第8話 黒い天使
その後……俺は甲楽城が手配したホテルに宿泊し、今後の打ち合わせとやるべきことの説明を受けた。
そしてさらにその翌日、俺の住んでいる……いや、もう住むつもりはないから契約していると表現すべきだろうか。
今日は問題のマンションのオーナーのところに、甲楽城と共に直談判にやってきたのである。
「あぁ、ちょっと待ちたまえ」
俺がインターホンを鳴らそうとすると、甲楽城に止められた。
そして甲楽城は目を閉じ、不思議な言葉をつむぎだす。
――Abahaym Fogom r Holmay Mogathoro Zefgon Stywo Ykos Rohahym Quohawet Fohowen Kawahaym Thabohym Wowoke Gohazaym Ehowor Phaghywem Xehato Fegaworos Gohaym Ekhowahym Thago Woghcroe Yckato Solahgo Bebatos Howahym Sywohay Noghowe Quohym.
「何の呪文ですか?」
「ただの準備だ。 無駄になることを心から祈るがね」
俺の疑問に、甲楽城は表情を変えることなく肩をすくめて
まぁ、これも秘匿技術と言う奴か。
俺は納得と言うより諦めのような感情を噛み締めながら、指を伸ばし改めて呼び鈴を鳴らす。
『誰だ』
「402号室の渋谷です。 お話したい事がありまして」
打ち合わせどおりに俺が話があると告げると、インターホンの向こうから舌打ちが聞こえてきた。
……態度悪いな、ほんと。
そして2分ほどして出てきたのは、俺の住んでいるマンションのオーナーである初老の男性だった。
角ばった顔に、つねに食いしばっているような口。
濃い眉の下にある疑い深そうな半眼の目が、大きな獅子鼻の横から胡散臭げな視線を向けてくる。
「何の用だ……引越すから敷金を返せという話か」
いきなりそれかよ。
まぁ、あの部屋の恐ろしさを知っているならばわからなくもないが。
「いいえ。 もっと、根本的な話をしにまいりました。
あの部屋の良くない事象を解決したいと思いませんか?」
俺の横から顔を出した甲楽城が、とても営業とは思えない冷たい目をしたまま口を出す。
「興味はないな。 帰れ」
「では、訴訟に移りたいと思います」
鼻を鳴らして追い払おうとしたオーナーだが、甲楽城が色々と工程をすっ飛ばした結論を叩きつけると、ギョッとしたように目を見開いた。
「訴訟だと!? 馬鹿も休み休み言え!
いったい何を訴えるというのだ!!」
そう、普通ならばそのとおりである。
だが、この事件は最初から普通ではなかった。
「もちろん、あの部屋に身体を害するような現象が発生することを知っていながら、住人に十分な説明がなかったことについてです」
甲楽城の視線を受けて頷くと、俺は打ち合わせどおりに腕をめくって痣を見せつけた。
「同じ被害を受けたと、彼より前にあの部屋に住んでいた方々から証言もいただいてます」
「知らん! そもそも、その痣があの部屋によるものだという証拠がどこにあるというのだ!!
貴様こそ訴える……ぞ……」
甲楽城の取り出した書類を前にしてもシラを切るオーナーだったが、突然言葉を詰まらせる。
俺の横で、甲楽城がどんな表情をしているのか……恐ろしすぎて確かめる気にもならなかった。
「やれやれ、強情なことだ。 だが、その罪は神の前に明らかであり、とうてい許すことは出来ない。
女神アテナの処女性において、アストライアの天秤にかけて、我は汝を邪悪とみなす」
「な、なにを!?」
甲楽城は指を突きつけ、楽しそうに宣告を叩きつける。
そして……魔術を使った。
「我は汝を呼ぶ……精霊ユオエアよ。
Thawogo Rohawei Gohayn Defgoso Hogogeth Nykowo Myharon Hagowoh Wolahetowe Xehe Thagohay Fugohe Fuloseth Zebaoth r Tetragrammaton Adonay Messias Amen.
かの者の心を我が物とせよ」
その瞬間、俺はたしかに人が魔術に侵食されゆく現場を見た。
一瞬でオーナーの目から光がなくなり、まるで人形のように表情が失われてゆく。
それはまるで、神話の中でメドゥーサの首を見て石にされたという悪しき王を
こんな事が人の行う業だというのか?
これが魔術だというのか?
――恐ろしい。
俺は先日対峙した悪魔よりも、この男のほうが何倍も恐ろしいと思った。
「さて、改めて聞こう。 あの部屋に恐ろしい悪魔が住み着いていることを知りながら、貴様は次々と住人を送り込んだな?」
「……はい。 そのとおりです。
金をやるから、あの部屋に住人が入るように手配をしろと言われました」
そこから始まったのは、一方的な尋問だった。
幸いなことに、俺には何を話しているのかよくわからなかったが、どうやらこの恐ろしい現象は人の手によって故意に引き起こされたようである。
あぁ、"幸いなことに"……ではなかったな。
たぶん知らなかったほうが心安らかに人生を送る事ができただろう。
やはり、悪魔よりも悪霊よりも、人の業が一番恐ろしい。
「さて、貴様はしてはならないことをした。
その罪を償うために、私の言葉に従わなくてはならない」
「はい、従います」
甲楽城の口から飛び出した断罪の言葉にも、まるでロボットのようによどみない言葉が返ってくる。
こんなの、もう人間じゃない。
「では、この契約書にサインを」
あぁぁ、見たくも聞きたくない。
甲楽城の言葉に従順に従うオーナーを横目で見ながら、俺は今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られていた。
そんな俺の嘆きを他所に、何事もなかったかのようにすべての手続きが完了する。
やっと……終わったのか。
――最初の準備が。
これからやるべきことを考えると、俺は陰鬱のあまり死んでしまいそうになる。
そして俺はオーナーの家を後にするなり、恐る恐る甲楽城にたずねた。
「なぁ……こんなことしていいのかよ?」
「いいに決まっている。 心霊物件が解決すれば、君は報酬が増え、オーナーはマンションの悪評から解放され、住人たちは隣家から聞こえる悲鳴に悩まされることもなくなる」
その表情からは、罪悪感など微塵も感じられない。
あんた、本当に人間なのか?
まるで悪魔……いや、本物の天使というやつがいたならば、もしかしたらこんな奴なのかもしれない。
「それに、私は悪しき術師ではない。
彼が邪悪であるからこそ、このような処置が許されるのだ」
処置が許される……か。
訂正しなければならない。
この甲楽城と言う男は、吸血鬼なんかじゃない。
――黒い天使だ。
それこそ悪魔よりも恐ろしい、黙示録の時に要らない人間を嬉々として永遠の地獄に叩き落す役目を与えられたような、おそらくそんな存在なのだ。
「出来ないとは言わないんだな」
「その意味を君は理解していると信じているよ」
そして何かを諦めたような顔をした俺の肩を叩き、胡散臭い笑みを浮かべたまま、甲楽城は告げた。
「さぁ、楽しいリフォームの始まりだ。 共に正義を行おう」
********************
【参考文献】
Johann Scheible著 『Das Kloster』第5巻
Franz Bardon著 『THE PRACTICE OF MAGICAL EVOCATION』第二章
★精霊ユオエア【Juoea】……ドイツの魔術師フランツ・バートンの記した魔導書に現れる精霊の一つ。 地球を取り巻く霊的空間に存在し、人の意識と潜在意識に干渉する術を魔術師に与える。
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