ファイル3「告白」


 自称未来人によって瞼に圧力が加えられたけど、その自称未来人ことアスが「ではいきます」といった次の瞬間、その圧力ははなからなかったかのように消え去ってしまった。指を緩めて圧力を加えるのをやめたのかと思ったが、しかし何というか……やめるというより途切れる感じで消え、そのことに僕は不安を覚えた。瞼の圧力と同じく、両手で頭を押さえつけられていた感覚も消え去っていた。


 僕はゆっくりと目を開ける。目が光りを認識する。


 しかしその光は昼間の住宅街の自然光ではなく、人工の光であるかのような調整された光だった。


 まず気がついたのは、僕が座っていることだ。僕は座りながら頭を下げていたのか、自分の足と床が視界に入る。その足には学校の上履きが履かれており、床は塗装され光沢を帯びた木材だった。僕は住宅街の信号前に立っていたので、明らかに状況が違う。


 次いで僕は、視線を上げて周囲を見渡す。すると幾人もの生徒が並べられたパイプ椅子に着席していた。皆じっと座っているだけで、何か行動を起こそうという人は誰もいなかった。さらに視線を上げると、アーチ状の天井。横を向くと鋼鉄の扉と二階通路が視界に入る。そして衣服越しには、底冷えする冷気が伝わってくる。風通しが悪いうえに中途半端に暖められたのか、全身を覆う冷気は外の空気よりも淀んでいて重たい。


 僕はそれらの状況を認識すると、衝動的に立ち上がってしまった。立たずにはいられなかった。その際自分が座っていたパイプ椅子が音を立ててずれたので、皆がその音に引き寄せられて僕の方に振り向いた。


「あ……いや……」


 僕は混乱している。そして立ち上がり高くなった視界によってさらに得られた情報により、僕の混乱は増幅した。


 ここは体育館で、今は卒業式をしていた。


「どうした稲垣いながき。トイレか?」


 僕は声がした方を向くと、そこには人生にくたびれた様子の中年担任教師がいた。


「おいなんだよ、寝ぼけてるのか?」


 そして次の瞬間には、少し離れたところに座っていた遼が僕を茶化し、それによって僕を注目していた生徒がドッと笑い出した。前方の、隣のクラスの集団に座る真音もこちらを見ながら笑みを浮かべていた。


「おいおい稲垣、卒業式はなんだから頼むぞ」


 担任の先生の言葉に僕は訝しむ。明日? 卒業式が? 卒業式は今日の午前中に終わったはずじゃあ……。


 僕はそこまで思って、ふと思いなおした。


 アスだ。奴はさっき、昨日の午前中にタイムリープさせると言っていた。そしてこの状況。今は、昨日の午前中に行われた、卒業式の予行練習だ。


 自称未来人ことアスによるタイムリープは、成功してしまったのだ。


「あ……すみません。寝ぼけてました」


 僕は遼の茶化しに便乗して着席したが、しかし僕の混乱は収まる気配はなかった。


 どう……なっているんだ? いや、状況を考えると、僕は確かにタイムリープしたようだ。でも、そんなこと到底信じることはできない。タイムリープなんて物語の中の出来事でしかない。所詮はフィクション。偽物だ。人が時空を超えることなどありえない。


 担任の先生は「ほら、気持ち切り替えろ」と注意をし、周囲は僕の混乱をよそに卒業式の予行練習を再開した。しかし僕は練習に参加するほどの余裕がないため、座りながら腿に肘を乗せ、手で頭を抱えながら必死に状況の整理をしていた。しかしいくら整理してもタイムリープした事実からは逃れることができず、思考は堂々巡りするばかりだ。


 そのうち「もしかしたら本当に式の練習中に寝落ちし、夢の中で明日の卒業式を終え、昇降口で呆然とし、代わり映えのない下校をして、最終的に自称未来人の変人と遭遇して夢が覚めた」というもっともらしい理由をでっち上げた。この状況を現実的な観点から納得するには、もうそれしか方法はなかった。


 それでいったん解決させたところで、担任の先生に「稲垣、具合悪いなら保健室行くか?」と遠回しに注意してきたので、僕は適当に大丈夫だと返事をして、その後式の練習の起立と着席のタイミングだけを合わせていた。しかし立ったり座ったりを繰り返している間、やはりいったん解決した問題がぶり返してきて、結局頭だけはずっとこの不思議な現象のことを考え続けていた。


 そして考えれば考えるほど、この状況に納得もできないし、理解もできなかった。そのことに名状し難い気持ち悪さを覚える。


 式の予行練習は僕の目立つ行動以外に滞ることなく無難に終わった。ずっと同じ空間で立ったり座ったり、歌ったり返事したりで、皆どことなく疲労が蓄積したようで、予行練習が終わると多くの生徒がその場で伸びをして身体をほぐしていた。そんな中僕だけが精神的にやつれていた。そのせいもあり、予行練習後僕は教室に戻る列を抜け出して保健室へ向かった。とりあえず静かでゆっくりできる場所で休みたかったからだ。


 保健室の扉を開けて中を見渡すと、保健室の先生の姿はなかった。そのため僕は中に入って、中央の椅子に腰かけテーブルに肘をついて楽な姿勢になりながら先生を待つことにした。


「先生?」


 するとカーテンレールが動く軽快な音が響き、僕はつられてそちらを見やる。保健室のベッドの一つが使用中であり、その閉じられたカーテンが、中で休んでいた人の手によって中途半端に開けられていた。


「江崎……さん」


 使用中のベッドにいたのは江崎さんだった。僕がこの三年間片想いし続けていた相手だ。中学生にしては小さな体躯だが持ち前の穏やかさと包容力によって、どことなく母性的な印象を与える女の子。色素が薄いのか色白な肌にやや明るい髪色がまた神秘的にも見え、また愛らしい容姿もあり、他の男子が天使と形容したくなるのが手に取るようにわかる。


「あ……ごめん。先生ではない」


 そんな可憐な江崎さんに一瞬見惚れていた僕は、少し遅れて江崎さんに返事した。


「こっちこそ間違えてごめんなさい」


「その、江崎さんはなんで保健室に?」


 僕は何も考えずに尋ねた。いや保健室にいるのだから休んでいるに決まっているけど、ただ江崎さんの姿に魅了されている僕は思考能力が失われているようで、実にどうでもいいことしか頭に浮かばなかった。


「予行練習中に貧血気味になって休ませてもらったの。でももうよくなったから戻ろうとしたけど、気がついたら先生がいなくて。勝手に出ていくのもどうかと思ったから、先生が戻ってくるまで待ってたの」


 でも優しい江崎さんは律義にも中身のない問いかけに応えてくれた。そのことがまた僕としては無性に嬉しかった。江崎さんと会話できている!


「稲垣君も具合悪いの?」


「具合悪いってわけじゃないけど、なんか疲れちゃって、ちょっと静かなところで休みたいなって思ったんだ」


 本当は今すぐにでも寝て一回状況をリセットしたかったけど、江崎さんの前なので少し強がってみた。なんか好きな女の子に自分の弱い部分を見られるのが恥ずかしいだけだけどね。


「そうなんだ。じゃあ、先生が来るまで話でもしてようか」


 そう言って江崎さんは僕の隣の椅子を引いて座った。え、江崎さんが僕の隣に! たったそれだけのことなのに、僕にとっては昇天してしまうほど嬉しい。


「明日卒業式だね」


「そ、そうだね」


 大丈夫かな……。僕ちゃんと喋れてるかな?


「せっかくの卒業式だから、明日は貧血にならないように気をつけなきゃ」


「それは大丈夫だよ」


 僕がそう言うと、江崎さんは柔らかそうな髪を揺らして僕を見つめ、不思議そうな表情をする。


 そこで僕は自分の失態に気がついた。僕が大丈夫だと言った根拠は、僕がすでに卒業式に出席していたからだ。僕が体験した一周目の卒業式では、江崎さんは体調不良で途中退場することなく最後までいた。式中チラチラと江崎さんの方を見ていたから――なぜ見ていたのかは察してもらえるとありがたい――そのことには確証がある。


 しかし今会話している江崎さんはまだ卒業式に出ていない。これは二周目なのだ。……タイムリープしたことが事実ならばな。いや、最早タイムリープした事実を受け入れなければならないような気がしてきた。


 もしかしたら本当の未来人かもしれないアスによってタイムリープしたらしい僕は、いったいどのような理由で過去に戻ったのか。その答えは明確だ。


 ――もしやり直せるのなら、もっと早く江崎さんに告白したかった。


 ただ、それだけだ。


 事実だけを見ればタイムリープしたことは確かなのだから、ならばこの不思議な現象を活用するべきではないか。


 僕がそこまで考えると、ふとあることに気がついた。


 僕が告白に失敗したのは、明日の卒業式後に呼び出すはずだった江崎さんが、実はもう帰宅してしまっていたということが原因だった。ならば卒業式の後ではなくもっと前に告白するしかない。


 それならばいつ? 当然卒業式中は無理だ。卒業式中に愛の告白なんてどこの青春ラブストーリーだよ。夢見すぎだろ。だから告白するなら卒業式前になる。朝は……登校すると教室に行き、式が始めるまで待機だ。教室にいれば江崎さんは友達と一緒にいるだろうし、なによりクラスメイト全員の目があるから、連れ出すにしても確実に怪しまれてしまう。朝に告白するとしたら、江崎さんにいつもより早く学校に来てもらわなければならない。


 そうなると卒業式当日ではなく前日に、つまり今日中ということになる。学校が終わってしまえば僕と江崎さんとの接点が失われてしまうから、学校にいる間。そして今日は卒業式の予行練習が終われば下校。そして今この時間は、もうすでに予行練習が終了している。これらのことから導き出される答えとは……。


 告白は今しかないということ。


 状況的には、誰もいない保健室、このあとは下校するだけ。つまり中学校生活中に二人っきりになれるタイミングは、今この瞬間が最後となるのだ。


 僕はそのことに気がつくと、僕の身体は急に心拍数を上げて慌ただしくなる。瞬間的に緊張してきて思考がまとまらない。フリーズ一歩手前。心臓が口から出てきそうだ。


 しかし前回の卒業式後の失敗を思えば、ここで告白しないわけにはいかなかった。せっかく手にした奇跡を何も活用しないまま手放すのか、と僕の理性的な部分が訴えかけてくる。


 ……やるしかない。やるしかないのだ!


「あ、あのッ、江崎さん」


 僕は意を決して隣の江崎さんに声をかけた。その際声が上ずり奇妙な発声になってしまい、江崎さんはその声を聞いて少し吹き出した。


「ど、どうしたの?」


 江崎さんは大笑いするのを堪えるかのように声を震わせながら、笑顔で尋ねてきた。その笑顔はまばゆく愛らしいものだったが、今の僕はそれに魅了されている余裕はなかった。


 行けッ、行くんだ! 行くんだ僕!!


「あの! もう卒業だから言うけど、じ、実は、……実は、ずっと、江崎さんのことが好きでした。その、あの、卒業して離れ離れになるけど、もしよろしければ、その、高校生になってもよろしくお願いします!」


 緊張している反面やけくそ気味になっていた僕は、言葉をつっかえながらも自分の気持ちを衝動的に言葉にしていった。最後には握手を求めて手を差し出し、椅子に座りながら江崎さんの方を向いて頭を下げた。


 だが頭は下げたものの、やはり江崎さんの反応が気になってしまったので、僕は頭を下げてから数拍の間ののち少しだけ視線を上げて様子を伺った。


 僕の突然の告白に、江崎さんは心底驚いた様子だった。目を見開き、両手で口を覆って固まっていた。


「えっと、あの――」


 江崎さんはそのままの状態で反応するが、しかし一向に続く言葉が出てこない。そしてお互い身動きしないまま時間だけが過ぎていく。手を差し出したまま、保健室の時計が刻む秒針の音がやけにうるさく聞こえた。


 いったい何分経過したのかはわからない。わからないがしばらく時間が過ぎたのち、江崎さんは口に当てていた両手をゆっくり離して膝の上に置いた。


「その、いきなりでびっくりしちゃって……その、返事、だけど」


 驚きから少し落ち着いたのか、江崎さんはゆっくりと噛み砕くかのように言葉を発する。僕はそれを聞いて息をのむ。


「返事は、少し待ってもらえるかな?」


 待つ? 返事を? どういうこと?


 僕は告白の返事とはイエスかノー、受け入れるか断るかの二択しかないと思っていた。だからこそ、返事を待つという先延ばしの選択の意味を理解することがかなわなかった。相手を好意的に思っているなら受け入れるだろうし、嫌悪感を抱いている相手なら断るだろう。つまり返事を先延ばしにするということは、それはこれまでとくに意識したことのないどうでもいい相手、ということではないのか。意識したことがないのは、即断られるのと同じレベルでショックだよ。


 そんな僕の心情が顔に出てしまっていたのか、江崎さんは僕の表情を見て「ち、違うの」と慌てて弁解した。


「その、恥ずかしいけど、私、誰かに告白されたこととかないから、びっくりしちゃって。恋愛とかまだよくわからないけど、でも稲垣君が真剣に気持ちを伝えてくれたから、私も真剣に答えなきゃって思って、でもそう思うと気持ちがわーってなって混乱しちゃうから、その、時間をかけてでも気持ちをちゃんと整理して、真面目に返事を出さなきゃって思ったから、だから別に稲垣君のことが駄目とかじゃなく、その、時間が欲しいだけなの。稲垣君の気持ちにしっかり向き合えるだけの時間が、ね」


「そ、そうですか」


 僕は反射的に納得の言葉を呟く。そうだよな。そんないきなり告白されて即答できるなんてこと、よくよく考えれば難しいことだもんな。それに真剣に考えてくれるってことは、まだ望みがあるってことだし、悪いことではなさそうだ。


「あ! でも、卒業式は明日だから、明日までにはちゃんと返事するから。一日かけて頑張って考えるから!」


 明日が卒業式で、それが過ぎればもう会えないことに思い至ったのか、江崎さんは慌ててフォローした。でも一日かけて告白の返事を考えるって、なんか複雑な気分だな。生殺しもいいところだ。


 しかし江崎さんが告白されたことがないって、結構意外だったな。男子に人気があるから、てっきりモテているのかと思っていたけどな。あ、でも女子から人気がある遼も、今まで告白されたとかの色恋沙汰は聞いたことがないな。これは所謂高嶺の花というやつなのかも。まるで侵入することを禁じられた聖域であるかのように、周りが騒いでいるだけで遼も江崎さんも恋愛経験はないのかもしれない。美形ほど逆にモテないのかも。


 そんなことを考えつつも「わかった。じゃあ、明日」と江崎さんに返事した。


「…………」

「…………」


 でも宙ぶらりんな状態となった告白のせいで、僕たちの間に妙な沈黙が支配した。何かを話そうとしても、おそらくお互い相手を意識してしまってまともな会話にならないだろう。そのことがもう明白であるので、僕も江崎さんも話題を出すことができずにいた。


 僕はさりげなく横目で江崎さんを見る。江崎さんは顔を俯かせ、膝の上で指先をいじっていた。その顔はわずかに紅潮しているようにも見えた。


 僕は視線を戻し、この奇妙な空気をどうにかしようと考える。しかし考えれば考えるほど、先送りになった返事による生殺し状態が強調された。そしていつしかこの空気に耐え切れなくなってきた。


 限界を迎えた僕は唐突に立ち上がる。その突然の行動に江崎さんはビクッと身体を震わせた。


「あ……えっと、じゃあ、明日。返事、待ってるから」


 僕は江崎さんを見下ろしながらそう言い残し、江崎さんの反応を待つことなく逃げるように保健室から出ていった。


 出ていってから、僕はなんて情けない男なんだろう、と忸怩たる思いにかられた。



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