ファイル19「希釈」
その後僕は、真音と江崎さんに付き添われて保健室に向かった。当然保健室にいた養護教諭は驚愕し、また知らせを受けた職員室では大騒ぎとなった。まあ卒業式当日に卒業生が階段から転落したとなれば一大事件になるだろう。中学校生活において最後の最後でやらかした僕のことを、先生たちは叱責するとともに心配してくれた。こちらとしても最後にこんな迷惑をかけてしまい申し訳ない気分になる。
当たり前だが僕は卒業式に出席できなかった。保健室のベッドに寝かされ、僕は絶賛アホ面を晒している。ベストとは言い難いのかもしれないけど、一応目的の結果に至る過程を確立させられたことに僕は安堵していた。
保健室では養護教諭が病院へ搬送する準備をしている。まあ救急車を呼ぶ必要のない軽傷だけど、学校内で起きた事故だから学校側としては病院に送らざるを得ないのかもしれないな。
ちなみに、卒業式が始まる直前まで真音と江崎さんはベッドに寄り添って僕のことを心配していて、病院へ行く話になったときに二人は付いていくと言い出したが、それを先生が断る前に僕が丁重に断った。二人にはちゃんと卒業式に出席してほしい。僕と違って一度しかない中学の卒業式なのだからということもあるが、僕としては一人になりたかったので人払いをしたかったというのが本音だ。
時間的に卒業式が始まったころ、養護教諭から準備のためいったん職員室へ行くと告げられ、そのまま保健室から出ていった。今保健室には僕一人しかいない。僕はベッドを軋ませて痛む身体を起し、周囲を警戒しながら保健室を退室。職員室は保健室から目と鼻の先にあることを踏まえて、僕はすぐ近くにある職員玄関から外に出て、上履きのまま学校の敷地外へ出る。
抜け出した目的は、未来人アスに会うためだ。時間としてはまだまだ早いけど、でも一人になれるタイミングを逃してしまえば、アスと遭遇することができなくなってしまう。だから抜け出せるときに抜け出すしかない。
痛みを我慢しながら通学路を進み、例の横断歩道までくる。相変わらず速度超過した車が行き交っている。僕は、何のためにあるのかが全くもってわからない横断歩道近くの広場に行き、そこにあるベンチに腰かけた。アスは確か昼前にこの広場に現れるはずだから、あと一時間が二時間くらいここで待機しなければならない。コートを着ていないのでかなり寒いが、まあ仕方がない。
そんなこんなで、寒空の下で二時間近く待った結果、期待していた通りにアスが姿を現した。
「ここ、いいですか?」
「ああ、どうぞ」
僕は腰を浮かせベンチの端に移った。するとアスは小さく頭を下げてからベンチのちょうど真ん中に腰かけた。
「そうですか、なるほど」
アスはベンチに座った途端呟き、一人で勝手に納得した。
「アナタは、前回の時間、いや今適応されている時間以外の時間では、ここにいませんよね? 例外として一回だけありますが、他は違います」
「そうだよ」
僕はアスの方を見ることなく返事する。
「アナタ、タイムリープしていますね」
「聞かなくても結論は出るだろ。僕がタイムリープを繰り返したことで量子化した記憶をたどればな」
「ワタシは別の時間では、そこまで情報を開示したのですね」
「まあな。半分以上理解できてないけどね」
「ワタシがどういった理由でアナタに情報の開示をしたのかはわかりませんが、でも、このワタシがアナタをタイムリープさせたということは事実のようですから、何かしらの重大な理由があるのでしょう。おそらくアナタが前回タイムリープした時刻にはまだ早いかと思いますが、もしよろしければ再度タイムリープさせましょうか? それともここで打ち止めにしますか?」
アスの方からタイムリープの提案をしてきた。僕はその提案に乗るしかない。
「じゃあ、タイムリープをしてくれ。戻る時間は昨日の午前中だ」
「わかりました。昨日の午前中ですね。では目を閉じてください。今から頭を押さえて親指を瞼に添えます」
僕は今回の時間で正解と思える答えを導き出した。だがそれでもまだタイムリープをやめるわけにはいかない。ベストな結果に近づけるため、僕は世界に対して最後の仕上げをしなければならないのだ。
アスによるタイムリープで、僕は九周目に突入した。
九周目も、八周目と同様江崎さんの告白を先延ばしにし、真音に僕が告白することを告げ、朝鉢合わせになった真音と一緒に登校し、そしていつもより早めに登校してきた江崎さんを連れて校舎内の階段へ。そこで僕は前回と同じく策を弄して真音を激昂させ、結果として僕は階段から転落した。その後保健室に運ばれた僕はタイミングを見計らって抜け出し、再び横断歩道近くの広場でアスを待った。
九周目はほぼ八周目と同じ流れになるように調整した。違いがあるとすれば、八周目よりも手際よく事態を進めることができたくらいだな。
そして僕は十周目に突入する。十周目も九周目同様、基本八周目の流れを踏襲した。
さらに十一周目。これも同じで、八周目をなぞる。
十二周目、十三周目、十四周目、十五周目。
このあたりになってくるともう慣れたもので、手際よく事を運ばせることができるようになっていた。会話はよりスムーズになり、階段からの転落もより軽傷で済むよう落ち方を試行錯誤した。保健室からの脱出も完璧だ。
十六周目、十七周目、十八周目、十九周目。
二十周目に到達。
「アナタ、何度も同じ時間を繰り返していますね」
二十八周目になって、アスがようやく指摘してきた。
「なぜそんなに時間を繰り返すのですか?」
「ちょっと訳ありでね。不都合があるのか?」
「いえ。実は前回アナタをタイムリープさせるにあたって、意識を情報化する際に少しだけ記憶を拝見させてもらいましたが、これまでの二十回はほぼ同じ内容の時間になっていました。とくに何か大きなものを改変することなく、パラドックスを最小に抑えたループをされている。そのことに疑問を抱いただけです。同じ時間をループする理由は何ですか?」
「前に説明してもらったけど、タイムリープを繰り返すと時間は量子化するそうだな。この世界には並行世界なんてものはなく、タイムリープすると時間は分裂するけど世界は一つだから、同じ世界に複数の時間が重なり合っている状態になるとか。タイムリープは時間的にシュレーディンガーの猫を生み出すとかなんとか」
「……その通りです。まあ量子化すると言ったのは、あくまで例えですけど」
「まあそこはいい。僕はそれで少しシュレーディンガーの猫を調べてみたんだ。結局よくわからなかったから僕の解釈が間違っているのかもしれないけど、でもあれって、所詮確率の問題じゃないか」
「というと?」
「猫は箱の中で生きている状態と死んでいる状態が一対一で重なっている。観測して初めて結果が現れるってね。だったら、これが二対一とか十対一、百対一や千対一なら、観測の結果は大きく変わってきてしまうはずだろ」
「なるほど。だから確率の問題と言ったのですね。言いたいことはわかります」
「なら現実ではどうなるのか。僕は八周して答えを出したけど、その間江崎さんは二回亡くなった。つまり江崎さんは三対一で生存と死亡が重なっていることになる。これからの未来、四分の一の確率で江崎さんは時間的に死亡扱いされてしまう。でもこの時間の重なりによる観測が確率の問題として当てはめることができるのなら、重ねる時間を増やすことで江崎さんの死亡という観測を薄めることができるのではないかと、僕は考えた」
前にアスが説明したことが本当なら、タイムリープによって確立した時間はなかったことにはならない。つまり江崎さんの死はなかったことにはならないのだ。しかしその影響は確率の問題でしかなく、そのていで確率を下げるのであれば、単純に分母を増やせばいいだけの話だ。
「だから同じ時間を繰り返しているのですね」
「何か問題あるか?」
「いえ。ほぼ同じ時間を繰り返しても、中身が同じなので未来に矛盾は生じません。いくらループしようともタイムパラドックスは発生しない。むしろ同じ時間を重ねることで、その時間を観測する確率を上げることができますね。考え方としてはよいでしょう」
アスは「ただ……」と話を続ける。
「何回続ける気ですか?」
アスのその質問に、僕はしばらく考えてから答える。
「気が済むまで。二百周すれば百分の一の確率になるし、二千周すれば千分の一の確率だ」
「アナタは、頭がおかしいですね」
アスは口ではそう言い放つが、でもちゃんとタイムリープしてくれた。二十九周目に突入。
そして三十周目、四十周目、五十周目、六十周目。
卒業式前日の午前中に戻り、卒業式当日の昼前にタイムリープしているので、一周は約一日。つまり体感で二か月が経過したことになる。
「普通の人間の精神であれば、ループによって発狂しているでしょうね。何か正気を保つ秘訣とかあるのですか?」
あるときアスはそう尋ねてきた。
「実はループを利用して勉強し直しているんだ。最初は小学生のときの教科書を引っ張りだしてきて基礎をやり直して、今は中学の範囲をやり直している。高校入試を終えたばかりだから頭に残っていることも多いけど、でも今まで理解できなかった箇所が理解できるようになるのは刺激的だよ。刺激があれば楽しい」
時間的に、卒業式前日の下校から翌日の朝までは自由だ。せっかくループをしているのだから、この空白の時間を活用しなければもったいない。今までこの空白の時間は自室にいたので、自室にいる範囲であればパラドックスも発生しない。我ながらいいことを思いついたものだ。このあと中学の範囲が終わったのなら、次は高校の範囲でも予習しようと思っている。
「なるほど。合理的ですね」
「お前はどうやって正気を保っているんだ?」
「ワタシですか? ワタシはアナタみたいなオールドタイプの人間ではないので、不要な周回の記憶は消去させていますよ。記憶だってデータですから、消すのは容易です」
「全身生体コンピューターさんは便利だな」
僕は揶揄して、この周回を終わらせた。
ここまでくると最早作業的に、機械的に事を運ばせている。限りなく無駄を省きスマートに行動しているので、もう時間と時間の内容の差異はなくなってきていた。なのでもう大幅に割愛する。
記念すべき二百周目。体感で約半年経過。
「もう二百周しましたよ。まさか本当に二千周するつもりですか?」
アスは呆れた様子――機械みたいな表情なので変化はよくわからないけど――で聞いてきた。
「まあ、してもいいと思っている」
二百周も意外と余裕だった。毎日全く同じというのは一見精神的につらいように思えるけど、でも見方を変えれば毎日安定して過ごすことができるのだ。交通事故で死ぬこともないし、火事で家が焼けることもない。突発的なことは何も起こらないからストレスが軽減されるのだ。ならば多少の刺激さえあればなんとかなる。
「ちなみに、今は何をしているのですか?」
「今? 高校の予習しようかと思ったけど教科書とかないから、ネットで調べられる範囲で予習して、それも終わったから、今は膨大なウィキペディアを読み漁っている」
自室の中で完結していればパラドックスは発生しない。でもネットをすることで何かしらのパラドックスが発生してしまうのではと最初は思ったが、でも一人の人間のアクセスがそこまで世界に影響を与えることもないだろうと判断した。そのため今ではネット中心に知的な刺激を求めている。通信制限は一日でリセットされるのでネット使い放題。とても快適だ。ネット時代に生まれてよかったと思うよ。
「そうですか。それは楽しそうでなによりです」
アスの反応がちょっと癇に障ったけど、こちらはタイムリープをお願いしている立場なので我慢した。次もお願いします。
そんなこともありつつ、ついに五百周。
「五百周してしまうことも驚きですが、本気で二千周しようとしていることの方が衝撃的ですね。二千周が何年になるかご存知ですか?」
「二千周なら五年半だな。五年半ニート生活ができると考えれば楽なもんだよ」
我ながら堕落した考え方になっているような気がする。日々知識が積み重なっていき、頭がよくなっているはずだけど、結局前には進んでいないから何の意味もない。ただこのループで蓄えた知識は、ループを解除したのちの未来で生かされる場面に遭遇するはずなので、全くの無駄というわけでもないのも事実だ。
さらにループ。六百周目、七百周目。七百三十周目でちょうど体感で二年が経過した。肉体は十五歳だけど、精神年齢は十七歳だ。僕の精神年齢が実年齢と同じだったらの話だけどね。
八百周目、九百周目。そして千周目の大台を迎えた。このころになるとネットでウェブ小説を読み漁り始めた。時間は持て余すほどあるので、人気作から埋もれた作品まで目を通していく。作者さんには申し訳ないけど、こっちは一日でリセットされるのでアクセス数はカウントされない。でもちゃんと読んでいます。
千百周目、千二百周目、千三百周目、千四百周目、千五百周目。
「なにが、アナタをそこまでさせるのですか?」
ある周回でアスは聞いてきた。
「責任と執念かな。結局のところ、僕がタイムリープさえしなければこんなにややこしいことにはならなかった」
「ワタシのせいですか?」
「いや。決めたのは僕だ。お前はただ手段を提示しただけ。それを使う決断をしたのは、紛れもない僕自身だ。ならそれによって生じた不幸の責任を果たすのは僕だ。江崎さんを二度も死なせてしまった責任を、僕は何が何でもとらなければならない」
「たとえその死という状態を薄めたとしても、アナタがかつて言った通り確率の問題ですので、死の状態を観測される可能性はあるのですよ」
「わかっている。僕は別にこのループだけで責任を果たすつもりはないよ。これからの長い人生、江崎さんはどこかのタイミングですでに死んでいる人間として観測されてしまうだろう。それによってパラドックスも発生する。だから僕は、一生をかけて江崎さんをフォローし続ける。それが僕の責任だ。どこまでも江崎さんに寄り添って、彼女が時間によるパラドックスで苦しまないよう助けてあげなきゃいけない。江崎さんには僕が必要だ。だから僕が彼女のすべてを支える」
「そうですか。ワタシはそういう感情的な行動原理は理解できませんが、でもアーカイブから探し出したこの言葉をアナタに送りましょう」
アスは一拍の間をおいて告げる。
「愛が重いです」
それは僕にとって誉め言葉だった。
千六百周目、千七百周目、千八百周目、千九百周目。
そして、二千周目。
「おめでとうございます。これで二千周達成です。まだ続けますか?」
横断歩道の広場のベンチにて、僕はアスに褒められていた。
「いや、もういいかな」
「どうしたのですか。ループは余裕ではないのですか。ここで止めるのですか?」
「正直に言うと、ここ百周くらいは結構つらかった。執念だけでなんとか乗り切っていた状態だよ。もうネットでもやりたいことをやりつくしてしまったから、繰り返される一日を耐えるのがしんどくなってしまった。それに……」
僕は最後に気がついてしまった。
「それに、僕が江崎さんの死を薄めてしまったら、僕が彼女を手助けする口実も薄まってしまう。一生寄り添うのなら、それだけ彼女に必要とされなければならない。ならむしろ、江崎さんの死を薄めるべきではないと思うようになったんだ。江崎さんの死が観測される度に、僕は必要とされる。でも一度確定した時間は覆らない。同じ世界に重なった時間の数を減らすことはできない。ならもう、ループをして時間を重ねるべきではないと判断した」
僕は何のために二千回もループしたのだろう? もっと早く気がつけば、それだけ江崎さんと一緒にいられる時間が増えるというのに。
「以前、別の時間でも言いましたが、もう一回言っておきますね」
アスは一拍の間をおいて告げる。
「愛が重いです」
いい言葉だ。それだけ江崎さんのことを愛しているのだから。
「僕は、江崎さんから告白の返事を聞くのに五年半もかかってしまった。でもようやく返事を聞くことができる」
その希望が今の僕にとっての幸せだ。
ようやく時間の牢獄から解放される。
「このあとはどうするのですか?」
「ここからは、僕にとって未知の時間だ。まあ二千回近い回数階段から転落したけど、それも今日でおしまい。保健室から抜け出して勝手に帰宅したていでことを進めてみるよ」
「そうですか。では最後の確認ですが、本当にもうタイムリープしなくていいのですね」
「ああ。構わない」
そう答えると、アスはわずかに頷いて了承した。アスもこれで開放される。
アスは立ち上がる。きっともう旅立ってしまうのだろう。
「ちょっと待ってくれ」
僕は咄嗟にアスを呼び止めてしまった。アスは僕の方を振り返る。
「前に、僕にとっての時間とは何か、と尋ねたよな。アス。これが僕の答えだ。これが僕の時間だ」
二千回にも及ぶループによって得られたこの結果は、紛れもなく僕の答えだ。これが僕という時間なのだ。
「そうですか。一応記憶に留めておきます」
「最後に聞きたいんだが、お前はなんでこの時代に来たんだ?」
それはずっと疑問に思っていた。
「大した理由ではないですよ。この時代に行くきっかけがあったから来ただけです。ある意味旅行感覚と言えるでしょう。でも、すべての事象は自明であり、偶然など存在しません。出来事にはそれが発生する理由が確かにあるのです。時間とは、ひいては世界とは、幾多の値と式による解で構成されているのです。要は巡り合わせです」
「巡り合わせ、か」
「ハイ。もしかしたら、ワタシがこの時代に行きたいと思えたきっかけの因果を辿っていくと、意外にもアナタに行きつくかもしれませんね」
「そうなのか?」
「さあ。ワタシはそれに興味がありませんので。可能性としてあり得るだけの話です」
アスは「もうよろしいですか?」と聞いてきたので、僕は名残惜しいが無言で頷いた。
アスは「では、さようなら」と言い残し、次の瞬間にはその姿が消えていた。きっとタイムリープして未来へ帰ったのか、それとももっと過去に遡ったのだろう。目の前で人ひとりの存在が消えたことに、僕は驚きもしない。そういう存在なのだから。
僕は一人ベンチに座っている。三月の寒気と階段から転落したことによる痛みが僕を襲う。それらを噛みしめるように認識しながら、これからの江崎さんとの未来に思いを馳せるのであった。
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