第5話


 急いで会議が開かれた。マリンチェをはじめ、体調の悪いものは手当を受けさせた。会議の場で、コルテスはペドロを怒鳴りつけた。ペドロの言う反乱の兆しをあり得ないと切り捨てたのだ。頬は痩け、けれどもぎらぎらとした目の色を宿したままのペドロは言い争ったが、最終的に現状を問いつめられ黙るしかなかった。

 いくつかの手を考えた。だが、深く考え話し合う時間は持たせてくれなかった。外からは絶え間なく、アステカの民の攻撃が続いている。まずは落ち着かせなければと誰かが言い出し、ならば、と一つの手が取られた。クイトラワクという王家の者――モクテスマの弟だった――を外へ出し、民衆を沈めようというものだった。クイトラワク自身が名乗りを上げた。

「ここには、兄も可愛い姪もいる。このままでは良くない。必ずこの騒ぎを収めよう。どうか、行かせて欲しい」

 悲痛な顔で語るクイトラワクに負け、コルテスは渋々彼を外に出した。攻撃を中止し、市場を再開させるように説得する。そのはずだった。だがクイトラワクは戻らなかった。テノチティトランの民はモクテスマを見捨てたのだ。クイトラワクは新たな王として立ち、攻撃はいっそう激しくなるばかりだった。

 マリンチェを通じてそのことが告げられると、モクテスマの幼い娘はどこか達観したような様子で微笑んだ。諦めに似ているように見えた。この宮殿にモクテスマも彼女自身もいる状態で、攻撃は止まないのだから、それは彼女自身、見捨てられたも同然だった。

 モクテスマもまた、同じ様子だった。日に日に生気を失っていく。水も食料も、わずかしか口にしなくなった。

 なんとか外への突破口が開けないかと反撃に出もした。だが、圧倒的な数の前には大砲も小銃も役には立たなかった。モクテスマが、皮肉じみた口調で笑った。ここはアステカだ。アステカは戦士の国だ。ジャガーの戦士も鷲の戦士も、誰もかれも強い。

 何度かの反撃で、食糧は僅かずつだが手に入り、外の様子もさぐれはした。だが、そこまでだった。死者も負傷者も少なからず出て、アシャヤカトルの宮殿には重い空気が立ち込めるばかりだった。

 アギラールには懸念があった。ナルバエス軍から下ったばかりの者の動向だ。コルテスに進言したが、ただ判っているとだけ告げられた。話し合いの末、結局首都撤退を条件に停戦を申し込むほかないという結論に達した。モクテスマがその役目になった。彼はもう、ただの傀儡のようになっていた。

「――我の言葉が届くとお思いか」

 見晴台に出る直前、身なりを整えられたモクテスマがアギラールに微笑んだ。マリンチェが複雑な顔で彼の言葉を訳した。

「民は皆、我を捨てた。我が実弟のクイトラワクを選んだのだ。そんな状態で、声が届くとでも?」

「それでも貴方は王でしょう」

 アギラールはその力ない眼を正面から見据えて告げた。

「この強大な国を、都市を、治め統べてきた王であられるはずです。その声を、言葉を、届かせるための存在でしょう」

 モクテスマの瞳は揺らいでいた。この状況でも、彼は、王である自分を完全には捨てていなかったのだろう。声が届かなければ王である威厳も何も、その場で踏みにじられる。それは恐怖だと、アギラールにも理解できた。だが、モクテスマは最後の最後で逃げなかった。その恐怖が目の前にあったとしても、声が届く希望も忘れていなかった。

「王として、お声を上げになってください」

 アギラールの言葉に返事はなかった。だが、モクテスマは自らの足で見晴台に歩んでいった。



「静まれよ」

 声は大きくはなかった。だがよく通り、響いた。蒼穹へ吸い込まれるかのようにアステカの民の声は消えた。マリンチェは息を呑んだ。ここからではモクテスマの背中と空しか見えない。だがそれでも判った。何より彼は、王だった。

「皆の怒りはよく判る。とても悔しく残忍な事件だった。だが、待ってほしい。このままここテノチティトランで戦を続けて何になる。テノチティトランは美しい。緑も映える季節になった。花の香も芳しく、市場は世の全てのものが集い、流れ、水路も、街も全て美しい。忘れてはならない。ここは我の街ではない。ここは、皆の街だ。この美しいテノチティトランは、皆一人ひとりのものだ。何故そこで火をつける。剣を振るう。市を閉める。橋を落とす。美しいテノチティトランを瓦礫へ変えたいのか」

 誰も何も、喋らなかった。エスパニャ兵も、トラスカラ兵も、そしてアステカの民も皆、黙っていた。

「〈白い顔〉の者達は、この地を去る。ならば、取り返そうではないか。我々の美しい街を。テノチティトランを。もう一度、ここに蘇らせようではないか!」

 一瞬、沈黙が落ちた。やがて小さなざわめきが広がる。それが歓声に変わりかけた時、叩きつけるような声が響き渡った。

「騙されるな!」

 クイトラワクの声だった。マリンチェはアギラールと顔を合わせた。良くない兆候だった。

「騙されるな、皆のものよ! 地に落ちた王の声など聞くに値しない!」

 ざわめきが暗い色を帯びていく。

「そこにいるものは〈白い顔〉の異人を神などと寝言を言い、このテノチティトランへ迎え入れた張本人だ! テノチティトランを血に染めた戦犯だ!」

 一層、クイトラワクの声は高くなった。

「私は知っている! 〈白い顔〉の者どもは神などではない。異人だ。征服者だ。約束などすぐに違える者たちだ! 剣を持て、矢を放て、惑わされるな! 戦え、我が同胞よ!」

「モクテスマを中に入れろ!」

 コルテスが短く叫んだ。アギラールはとっさに手を伸ばした。だが、一瞬遅かった。

 喚声とともに石が、矢が飛んできた。そしてその石礫がまっすぐ、モクテスマの頭を撃った。

「おとうさま!」

 テクイチポの悲痛な叫びが上がった。



 翌日の朝、モクテスマは息を引き取った。その場に最後まで付き従ったのはテクイチポただ一人だった。

 マリンチェはテクイチポが静かに部屋から出てきた時、一歩も動けなかった。マリンチェ自身も、思い出していた。父を亡くした時、マリンチェもまた今のテクイチポほどの年だった。父を亡くしたときの辛さは判っている。だがあの時は病だった。モクテスマは民の手によって殺されたのだ。かける言葉など見当たらなかった。

「マリンチェ様」

 テクイチポがこちらを見つけて顔を上げた。最初は、弱く微笑んだ。だがマリンチェが彼女の肩に手を回した瞬間、それは泣き顔に変わった。ぼろぼろと大粒の涙を流し、テクイチポは泣き続けた。マリンチェはその肩を抱き続けた。暫くしてようやく泣き止んだテクイチポは、自身の耳飾りを外した。涙の形の青い宝玉だった。

「貰ってくださいませんか」

「テクイチポ様?」

 テクイチポはマリンチェの手にそれを握らせると、涙で腫れ上がった目で笑った。

「お願いします」

 直感的にマリンチェは、それが別れを意味すると気が付いた。指先が震えたが、ただ静かに頷いた。

「父もいない。叔父が立ちました。だとすればもう、この宮殿も長く持ちません。お逃げください」

「共に」

 行けるはずなどない。判っていたのに、唇にそんな言葉がのぼりかけた。そっと、テクイチポが人差し指でそれを遮った。

「マリンチェ様。あたしはアステカ第九代王、モクテスマ二世の娘です。――アステカの、王家の娘です」

 そう告げたテクイチポの顔は幼いながらも確かに王族の気配を纏っていた。マリンチェは最大の敬愛を込め、王にするように、地に接吻をした。



 首都撤退が決定した。堤道に掛かる橋が落とされていたのは予め判っていたので、持ち運び可能な大型の板を用意した。集められるだけの水と食糧を用意した。一番問題になったのはその頃には随分な量になっていた金だった。書簡にて本国にその量を伝えていたため、持って行かないわけにはいかなかった。だが、全部とは行かなかった。積みきれなかった金は、好きに持って行けとコルテスは兵につげた。ナルバエス軍から下った者たちは飛びついた。

 準備は急速に進められた。そして、翌日の早朝、脱出が始まった。

 その日、朝日は拝めなかった。空は分厚い雲で覆われ、冷たい雨が降っていたからだった。

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