ファイル12「矛盾」
タイムパラドックスとは、つまり時間の矛盾だ。
有名なたとえ話に「親殺しのパラドックス」がある。概要としては、ある子供が生まれる前に遡り自分の親となる人を殺す、というもの。自身が生まれる前に親を殺したので、当然その子供は生まれてこない。しかし子供が生まれてこないということは、その子供が時間を遡ることがないため親が殺されるという事実はなくなる。となると親は生きているので未来で子供を産むが、しかしその子供は時間を遡って親を殺してしまう、という堂々巡りの矛盾だ。
このパラドックスには様々な解釈がある。
時間は見えざる力により守られており、時間を遡っても決して過去を変えることはできないという解釈。時間を遡って親を殺した瞬間に、殺した世界と生存している世界に分岐するという並行世界による解釈。他には、親殺しを試みて失敗した過去を織り込み済みで世界が構成されているとか、パラドックスに影響される部分が消失するといった解釈もある。
「親殺しのパラドックスでの説明をお望みなら、それでお話しましょう」
アスは、この現実世界でタイムパラドックスがどのような効果を発揮するのかを説明し始める。
「結論から言えば、過去で親は殺されますが、子供は生まれてきます」
「はぁ? それだと矛盾してるじゃん」
「ハイ。矛盾しています。たとえば、母親は三十歳で子供を産み、その子供は成長して十五歳になったとします。子供はタイムリープして自身が生まれる前、ここでは母親が二十五歳のときとしましょう。十五歳の子供が当時二十五歳の母親を殺しますが、子供はそのまま存在し続けます。その子供が本来の時間に戻ったとしても変わりません。十五歳の子供の母親は二十年前に亡くなっているという事実になるだけです」
「ん? 意味がわからないぞ。その子供はどうやって生まれたんだ?」
十五歳の子供の母親が二十年前に亡くなっているというのなら、その子供はこの世に生まれてこないはず。でもその子供は確かに存在している。矛盾が何も解決されていない。
「そこがポイントです。本来ならパラドックスのループに陥る出来事ですが、しかし実際はそれでもそれが平然と成立するよう世界に解釈されてしまうのです」
アスは続けて「もっと混乱する話をします」と前置きをした。
「戻ってきた子供がその後再び過去に戻り、自身の母親を殺そうとする自分の犯行を阻止し、それに成功したとしましょう。そうなるとどのような事実となるのか。答えは、十五歳の子供の母親は二十年前に亡くなったが、しかしその母親は現在四十五歳として生存している、ということになります」
「ん、んん……?」
いや、言っていることが全くもってわからないぞ。子供の存在云々の前に、その母親が生きているのか死んでいるのかが不明だ。なんだこれ。頭が理解を拒むように混乱してきたぞ。
「話をわかりやすくするならば――」
見兼ねたアスは僕をフォローするかのように噛み砕いて表現しようとする。
「母親は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているということです。『シュレーディンガーの猫』はご存知ですか?」
「なんとなくな。猫が死ぬかもしれない状態で箱に入れると、生きている可能性と死んでいる可能性が重なっているとかなんとか。猫の生死は、実際に箱の中を見ないと確定しない……だっけ?」
「まあ、簡単に表すならそうなります。『シュレーディンガーの猫』は、量子力学に関する思考実験です」
「それがなんか関係あるのか?」
「ハイ。深く関わっています。先程の、生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている母親の例は、まさにそれです。我々のこの世界でのタイムパラドックスとは、時間的にシュレーディンガーの猫を生み出してしまうことなのです。いうなれば、時間が量子化する、とでも表現しましょうか」
「時間が……量子化」
「そうです。母親が死んでいる状態と生きている状態に分岐し、それが重なっているのです。そのため両方の状態が招く結果が、実際に観測するまで確定していないのです。あるときは死んでいる状態が招く結果を観測し、あるときは生きている状態の結果を観測してしまう、ということです」
時間の量子化。一応シュレーディンガーの猫は創作物等でなんとなく聞いたことあるけど、でも専門的な難しいことは何もわからない。だからアスが説明していることを全然理解していない。頭が追い付かない。こいつは一体何を言っているんだ?
「なあ、母親が死んでいる状態と生きている状態に分岐するなら、並行世界に分岐するのと何が変わらないんだ?」
僕はわからないなりに理解を深めようと試みる。
「確かに、親殺しのパラドックスにおいて並行世界解釈と似ている部分は多くあります。ただ並行世界解釈と決定的に違う点は、そもそも並行世界など存在しないということです。世界は一つしかありません。しかし時間は複数存在しています。たった一つの世界の中で、複数の時間が束になって重なっているのです」
分岐するのは時間だけ、と言いたいようだ。
ふとここで、僕は思い至ることがあった。朝の出来事だ。
幼馴染の真音は毎朝僕の部屋に来ている。一周目と三周目は部屋にいて、二周目と四周目は部屋にいなかった。そして五周目では僕と真音の認識がずれるという奇妙な現象が起きた。そのときは何が起こっているのか皆目見当がつかなかったが、しかし今のアスの話を聞いて納得ができた。
時間は量子化する。複数の時間が重なり合っている状態となる。
ならば、僕と真音はそれぞれ別の時間を観測してしまったのではないだろうか。
起きて真音がいないことを確認した僕は、実は実際の出来事とは違う二周目や四周目の時間を観測してしまい、誤認してしまった。一方真音は僕が寝ている一周目の時間を観測してしまい誤認した。
重なり合った時間において、それぞれ異なる時間を観測してしまったので、認識に差が生じてしまった。だからどちらの言い分が間違っているという話ではないのだ。どちらも正しい。それぞれ認識した現実が違ったという話なのだ。そうか、これがタイムパラドックスというものなのだな。僕はまさに、五周目でパラドックスを体験したことになる。
「タイムリープの方法を確立したことにより時間は重なり合った。そしてその影響によりワタシの時代では深刻なパラドックス問題に苛まれた。先程の親殺しのパラドックスのような、ある状態とない状態が重なり合い、また別のパラドックスの状態も重なって、時間が非常に複雑なものになってしまった。ないのにある状態として観測したり、逆にあるのにない状態として観測したりしてしまい、世界は矛盾によって歪められ、辻褄が合わない穴だらけの状態となってしまった」
アスは一旦区切り、一呼吸してから続きを語る。
「一度確定した時間はなかったことにはならないので、重なり合った時間を元に戻すことは不可能。そのためパラドックスの被害をこれ以上拡大させないためにも、深刻なパラドックスは時空犯罪とされ、時空公安によって取り締まりの対象となった。しかし一度生み出された技術は簡単には止められない。タイムリープありきで未来の社会が形成されているので、タイムリープそのものを完全に規制することはかなわないのです。ワタシたちは、常にタイムパラドックスに怯えて生活しているのです」
「それが、さっき僕にした忠告ということなのか」
「そうです。記憶的にも肉体的にも死を恐れていませんけど、時間的に存在そのものを殺されるかもしれない恐怖はあります。まあそれでも皆自身のバックアップはありますので、面倒なことになるという障害が発生する程度ですけどね。それでも余計なパラドックスは避けたいです。あと時空公安に時空犯として逮捕されるのも面倒ですしね。どこまで顕著に時間を束ねれば公安が動き出すのかもよくわかりませんし」
「……なあ、時間を束ねるで思ったんだけど、もしかして、あんたが別の時間の記憶があるのも、時間の量子化が関係しているのか?」
「ええ。鋭いですね。時間が量子力学のようになるということは、タイムリープを繰り返す度にワタシの記憶も複数化されるのです。それを情報的に認識していますので、別の時間の記憶でも祖語なく引き出せるのです」
「それは、普通の人間、僕の時代の人間はどうなっているんだ?」
「生身の人間でも等しく記憶が複数化されますが、人本来が持つ脳のスペック上、それを認識することはできません。精々、記憶違いとか気のせいとかといったもので記憶の重複の片鱗を体感する程度です」
「じゃあ、別に深刻な影響とかないんだな」
江崎さんを救うことに必死になっていたから気にするのが遅くなったけど、でもタイムリープによる影響が他に及ばない可能性もないこともないのだ。だがその程度の影響なら特段気にする必要はないのかもしれない。精々「あれー?」と思う機会が増えるだけだ。
「影響はないですが、でもアナタは違いますよね」
しかしその懸念は思わぬ方向に飛び火した。
「僕?」
「アナタというよりは、アナタが助けようとしている女の子です」
「え、江崎さんに何か悪影響があるのか!?」
江崎さんに影響を及ぼすのなら、それは看過できない。
「ええ。だって今その女の子は、五回によるタイムリープで、生きている状態が三つ、死んでいる状態が二つ重なっているのですから。それがこれからの未来でどのような影響を彼女とその周囲に及ぼすかわかったものではありません」
僕はアスからその事実を聞いて、事態の重大さに戦慄した。僕がタイムリープを繰り返したことによって、江崎さんの時間が量子化しているのだ。いや量子化しているのはこの時代に生きる人全員だが、しかしその量子化の差が一番顕著なのは、生死を繰り返した江崎さんなのだ。アスの言う通り、江崎さんの将来は量子化によるパラドックスに苛まれることになる。
「実際は生きているのに、時折死んでいる状態として観測されることになります。つまりこれからの将来、生きているのに死んだ人間の扱いを受ける可能性があるということです。そこに不都合は必ず発生します。それなら、いっそのこと今この時代で死亡した方が、これから先彼女が背負う負担を軽減できるというもの。親殺しのパラドックスのように影響はあるかもしれませんが、本人は死んでいるのでその影響を感じ取ることはできません」
アスはスッと人差し指を立てた。
「これは一つのケースです。本来生きるべき人間がタイムリープによって死亡し、死んでいるのに時折生きている状態として観測することとなる。その状態をこの時代の認識で表すとしたら、人が霊体化するということです。幽霊、ひいてはオカルトとは、重なり合った時間によって生じた認識の祖語でしかない。ワタシの時代ではそう定義付けています。ならばその江崎志保という女性を今殺しておけば、所謂幽霊としてこの世界に存在し続けることができますよ」
「バカなことを言うな! そんな簡単に人を殺すな!」
事実に戦慄していた僕は、アスの気遣いのない発言に激昂し、声を荒げてアスを非難した。
「いいえ。ワタシは最善策を提示しただけです。それに、この事態を招いたのはアナタ自身です。アナタのタイムリープによる過去改変の影響で彼女は多大なる影響を受けることになった。もちろん、タイムリープに関してはワタシも加担しましたので、その責任の意味も込めての最善策です。ここで彼女に死んでもらった方が、彼女のためですよ」
「勝手なことを言うな! 死んでいるよりは生きている方が断然いいに決まっているッ!」
こんな表情一つ変えない色白野郎に、最善だからといって江崎さんを死なせてたまるか!
「少し、落ち着きませんか。アナタが彼女を生者とするのなら、ワタシはそれを支持するだけです。別に死者とすることを強制しているわけではありません」
僕は未だに怒っているが、しかしアスはあっさり引き下がってしまったので、僕の怒りは矛先を失った。やり場のない怒りを晴らすため、僕は自分の膝を拳で強く叩いた。
「どうすればいい」
僕は怒りを無理やり押し殺し、静かに尋ねた。
「それはアナタが考えるべき問題です。アナタにとって未来人であるワタシは、この時代とはかけ離れた世界に生きていますので、この時代の人間に共感することはできません。そのため未来人として、時間にまつわる情報だけを教えた。それらの情報をヒントとし、解決策を導き出すのは、今この時代を生きるアナタの役目です」
ヒント。ヒントは確かに得た。アスは、時間は数式といった。僕は最初と最後しか見えていなかったからどうすることもできなかった。
途中式を紐解き、望む答えとなるよう数式を改ざんすればいい。
「わかった。なら、まず僕の告白がどんな過程で江崎さんの死に繋がっているかを特定すれば――」
「慎也。こんなところで何やってんだ?」
僕は決意を新たにし、アスとの話を切り上げようとしたところで、誰かに声をかけられた。
遼だった。
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