第14話 ありふれた世界にさよならを

 それは、急激な気圧の変化から始まった。


「くっ、耳鳴りがする」

 その不快な音と痛みに耐えかね、俺はつい両手で耳を押さえて顔をしかめる。

 次の瞬間、足元の塵が煙のように舞い上がり、廃工場の床の上でゆっくりと渦を描きはじめた。


「そこか!」

 亮二が水鉄砲を撃つも、パシンと平手を撃つような音と共に水が弾かれて周囲に飛び散る。

 ……どうやら風圧の壁みたいなもので物理的に弾いたみたいだな。

 ちくしょう、また厄介なことを覚えやがって。


 心の中で毒づく俺を他所に、逆巻く風は次第にその激しさを増し、またたくまに暴風と化した。


「おい、これやばいんじゃ!?」

「同感だ、亮二。 ここはいったん最終防衛ラインまで下がろう!!」

 暴風の音に負けないように叫びあうと、俺達はふたりそろって走り出した。

 だが、その時である。


「おわぁっ!?」

 突然、ゴゥッと風が吹き付けたと思うと、亮二の体が見えない腕でなぎ払われたかのように吹っ飛んだ。

 そして鈍い音と共に壁に叩きつけられる。


「亮二!?」

 だが、奴の心配をする暇もなく、再び吹き付けた風が俺の体を押し包む。

 そして、すさまじい力で渦の中心へと引きずり始めたのだ。


「う、うわぁぁぁぁ、やめろ! 離せ!!」

 体を低くして地面にしがみつくも、アリエルの力には逆らえず、ガリガリと床を指で引っかくようにして渦へと引き寄せられてゆく。


 ――あ、そうだ!!

 俺はとっさの思いつきで水鉄砲に手をかけると、その中身を全て風の中にぶちまけた。

 まさかの掟破り……四度目の呪的逃走である。


 キラキラとした水滴が渦の中に吸い込まれてゆき、程なくして悲痛な悲鳴が響き渡った。

 そして荒れ狂っていた風がピタリと止まる。


「よ、よし、今だ、逃げるぞ、亮二!!」

「お、おお!」

 そして痛みに顔をしかめる亮二を抱え起こし、俺達は環菜の想定した最終防衛ラインへと走り出した。

 急がなければ……今のをもう一度やられたら、今度こそ逃げられない。


 俺は亮二に肩を貸しながら、工場の裏手へと続くドアを開く。

 すると、工場の裏の屋外にあるプールのような大きさの巨大な水槽が、月の光をキラキラと反射しながら静かに水をたたえていた。


 屋外に設置されたこの施設が、いったい何に使われていたものかはしらない。

 だが、このプールこそが俺達を守る最後の砦なのだ。

 俺と亮二は頷きあうことすらせず、迷わずそこに飛び込んだ。


 くっ――水を吸った服がまとわり付いて体が重い。

 冷たい水の中でもがきながら、俺と亮二は上着を脱いで投げ捨てる。

 服を着たままの水泳と言うのは、予想以上に危険だからだ。


『あ"ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 背後から響く濁った悲鳴に振り向くと、ゆらゆらと半透明にゆらめく巨大な犬が、目を見開いて絶叫していた。

 ……残念だったな。

 今日のところは引き分けだよ。


『ヴァウゥゥゥ、ヴァウウ、ウルルルルルル……』

 アリエルは水の中に入ろうと足を伸ばすが、その足先が濡れただけでギャンギャンと悲鳴を上げる。


「やっぱりな……都市伝説の影響を受けていたか」

 水辺を遠巻きにしてうろつくありえるを見て、亮二がボソリと呟いた。

 狂犬の部屋の由来ともなった狂犬病の別名は、恐水病。

 水を異様に怖がる恐水症という現象を引き起こす病である。


 その都市伝説と同化したアリエルが水を恐れる――意外なことに、その可能性に気づいたのは亮二であった。

 そして、その特性ゆえに環菜はこのプールを最終防衛ラインに選んだのである。


「さて、このまま朝まで待って時間切れを狙うのもいいが……どうする恒徳つねよし?」

「まぁ、俺達には打つ手が無いからそうするしかあるまいよ」

 正直、あまり気分のいい話ではないが、背に腹は変えられない。

 体が冷えて風邪を引かなければいいんだが……そう思いながらため息をついた、その時だった。


『……アァァ ツネヨシ ナゼ ワタシ ヲ 拒ム ノ?』

 聞こえてきた甘く切ない声に、俺と亮二はわが耳を疑った。

 その発言が、どう考えても目の前の悪魔の口から生み出されたものだからだ。


 悪魔はさらに近づきながら、身をよじりつつ狂い惜しいほどの熱情を訴えかける。


『愛シテル。 アァ アナタ ヲ 心カラ 愛シテ ル。

 大切デ 懐カシク 愛シイ 匂イ。

 アナタガ 欲シイ。 ツネヨシ ワタシ ヲ 拒マナイ デ。

 オ願イ ワタシ ト ヒトツ ニ ナッテ。

 モウ、二度ト 離レタク ナイ。 離レタク……ナイ……』

 その言葉はたどたどしくとも、その言葉は心が締め付けられるほど熱く切ない。

 嘆願する悪魔の目から、真珠ように美しい涙がポロリと零れ落ちた。


「愛してる? お前がか!?」

 俺は思わずアリエルにそう問いただした。

 言われてみれば、いくつか心当たりがある。

 こいつは亮二に対しては邪魔だと殴り飛ばしたが、俺に対してはわりと優しく自らの手に捕らえようとしていたし、そもそも殺そうと思ったならば、もっと早くにそう出来たのではないだろうか?


 なによりも……夢にこいつが現れる前にかならず響いていた遠吠えがその証拠だ。

 犬の遠吠えとは、けっして威嚇ではない。

 それは、孤独と渇望の音。 そして遠く離れた仲間への親愛のメッセージなのだから。


『アナタ ハ ワタシ ノ 主 ノ 匂イ ガ スル。

 アァ 主 ヨ。 ナゼ ワタシ ヲ アノ 狭イ 部屋 ニ 置イテ イッテシマッタ ノ?』

「おい、主って言うのは誰だ? ひとつになるっていうのはどういう意味だ」

「よせ、恒徳。 悪魔の言葉に耳を傾けるなって甲楽城からも言われていたんだろ!?」

 そう、悪魔はいつだって甘い言葉で人間を誘惑する。

 理解を示せば、そこに付け込んで堕落させようとするからこそ悪魔と呼ばれるのだ。


『知リタイ ナラバ ヒトツ ニ ナリマショウ ツネヨシ。

 ソレハ ソレハ トテモ 素敵 ナ コト ナノ デス。

 アナタ ヲ 縛ル ソノ肉 ヲ ワタシ ガ 食ライ ワタシ ノ 中デ 溶ケテ シマエバ アナタ ハ 永遠 ニ ナレル。

 ソシテ ワタシタチ ハ 二度 ト 離レ ナイ。

 オ互イ ノ 全テ ヲ 理解シテ 全テ ヲ ワカチ アエル』

 おぞましいことに、それは悪意ではなく純粋な善意からつむがれた言葉であった。


 駄目だ、これは……。

 俺は目の前の存在の、その心のあり方に絶望した。


 悪意を持っているだけの存在ならば、言葉を尽くしてその悪意を消すことも出来ただろう。

 だが、善意がゆがんでしまったものは、どうにも出来ない。

 なぜなら、その根本的な価値観自体が有害だからだ。

 考えてもみてほしい。

 善意の価値観というものを、いったい誰が砕く事ができるだろうか?


 こいつが天から落とされて堕天使となった理由を理解しながら、俺はこの恐るべき悪魔に対して恐れでも怒りでもなく、ただ心からの深い哀れみを感じていた。


「Zebaoth, Abatho, Tetragrammaton, Adonaij, Abathoij, Zijhawe, Aglaij, Quohowe, Agla……」

 俺は、穏やかな気持ちのまま、モーゼ第七の書に記されし悪魔を隷属させる呪文を唱える。

 この悲しい存在を、これ以上野放しには出来なかった。

 俺の命が続く限り、これを束縛し、正しい道にとどめおかなくてはならない。

 たぶんそれがあの部屋に関り、悪魔に魅入られてしまった俺の運命であり、責務なのだろうと思う。

 あぁ、やっぱりこんな役回りかよ。 最初からわかっていたさ!

 なぜなら……俺はとても運が悪いからな!


「……Muijroshoweth, Phalowaij, Agla, Theos, Messias, Zijwethororijm, Feghowo, Aba, Mowewo, Choe, Adonaij, Cewoe, Christohatos, Tetragrammaton」

 そして詠唱の終わりと同時に、右手を斜め上に突き出し……悪魔に命令を下すための宣誓の構えをとり、契約の言葉を与えた。


「アリエル……悪いが、お前と一つになることは出来ない。

 そして俺の望まないことを成してはいけない。

 いいか、俺の命がある限り俺以外の者の召喚には応じるな。

 かわりに、俺の傍に仕え、俺の願いのために尽くすことを許す」

 我ながら、なんと傲慢で自分勝手な契約だろうか。

 だが、アリエルは静かに膝を折り、歓喜とも思える表情を浮かべながら俺の前に頭を垂れた。


「これから、よろしくな」

 プールから上がった俺がその大きな頭に手を置くと、意外なことに柔らかくふわふわとした感触がかえってくる。

 なかなかいい触り心地だ。

 そして、俺の忠実な僕となったアリエルの口から、クゥゥゥゥンと、悲しみと恍惚の織り交ぜになった声が漏れる。

 俺を愛するあまり、俺を食らいたくて仕方が無いのだろう。

 だが、わかってほしい。

 お前の愛は他人を喜ばすことは出来ないのだ。


「さぁ、あるべきところに還るがいい。

 Zebaoth, Theos, Yschyres, Messias, Imas, Weghaymnko, Quoheos, Roveym, Christoze, Abay, Xewefaraym, Agla. 而して直ちに神の名において退去せよ。 賛美と、慈悲、そして神への感謝のうちにこの儀を成し終えん」


 その言葉が終わると同時に、アリエルの姿は霞のように消えうせた。

 かくして、俺は生まれてはじめての心霊現象を乗り切ったのである。


 ……科学だけが存在する世界の、ありふれた日常の終わりと引き換えに。

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