第5話 闇に光る目

 十二時を知らせるメロディーが夜の街に響き渡る。

 記憶が確かならば、これはシューベルトの『見知らぬ国と人々についてVon fremden Ländern und Menschen』という曲であったはずだ。

 別名は――『異国から』。


「この時間になるとこんな音がするんだ」

「そうですよ? 先輩、知らなかったんですか?」

 夜更かしの苦手な俺は、こんな時間まで起きている事がなかったためにこれまでこのチャイムを聞いたことは無かった。


 そして、まるでそのメロディーが合図であったかのように、異変は訪れたのである。

 最初は窓ガラスがカタカタと音を立て始めた程度で、風が強くなったのかと思っていたのだが……ときどきパシッ、パシッと何かが弾かれるような音が混じるようになり、それが常ならぬものの仕業であることに俺も環菜も気づき始めた。


「みてください先輩……CDのケースが」

「動いてる!?」

 それは、よほど注意してないと気が付かないほどささやかなものであった。

 だが、たしかにCDのケースは風も無いのに小刻みに動いてパシッパシッと音を立てている。


「なぁ、獣の唸り声のようなものも聞こえないか?」

「え? 私には聞こえないけど……」

 だが、俺には聞こえるのだ。

 あの、悪夢が始まるときと同じような低い獣の声が。


 そういえば――俺はふと思い出していた。

 シューマンの『見知らぬ国と人々についてVon fremden Ländern und Menschen』という曲は、『子供の情景』という組曲の最初の曲であり、その十一番目の曲の名前は……『怖がらせFürchtenmachen』であることを。


 そのときである。

 ガタンと、ひときわ大きな音が響くと、カメラが何かにぶつかったようにひっくり返った。

 そして向きをかえたカメラに飛び込んできた光景は――隠れていた仕入れの扉が見えない力で外され、恐怖に引きつった顔の亮二の姿があらわになる場面であった。


『うわあぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ!!』

 悲鳴を上げて押入れから逃げ出す亮二に、何か巨大な影が襲い掛かる。

 だが、そのタイミングで再び何かによってカメラが蹴り飛ばされ、向きを変えてしまった。


「い、いやあぁぁぁぁぁぁ!!」

「ちょっと、お客様!!」

「あ、出ます! 今すぐ店を出るので、清算をお願いします!!」

 取り乱した環菜をつれて店の外に出た俺は、愛車のドアを開いて後部座席に環菜を座らせる。

 そして震える手でエンジンをかけた。


「た……助けに行くぞ」

「先輩……」

 泣きじゃくる環菜の台詞は、嗚咽で崩れて何を言っているのかよくわからない。

 ただ、言たい事はなんとなくわかるような気がした。


「あいつ、逃げ足だけは早そうだから、きっと大丈夫だって」

 慰めるような言葉をひねり出しながら、俺はアクセルを踏む。


 目指すのは、俺の部屋のあるマンションだ。

 このまま逃げることも考えたが、どうやらその選択肢を選ぶほど俺は腐っていないようだ。


 そしてマンションの近くまできたとき、ヘッドライトにひとりの男の姿が照らされた。


「お、アレは……」

「兄さん!!」

 マンション近くの道路を向こうから走ってくるのは、間違いなく亮二だった。


「おい、無事か!?」

「あ、あんたは……環菜も! は、早く逃げろ、アレが追ってくる!!」

 俺の愛車にすがりつくと、亮二は口からつばを飛ばしながらわめき散らす。

 よほど恐ろしい目にあったのだろう……その目からは涙を流しており、盛大に鼻水をたらしていた。


「わかった。 まずは乗れ!!」

 おそらく漏らしているのであろうアンモニア臭もしたが、俺は迷わず亮二に助手席を示した。

 そして亮二が助手席に乗り込むと、俺は再びアクセルを踏む。


 その時である。

 バックミラーに映った俺の部屋の窓に、金色の小さな光が二つ並んでいることに気が付いた。


 ……いたんだ。

 あいつは、夢じゃなくて本当にいたんだ。

 それが俺の夢の中に出てきた奴であることは、もはや疑いようも無い。


 恐怖のあまり、全身が凍りついた。

 そして、そんな俺を見下ろしていたそれは、窓の向こうで真っ赤な口を開くと……。


「うわぁ、嘘だろ!?」

 ガラスの割れる音が夜の闇の中に響きわたり、巨大な何かがマンションの部屋から飛び降りてきたのだ。


「逃げろ! 早く!!」

 言われるまでもない。

 俺はアクセルを思いっきりベタ踏みにする。

 幸いなことに深夜の街の中は車通りも少なく、事故を起こす心配もあまりない。

 

「ちょっと、もっとスピードを上げてよ! 追いつかれちゃう!!」

「無茶言うな! 事故ったらそれこそ終わりだぞ!!」

 後部座席にいる環菜が、俺の背中のシートを殴りつけながら悲鳴を上げる。

 どうやらあの魔物は俺達の後ろを追いかけてきているらしい。

 金色の光が、少しずつ距離をつめてきていた。


 その時である。


「なんだ? 鳥か?」

 亮二の声に振り向くと、助手席の窓の隣を一羽の鳥が羽ばたいていた。


「フクロウ? なんで?」

 それは真っ白な体をした大きなフクロウ。

 するとフクロウは俺の車を追い越し、まるで先導するかのように前を飛びはじめたではないか。


「つ、ついていってみよう!」

「大丈夫なのか!?」

「じゃあ、どこに逃げればいいかわかるのかよ!!」

 ――どこぞの神の使いか、悪魔の僕か。

 いずれの存在かはしらないが、ここは一つ賭けに出るしかない。

 俺は慎重にハンドルを操作すると、前を飛ぶフクロウの後ろを追いかけはじめた。

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