第2話


 コルテスに断りを入れ、マリンチェを連れてテノチティトランに散策に出た。コルテスはお好きにどうぞと投げやりな笑顔を向けてきたが別に構わないだろう。

 中央市場を巡り、果実を頬張ったり鮮やかな髪飾りを見たりして時間を過ごした。最初はどことなくよそよそしいマリンチェだったが、暫くするといつもどおりの様子になってきたのでアギラールは安堵した。

 暫く街中を散策した後、水路傍の広場へと足を向けた。辺りに腰を下ろす。マリンチェがはっと短く息を吐いた。

「なんだか久しぶりに、普通のことをした気がする」

「すまないな」

「何を謝る必要があるの? 私は私の意思で貴方達についてきた。望みをこの眼で見た。たしかにそこに至るまでは色々あったし、今もいろいろあるけど、全部自分が選んだ結果よ」

 真っ直ぐなマリンチェの言葉に、アギラールは静かに微笑んだ。

「今後の話をしたい」

「今後?」

「お前は今自分で言っただろう。望みがあった。そしてそれが叶ったと。なら、次はどうする」

 マリンチェが戸惑ったように瞳を揺らした。

「ずっとこの中途半端な状態が続くとは思っていないだろう。モクテスマが完全に降参してここがエスパニャの地のひとつとなるか、あるいは反旗が翻って私たちがエスパニャへ帰らざるを得なくなるか。そうなったとき、マリンチェ、お前はどうする」

「私は」

 マリンチェが少し迷うような素振りを見せてから口を開いた。

「私は、まだ判らないの。今は貴方達の軍の通訳として生きているわ。でも、それでも、私はメヒコの女よ。テクイチポ様もディアナも、メヒコの女。大切な友なの」

「ああ」

「でも私はチョルーラでメヒコを裏切った。今この瞬間だって裏切り続けているのでしょうね。その私をメヒコが受け入れてくれるかどうか、判らないの。私自身がどうしたいのかも、まだ、見えない」

「そうか」

 アギラールは頷いた。すっと空を見上げる。今日のテノチティトランの空は雲が多い。陽射しが遮られ、また顔を覗かせる。その様は短い間に朝と夜を繰り返しているかのようにも思う。

「私は決まっている。マリンチェ」

 隣に座るマリンチェの顔を見据えて、アギラールは告げた。

「――お前と生きたい」

 風が抜けていく。葉擦れの音が響く。一瞬吹いた春の強い風にマリンチェの髪もばさばさと流された。彼女は手で髪を押さえて何度か口を開け閉めして――立ち上がった。背を向ける。アギラールは苦笑してマリンチェの細い腕を引いて止めた。

「逃げるな」

「……逃げさせてよ」

「嫌だ。落ち着け。取って食うわけじゃない。座れ」

 笑いを噛み殺しながら言うと、マリンチェは少しの間迷った後すとん、とその場に腰を下ろした。不貞腐れたかのような顔で地面を睨みつけている。

「不服か」

「別に……ただ、納得いかないだけ。だって貴方は、貴方の神に仕えるものなのでしょう?」

「ああ。言っていなかったな。やめたんだ」

「……はっ?」

 頓狂な声をあげてマリンチェがこちらをみた。その様がおかしくて笑いがこみ上げてきたが、さすがにここで笑うと気を悪くさせるだけだと思ったのでなんとかアギラールはこらえた。

「な、何でよ」

「耐えられなかった」

 静かに微笑む。

「お前が好きなんだ」

 ――意外と判るものなんだな、とアギラールは胸中で呟いた。最初の頃は褐色の肌を持つマリンチェの顔色など判断つけられなかったが、今は判る。顔に血がのぼっている。照れているのだろう。

「私の行為は神への……両親への裏切りだろう。だがそうと判っていても、気付かないふりをし続けてはいられなかった。オルメード神父とも沢山話しをしたが……許してくださるだろうと。我々の神はそういったことさえも、お許しになられるんだ」

 ふと、マリンチェの前髪が先ほどの風で乱れているのに気が付いた。手を伸ばし、整えてやる。

「私は裏切り者だ、マリンチェ。判っていて、それでも言いたいんだ。マリンチェ。私はお前が好きだ。お前と生きていたい。この後、テノチティトランがどう動いていったとしても。――お前とともにいたいんだ」

 戸惑いすぎてなのか、もはや泣きそうになっているマリンチェの頭を軽く撫でた。

「返事を急いでいるわけじゃない。行く前に言っておきたかっただけだ。――考えておいてくれ」



 翌朝早く、ナルバエスを迎え撃つための隊は出発した。エスパニャの兵力はわずか八十。だが、シコテンカトル率いるトラスカラ兵が多数従った。モクテスマからも援軍の申し出はあったが、コルテスは内乱が起きることを忌避して辞退を申し出た。先に行かせたオルメード神父、ベラクルスのアロンソ、そしてあちらこちらに放っていた偵察隊もまた、逐一報告をもってきた。ベラクルスでは、オルメード神父がナルバエスにコルテス軍へと下るように説得を始めたという。驚いたことに、ゲバラ神父もそれに乗ったという。目の前に積まれた金に、心が揺らいだと見えた。

「その程度だ。心理戦に出るぞ。あちらの兵力を根こそぎ寝返らせろ」

「裏切らせろ、と?」

「ああ。裏切りは俺たちの最も得意とするところじゃないか。なあ?」

 コルテスがにやりと笑った。

 モクテスマから押収した金が思いもかけない形で役に立った。コルテスは巧みに動いた。あるときはナルバエスの使者をトラスカラ兵の手で投獄し、一旦絶望の淵に追いやってからエスパニャの兵に救い出させる茶番をしてみせた。もちろん、出すときには金を握らせた。直接ナルバエス側に金を送ることもした。もちろん邪魔だとナルバエスは切り捨てただろうが、兵はその大量の金を目にしただろう。それが目的だった。数度の書簡や金のやり取りの後、ナルバエス側に脱走者が出始めた。エスパニャ軍の口が立つものを間諜として送り込んだ。ベラクルスからはアロンソの命をうけたサンドバルが合流した。そうして三週間もする頃には、コルテス軍は四百にちかい数にまで膨れ上がった。

「パンフィロ・デ・ナルバエスはベラスケス総督に対して従順で、絶対の信頼を受けているようです。ただ、今までの立ち回りを見てもお判りになられるとおり、若輩者です。人を扱う立場にあるとは思えません。口も回りませんが、何より事態を甘く見るところがあるようです」

 一時的にベラクルスを離れたアロンソ・ヘルナンデス・プエルトカレーロが久しぶりに合流した時、そう言った情報をもたらした。彼は独自に調査隊を動かしたという。

「ふむ。状況は悪くない、と?」

「問題ないでしょうね。まぁ、貴方様のキューバでの立場は悪くなるかもしれませんが」

「いまさらだ」

 コルテスは笑った。

「それで。お前が今ベラクルスを離れているということは、そのナルバエスはそこにはいないということだな?」

「仰るとおりです。彼も自軍からの脱走者が増えすぎて焦りを見せ始めたようです。センポアランを占拠しようと動いたようです」

 コルテスは呆れ返った。

「よりによってセンポアランだと? 間の抜けたやつだな」

「全くもって。センポアラン側からの使者は逐一こちらに来ておりました。誘い込ませ、頃合いを見て女子供はセンポアランを離れるよう通達を出してあります」

 アギラールは自然と顔が歪むのを感じた。コルテスも苦笑している。

「チョルーラの逆か」

「――悟られなければ良いのですが」

 短く息を吐く。立場がどうであれ、あんな惨事は見たいとは思わない。コルテスも短く頷いた。作戦はそのまま実行されることとなった。センポアランからの使者を使い、細かい作戦と合図も決める。夜襲になった。息を潜め、コルテス軍はセンポアランを包囲した。女子供が全て無事に逃げ、戦士以外は街中にいなくなったという報せが入った時、一同は胸を撫で下ろした。

 雨が降り始めた。雨が降るとこの辺りは一層土の香りが強くなった。

 ――雨の夜が始まった。

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