第2話

 その日の夕方には、船はサン・フアン・デ・ウルア島に到着した。一行は船を下り、また野営の準備を始めた。現地の民は何故か一人も見かけなかった。

 コルテスの指示は事細かに告げられた。小高い丘にマリンチェのよく判らない武器が携えられ、船に乗っていたあの得体のしれない動物も陸に降ろされた。

「ねぇ。これってなんていう動物なの」

「馬か?」

「馬っていうの? 鹿とは違うのね」

「ああ。そうか、こっちにはいないのか」

 アギラールは少し意外そうだった。マリンチェはすぐに馬を好きになった。従順で賢く、愛らしい。その中でも栗毛の一頭が特に気に入りだった。毛並みも鮮やかだが、何よりその眼に知性を感じ取っていたからだ。ペドロが良くその馬に乗っていた。随分と自在に操るものなので、はじめは人の言葉でも判るのかと不審に思ったくらいだ。コルテス軍はこの馬に乗る戦士が多くいた。アギラールも乗れはするようだったが好んではいないようだ。戦士たちは馬に乗り、規律のとれた行動をする。その様は美しささえ感じさせた。

 三日目に、来訪者はまた現れた。テウディレは別の男達を連れていた。少々頭の寂しい男はこの辺りの土地の首長、クイトラルピトックと名乗った。クイトラルピトックの他には奴隷と、そして例によって絵描きがいた。

 会談でコルテスは、偉大なる人物の命により友好と交易のためにやってきた、と告げた。マリンチェはそれが彼らの国の王だと知ってはいたが、濁して通訳した。神の上に人がいるのは、いささか不自然だろうと思ったからだ。テウディレとクイトラルピトックは、それぞれ贈物を献上した。金や銀、羽毛細工の品――そして、一着の衣装だった。衣装を見て、マリンチェは素早くアギラールに告げた。

「コルテスに着るように言って」

「これは?」

「ケツァルコアトルの衣装よ。モクテスマが寄越したのね」

 アギラールは短く頷き、コルテスを促した。コルテスもマリンチェの意図を汲み取ったのだろう、何も言わずにそれを身につけた。青い羽飾りのついた空青石の仮面に、鈴の着いた首飾りや腕輪。色鮮やかな衣服。そして、黒曜石の履物。

 全てを身につけたコルテスを見て、マリンチェは少し背筋を震わせた。それはかつて聞いたことのある、ケツァルコアトル神そのものに見えたからだ。

 テウディレとクイトラルピトックも同じように思ったのだろう。深くひとつ、息を吐いた。

「私たちはモクテスマ殿の命により、これを貴方方にお届けするためにやってきました。モクテスマ殿は貴方方を歓迎しております」

 そう言うテウディレの口調は固かった。

「食糧が足りないのであれば提供いたしましょう。金や銀をお望みならばいくらでもお渡ししましょう。ですので、どうか、お引取り願いたい。モクテスマ殿のお言葉です」

 ――そう来たのね。

 マリンチェは通訳しながら思案した。アギラールも不可解な顔をしている。マリンチェはちらりとその横顔を見てから、ナワトル語でテウディレに話しかけた。

「モクテスマ殿は、テノチティトランにこの方々を入れないつもり、ということね」

「仰せのとおり。帰られる神には申し訳ないが、望む限りのものは与えるので、ご満足頂けたら東の地へお引取り願いたい」

「元々テノチティトランはアステカの民の土地ではないわ。あそこは、ケツァルコアトルのいるべき土地よ」

「今はモクテスマ二世殿の収める土地であり、国です。どうかお引取りを」

 マリンチェは困りながら、アギラールに内容を伝えた。コルテスとアギラールもまた、短く言葉をかわし、アギラールが振り返った。

「断れ、マリンチェ」

「いいのね」

「ああ。あくまでも友好を結びたい。そのために貴殿らの王にお目通しを願いたい。そう告げてくれ」

 マリンチェが伝える間に、コルテスの部下たちがそれぞれ精巧な作りの椅子や硝子球の首飾りや大きな布などを持ってきた。首飾りの鮮やかさに、テウディレとクイトラルピトックは目を丸くした。これほど精密で繊細な細工をする技術は、アステカにはない。

「これは、こちらからの友好の証です。お望みとあればこちらも、いくらでも渡しましょう。お気にめしたならば、何卒、お目通りを」

 テウディレは悩んだ末に、お伝えしましょう、とだけ言った。

 その後、テウディレとクイトラルピトックを連れてコルテスは陣中を歩き出した。ペドロを中心に、馬の早駆けや規律のとれた行動を演技として見せ、そしてアロンソが丘に据えたあの武器を使ってみせた。大地を震わす音とともに玉が吐き出される武器に、二人は震え上がった。コルテスは呵呵と笑ってみせた。それが力を誇示し、テウディレやクイトラルピトックへの牽制を意味することは、政治に明るくないマリンチェにもすぐに判った。彼らについていた絵描きは熱心にそれらを描きとめた。

 別れの時、ふと、今まで黙っていたクイトラルピトックが低く、マリンチェに告げた。

「君はアステカの女だね」

「ええ。生まれはパイナラの街です」

「ならば、考えるが良い。己の立場を」

「どういう意味でしょうか」

「くれぐれもアステカを――メヒコを裏切りませぬよう」

 その言葉はマリンチェの胸に深く杭を打った。彼らの背を見送ったあと、マリンチェはそっと一団を抜け出し人気のない浜辺へと足を向けた。

 打ち寄せる波の際で、マリンチェは足を海水に浸した。足の指の間を、砂がすり抜けていく感触が今はたまらなく痛く感じた。

「どうした」

 不意にマヤ語が聞こえて、マリンチェは短く息を吐いた。振り返らずとも、誰かは判る。

「アステカはモクテスマが治める国のこと。でも、メヒコは私たちが住むこの大地そのもののことよ」

「何を言っている?」

「アステカなら、いいわ。モクテスマは正直嫌いよ。彼を裏切ることになるって言うなら、別に覚悟は出来るわ。でも、どうしてそれがメヒコになるのよ。彼の力はメヒコ全体に及んでるわけじゃない。私はただ知りたいだけよ。朝が来るために本当に儀式は必要ないのかって。それを知りたいだけ。その儀式を執り行うモクテスマに楯突くっていうなら、その通りよって言うけど、メヒコを裏切るわけじゃない」

「マリンチェ」

 名を呼ばれると同時に、肩を引かれた。すぐ間近にアギラールの顔があった。その顔が驚きに彩られていた。

「何を言われた」

「――別に」

「意外と嘘を吐くのが下手なようだ」

 からかうように笑われ、マリンチェはアギラールの手を払いのけた。腹立ちまぎれに、足元の水を蹴りあげる。顔に僅かにかかったのか、アギラールが苦笑を漏らした。

「絵描きがいたな。あれが何か判るか?」

「絵文字でしょ。モクテスマに報告するんだわ。貴方達の顔も熱心に描いていた。武器や、馬も。私の顔も」

「そのうち会見するんだ。手っ取り早いな」

 マリンチェはアギラールほど楽観的になれなかった。マリンチェの顔も、モクテスマに割れることになる。それがどういう立場になるか、判らないわけでもない。


 くれぐれもアステカを――メヒコを裏切りませぬよう


 クイトラルピトックの投げた一言は、マリンチェの中でずっと火種のようにくすぶり続けた。  

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