第2話 胡乱な後輩
「ハア……もう……嫌だ、あんな部屋」
生活と学費のために続けているコンビニのバイトが終わりかけた頃、帰宅することを考えて思わず俺は独り言を呟く。
昨日は部屋を逃げ出したあとで近くのネットカフェで過ごしたのだが、ここ一週間ものあいだ同じことを繰り返したせいか、すっかり店員に顔を覚えられてしまっていた。
微妙に嫌な感じである。
しかし、こうも毎日悪夢にうなされるようではあの部屋を引っ越すことも考えたほうがいいだろうな。
ネットカフェで寝る分には何も問題がないんだし、もしかしたらあの部屋では人の耳には聞き取れない低周波か何かが発生していて、それで変な夢ばかりみるのかもしれない。
貧乏大学生にとって、家賃が一万円という条件は非常にありがたいのだが、これではわざわざ家をもっている意味が無いだろ。
「どうしたんですか、
心配げな声に振り向くと、バイト仲間の後輩である
「あー 最近引っ越したんだが、環境に慣れてないせいか嫌な夢ばかり見るから寝不足なんだ」
「寝不足……だけなんですか? その左腕、動物に噛みつかれたみたいに見えるんですが」
その視線を追うと、彼女の目は水仕事をするために袖をまくっていた俺の左腕に注がれていた。
「別に動物を飼っているわけじゃなから、何かに噛まれたわけじゃないんだ。
起きたらこんな感じになってた」
「……というより、それって傷じゃないですよね?」
「血も出てないし、傷ではないな」
触ると痛みはあるのだが、むしろマジックで描いたといわれたほうがしっくりと来るだろう。
痣だと言われればギリギリ納得できるかもしれないが、傷としてはあまりにも不自然であった。
原因があの夢であることは間違いないが……聞いた話によると、人は火傷をしたと思い込むとその部分が本当に火傷したような状態になるらしい。
おそらくこいつも、そんな催眠術のようなものによってついた代物だろう。
まったくもって、とんでもない悪夢だ。
「いったい、どうしてこんなことに……」
「毎晩、夜になると犬のような何かに襲われる夢を見て、気が付くとこんな痣が出来てるんだ……。
まぁ、引っ越したばかりで環境になれてないせいだろ。 そのうちよくなるさ」
笑ってごまかしたつもりではあったのだが、どうも山尾の様子がおかしい。
顎に指を当てて何かを考えているように押し黙っている。
そしてしばらく彼女の様子を見守っていると、山尾は迷うような声で俺に告げた。
「もしかして……それって、『狂犬の部屋』じゃないんですか!?」
「なんだそれ?」
彼女の口から飛び出したのは、まったく聞き覚えの無い言葉である。
「さすが運の悪さに定評のある先輩ですね……ここまでひどいと、何か呪われてるんじゃないかと思いますよ」
「ほっといてくれ……好きで運が悪いわけじゃないんだ!」
そう、昔から俺は何かに取り憑かれているんじゃないかと思うぐらい運が悪い。
職場のカウンターに立てばクレーマーを引き当て、電車に乗ればなぜか女性と間違われて痴漢行為を受け、道路に出れば頻繁に交通事故に遭いそうになる。
そして、その全ての行為が俺以外の誰かの利益につながるのだ。
たとえばクレーマーは俺に文句をつけている途中で画期的な商品のアイディアがひらめき、勘違いをした痴漢はその事件がトラウマとなって無事に痴漢行為を卒業し、俺を轢きかけたトラックはその事故のおかげで土砂崩れに巻き込まれずに済んだ……といった按配である。
ゆえに、一部の人間からはいろんな意味をこめて【身代わり地蔵】とまで呼ばれている有様だ。
「あ、狂犬の部屋っていうのは、何年か前から噂になっている心霊物件ってやつです。
ほら、この書き込み……」
彼女はスマートフォンを立ち上げ、オカルト関連の掲示板を開いた。
そしてその中に紹介されている話の一つに、確かに『狂犬の部屋』というものがある。
だが、いったいこれが何だというのだろうか?
しかし、その文章に目を通すにつれ、俺の背中に嫌な汗が滴りはじめた。
そこには、俺の体験したものとまったく同じ体験談が記されているではないか。
なんだ、これは……いったい……誰がこんな作り話を?
偶然にしては、少々出来すぎている。
まさか……いや、そんな馬鹿な。
その書き込みの末尾に記されていた、『死んでしまった住人もいたらしい』という一文がやけに重く感じられた。
「よく……似ている話があるものだな」
平静を装ったつもりだったが、吐き出された声はかすれ、自分の耳にも大丈夫そうには聞こえない。
「ねぇ、先輩」
「……どうした、なんか嬉しそうだぞ」
てっきり怖がるかと思っていた後輩だが、なぜかその目はキラキラと輝いている。
「あの、急な話でなんですけど……もしよかったらですが、あたしの兄と一緒に今晩先輩の部屋にお邪魔してもいいですか?」
「俺の部屋に?」
彼女一人だけと言うのならドキっとしたかもしれないが、友人が一緒となると、どうやら色っぽい話ではなさそうだ。
しかし……言っては何だが、彼女とは互いの家に遊びにゆくような親しい間柄ではない。
断ったほうがいいのだろうか?
「実は、うちの兄が動画の実況やってましてぇ。
前々から『狂犬の部屋』にも興味があったらしいんですけど、詳しい場所がわからなかったんですよね」
なるほど、そういう理由か。
くだらないとはおもうが、ある意味利用できなくもない……。
「じゃあ、こうしよう。
俺はネットカフェに泊まるから、その料金を出してくれ。
かわりに、今日は好きなようにあの部屋をつかってくれてかまわない」
少なくとも、ネットカフェで寝る分にはあの嫌な夢はみないはずである。
荷物の梱包もまだすべて解いてないし、盗られて困るような貴重品も持ち出してしまえば問題ない。
むしろ今晩のネットカフェの料金が浮いたと思えば、悪い話とも思えなかった。
「ほんとですか!?」
花が開くような笑顔でそう告げると、彼女はバックヤードに入って携帯を取り出し、いそいそと電話をかけはじめる。
やれやれ、あんなろくでもない話にわざわざ首を突っ込みたがるとはねぇ。
「ちぃーっす。 今日はお世話になります」
やがて……俺と後輩のシフトが終わるころになると、やけにチャラい感じの男が現れた。
脱色した金色の短い髪に、日に焼けた肌。
ガタイがよく、週末はサーフィンやってますとでも言ったら、誰もが納得するだろう。
どうやら、こいつらが動画の実況をしているという後輩の兄らしい。
こいつらが今夜俺の部屋に泊まるのか。 少し心配だ。
なぜなら……俺はとても運が悪いからな。
そんな俺の中の不満をよそに、その青年……
「じゃあ、さっそく行きますか。
噂の『狂犬の部屋』ってやつに」
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