第3話
朝が来る一瞬前、風が吹く。大地が、空が呼吸をし始める合図のように、それは毎回マリンチェの髪を揺らした。
今日が始まる。
「そういえば」
神殿の上、朝焼けを隣で見ていたアギラールがふと口を開いた。澄んだ藍色の空に、金色の髪が映えた。
「まだ、答えを聞いていないな」
「……、いまさら」
「聞いていない」
しれっと言われ、マリンチェは唇をつきだした。
「言葉がいいわけ? ……判ってるでしょ」
「臆病なんでな。聞いておきたいんだ。聞くために、ここに帰ってきたんだから」
くしゃりと前髪を撫でられた。そう言われてしまえばもう、拒否することは叶わない。
朝の光が眩しかった。マリンチェは昇ってくる朝日に目を細めながら、告げた。
「好きよ」
少しだけ声が震えた。アギラールの手が触れた。握り返す。骨ばっていて、でも、温かい。
「好きよ。貴方が好き。色んな物を失った。辛いわ。苦しい。でも、貴方がいるならまだ私は立っていられる。前へ進める。だから」
ふいに、藍色の空に星が流れた。鷲の声がする。
頬に手がかかった。マリンチェはアギラールの顔を見た。最初はこの顔すら、恐ろしい化け物に思えたのに、と懐かしい。
「貴方と生きたい」
唇が触れた。ぬくもりと、優しさが体中を駆け巡っていく。愛しい。その想いが溢れた。
顔を見合わせ、思わず二人して声を立てて笑った。そこへ、声がかかった。
「邪魔すんぞっと」
「コルテス殿。とても邪魔ですね」
「……お前な」
苦笑しながら、コルテスが神殿の階段を一段ずつ踏みしめて上がってきた。最後まで登り終えると、コルテスはマリンチェたちの前に立って笑った。
「ここにいる、ってことはそう思っていいんだな?」
マリンチェは少しだけ笑って頷いた。アギラールはええ、と微笑む。コルテスはくしゃりと顔を歪めて笑った。
「そうか。――ありがとう」
空気が温まり始めていた。空がしらばみ、青空が広がっていく。
「なら、お前たちに頼み事がある」
「頼み事?」
マリンチェは首を傾げた。コルテスが生真面目に頷いた。
「ああ。――新しいエスパニャの、父と母になれ」
新しいエスパニャの父と母。
唐突な言葉に、マリンチェは目を瞠った。思わずアギラールと顔を見合わせる。
「マリンチェ。お前はメヒコの女だ。アギラール。お前はエスパニャの男だ。新しいエスパニャはどちらか一方だけでは成り立たない。俺はそう思う。文化が混じり、人が混じり、知識が混じり、新しいものが生み出され、そして築かれるものになるだろう。だからな、お前たちはその象徴になれる。なって欲しい。頼めるか」
――新しいエスパニャの父と母に。
マリンチェはアギラールの眼を見た。明け始めた空の瞳に、夜の色を灯した自分の瞳が見えた。それもまた、混じり合う。そうやって世界は繋がっていくのだろう。
その象徴になれるのなら。
マリンチェとアギラールは同時に深く頷いた。コルテスが安堵したように微笑む。
風に乗って、人の気配が運ばれてきた。
ふと、下を見やる。神殿前の広場に、人が集い始めていた。最初は、数える程度だった。だがみるみるうちに増えていった。エスパニャ人もトラスカラ人もいた。大人も子どもも、男も女も、いた。人々が口々に何かを囁き合っている。最初は小さな囁きだった。しかしそれが、重なっていく。やがてそれは、大合唱になった。
声は、叫びになっていた。
――新しいエスパニャ! 新しいエスパニャ! 新しいエスパニャ!
朝焼けの中響き渡る大合唱の叫びに、少しの間動けなかった。ややあってから、コルテスが眦を抑えた。
「俺は幸せものだな」
掠れるほど小さな、呟きだった。次の瞬間、コルテスが大声を張り上げた。それは、眼下の広場にも響き渡る宣言だった。
「さあ、行くぞ。この先もまたきつい戦いになるだろう。だが、皆が同じ方向を向いた。同じ望みを持ち、覚悟を持った。ここに集った者は全て同じ望みを持つ仲間だ。同じ、新しいエスパニャを目指すものだ!」
わっ――と喚声が上がった。それはトラスカラ全体を揺るがすほど響き渡った。
新しいエスパニャ! 新しいエスパニャ!
大合唱の中、一歩ずつ神殿を下り始める。マリンチェはアギラールの手を強く握った。前を向く。
誰の犠牲もない朝が来た。そしてそれは、守らなければならない。この道を行けば、もう戻れないだろう。
だが、もう戻らない。この選択がたとえ、メヒコを裏切るものだとしても。マリンチェはもう決めた。迷わない。逃げやしない。
先へ進むために。
マリンチェは一歩、足を踏み出した。
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