが見受けられた。
見た目ほどの若人ではなく、年齢は四十前代前半の働き者の男だと黒瀧は話す。この黒瀧って人は某所の社長で、その手の話が嫌でも耳に入ってくるそうだ。何の仕事をしているかは聞いても困ったように笑っては誤魔化すばかりだった。その困った顔は子供のそれによく似ていて、それ以上、深く聞くのを僕はやめた。いや、もう聞けないなと思ったのが素直な答えか。
「その話って最近なんですか? 僕、なんにも知らなかったです」
奇妙な話は僕の心の隅に何かを落としていく。興味なのか、野次馬根性なのか。
「まったく、諒は新聞もテレビもそんなに興味なさげなくせに、こういうのに対しては「知りたがり」が出ちゃうんだよね〜」
淡いブルーのチャイナドレスに上品に切りそろえられたショートカットの小柄な女性が、フルーツの大皿を手に、ふんわりとした笑顔で諒に声をかけた。
「ひなたさん、その言い方…… もうちょっとオブラートに包んで下さいよ」
「お生憎さま。私の辞書にオブラートって言葉はないのよ〜」
僕は少しだけ苛つきながらも、手を止めずにひなたをちらりと見た。
「言うね〜、ひなたちゃん」
「んふふ、諒にだけだよ〜、特別なんです」
「また、そういう事をひなたさんは言うんですか…… いつも僕を子供扱い……」
「だってガキだもの、それも飛びっきりのクソガキなの!」
「あらら、ひなたちゃんは諒が嫌いなんですか?」
苦笑いをしながら若林がひなたを見ると、ひなたは人差し指を自分の唇にそっと当てる。それを聞いていた美夜子が甘くスパイシーな香りを纏い、ピンヒールをコツコツと鳴らし、歩み寄ってきた。
「若林さん、その逆なのよ」
「え、逆っていうのは…… まさか?」
「美夜子さん、それはナイショだって言ったじゃないですか〜」
ひなたは少しその場でじたばたと両手を振り、ゆっくりと振り向き上目遣いで僕を見た。この人のこういう意味不明な所がなければ、素敵なのにと僕は思った。
「まったく、ご冗談を…… 平然と人のケツにねじりを加えた蹴りをかます女に僕は興奮したり、アレは全くもって勃ちませんから!」
僕がその言葉を言い放つと同時に、着物姿の年老いた女性と数人の男たちが斜向かいに見えた。
「お客様の前で諒ときたら…… 下品よ! おやめなさいな!」
「叔母様! お店にお越しになられるならひとこと仰ったらお迎えに上がりましたのに」
「美夜子、思ってもいないことを言うんじゃないよ! 顔に嘘って書いてあるじゃないか」
「嫌だわ、叔母様ったら…… そんなこと想っていませんわ……」
この着物姿のご婦人がLOTUSの大ママ。所謂、一番偉い人。三越京香。(みつこし きょうか) お祖父ちゃんの二番目の奥さんで、僕らの祖母ちゃんだ。でも、姉、美夜子との仲はすこぶる悪い。千枚とおし程の針でチクチク刺し、くどくどと、お説教が始まる前に僕は出来上がったサイドカーを黒瀧に出す。すると、それに気がついた祖母ちゃんが黒瀧を見て表情を緩めた。
「おや、黒瀧さんちの坊っちゃんかい。大きくなったもんだわね。今度、暇があったら私を食事にでも誘ってちょうだいね」
「京香さん、ご無沙汰しております。以前はとてもお世話になりました」
「そういうことはここではいいのよ。またの機会にしてちょうだい。今夜は楽しんで行きなさいね。ここは私が奢るわ」
「ええ、ありがとうございます」
祖母ちゃんは黒瀧を見るなり、上機嫌になり言いたいことを並べて最後に上品に頭を下げて店から出ていった。一体、何をしに来たのだろうか。それから、僕は黒瀧さんをじっと見つめて言葉を出した。
「あの祖母を黙らせるって黒瀧さんって本当に一体全体、何者なんですか!」
「んふふ、それは、ナイショ〜」
出た! 魅惑の低音ボイスの「ナイショ〜」だ。あの声とあの笑顔に堕ちない女はいないぞ! そう、うちの姉以外はね。ああ、ほら、言わんこちゃない。もう、あの目だよ。みんな黒瀧さんにあっという間に、いとも簡単にイチコロだ。男の僕でもヤバいと思うくらいのクールな見た目に、優しい心使いと甘いマスク。それに日本人離れしたダンディズム。神様がいるなら、ひとこと文句を言ってやりたいくらいだよ。ってそんなの居ないし、居ても話通じなさそうだし、どうせ神様に人を救うのは無理だろうから。誰にも言わないけどね。
それにしても、黒瀧さんの言っていた事件はかなり気になる。僕は食い入るように若林さんに聞いてみた。
「若林さんはこの事件に詳しいの?」
「諒は本当になんでも、ド直球で聞くよね、俺には遠慮の欠片も無しかよ…… まあ、いいや。で、諒は何が知りたいの?」
「それって、この辺の話なんですか?」
「ああ、近所に古びた商店街があるだろ?
そこの一番奥にある「鞍馬山モータース」 だよ」
そう言うと、若林は灰皿の隅で短くなった煙草を指先で押し消した。それから、そっと目だけで僕を見てきた。
「僕、鞍馬山モータースって自転車の修理で一度行ったことがある…… あの気の良い板金職人さんだよね? 元気ハツラツなおじさんで商店街の人気者だったって聞きますよ……ってあの人なんですか? 嘘でしょ? そんな信じられないですよ」
「オマエ…… 自転車の修理って…… それに、嘘言って俺になんのメリットがあるんだよ」
「そりゃそうですけど…… 鞍馬山モータースの息子さんがこの間、ここに面接に来てたんだけど、それって関係ないよね?」
先日、そこの息子が面接をしに来たことを僕は思い出した。
「諒…… あんまり関わらねえ方が良くないか?」
それまで黙っていた黒瀧が口を出した。
「どうして、黒瀧さん?」
「いや、まだまだそいつはガキだろう…… こんな世界に足突っ込んじゃダメだろう」
「こんなって…… 黒瀧さん、それってひとこと多いです……」
「いやいや、悪い意味で言ってんじゃないんだよ。彼はまだ高校生だっていうじゃないか、水商売に入るにまだまだ考える時間もあるだろうよ…… 家を継ぐってこともできるだろうしな」
「高校生? 専門学生だって彼は言ってたよ? あと、急ぎでお金が欲しいって言ってましたね」
「ねえ…… その子、まだ専門学生じゃないわよ」
小さなスパンコールが散りばめられた毒々しいドレスから、白く長い脚を惜しげもなく出し、汚れた灰皿を運んできた、色気たっぷりで髪を盛った女性が僕らの話に割り込んできた。
「コウさん知ってるんですか?」
「知ってるも何も…… その子、あたしの通ってた高校の後輩だもん」
「コウさんって幾つでしたっけ?」
「諒、簡単に女に歳を聞いてんじゃないわよ!」
「わざと聞いたんだし、年齢くらい知ってるし。コウさんのこと、僕が面接したんだし、ってこれじゃ話が進みませんよ」
「ごめんごめん。まあ、この際、歳のことはいいわ。私がマネージャーをやってたバスケ部の後輩の後輩の後輩のそのまた後輩にあたるんだけどもね。綺麗な顔立ちの美少年で鞍馬山 聖って言ったら取り巻きができるくらいに有名な子だったのよ。スラッとしてて色白でどこか色気がある綺麗な子っていうの? 諒とは正反対っていうのかしらね? 誠実な感じが、またモテんのよ〜」
「コウさんも…… ひとこと多いです。それに後輩の後輩の後輩のそのまた後輩ってどれだけ後輩なんですか……」
「それからね、親思いの気立てのいい子だって先生からも人気だったって聞いたわ。ホント、諒とは正反対!」
「今の僕の言葉を聞いてました? だから、コウさん、ひとこと多いです……」
「まこっちゃん…… 抑えて抑えて! はい、素敵営業スマーイル!」
僕が仏頂面でコウに文句を言うと、若林が半笑いでフォローをする。
「諒はさっきから何を気にしてんのよ? デカくて、それでいて、まあまあなイケメンで、インテリ眼鏡がお似合いで、スーパーお姉ちゃん大好きで…… ん〜あとなんだ? あたしのキャパオーバーだわよ!」
「まあまあって…… コウさん、そんなことより早く氷持って持ち場に戻ってください……」
「ああ、はいはい」
「……言われたい放題だな、コウちゃんからオマエなんか恨みでも買ったの?」
若林はゲラゲラと笑い、うっすら目に涙を溜めて僕を哀れんだ。そんな雰囲気に僕が飲み込まれかけた時に店の電話が鳴った。
「はい、いつもありがとうございます! BAR LOTUSです!」
僕の声にしばらく伺うように、相手は何も言わない。
「あの〜 もしもし? どちら様でしょうか?」
「……おい! そこに面接で鞍馬山 聖ってガキが来なかったか? 今、そこに居るのか?」
「……はあ? どちらにおかけですか?」
「……ちぃ」
ブツっと乱暴に電話は切られた。
「なんなの…… 言いたいことだけ言って切られたし……」
噂の彼のことを聞くだけ聞いて、名乗りもしない不躾な電話だった。
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