第2話


 儀式は滞りなく進もうとしていた。人々は続々と広場に集まってくる。その波に紛れて、マリナリ達一同も歩みを進めた。一同の中でも飛びぬけて背の高いペドロはどうしても目立ったが、背中を丸めてやり過ごしているようだった。

 落ち着かなかった。落ち着けるわけもなかった。ただ無言で、アギラール達は広場の真ん中で立ち尽くしている。やがて、贄の乗った輿が運ばれてくると、人々は一斉に叫び声を上げた。ティルパが、ぐっと強い力でマリナリの腕を握った。

「マリ……ナリ」

 ――トゥクスアウラだった。衣装を着せられ、身形も整えられていた。落ち着いているようだったが、一瞬視線が交わったとき、その瞳が揺れたようにマリナリには思えた。トゥクスアウラが、そして高位神官たちが揃って神殿へとあがっていく。高位神官が、手を空へ掲げた。口上を述べ始める。

 その時だった。

「――」

 アギラールの短い言葉とともに、アロンソとペドロが動いた。走り出し、剣を抜く。群集が割れた。その間を、堂々とした足取りでコルテスが進みだした。アギラールがその横につく。驚いて立ちすくむティルパを置き、マリナリは一瞬出遅れたがあわてて追いすがった。問いかけたい言葉はいくつもあったが、声にならなかった。

 人垣の中を男たちは進んでいく。両脇にアロンソとペドロを、すぐ傍らにはアギラールを従え、コルテスは神殿を登り始めた。階段状になっている神殿は、神官と生贄しか上がれない。上がってはならない。そんなマリナリたちメヒコの民にとっては当たり前の事を、あっさりと覆していく。

 マリナリは上れなかった。足が竦んでしまい、ついていけなかった。ちらりと、アギラールが振り返った。侮蔑のような視線に耐え切れず、思わず下を向いてしまう。だが、すぐに思い直した。何かが起きようとしている。そしてそれはたぶん、今この両の眼で見届けなければ生涯後悔することになる。

 それは不思議と、確信に似た予感だった。

 マリナリが顔を上げると同時に、コルテスたちは頂上についた。突然の出来事に、神官たちが声を荒らげる。

 剣が翻った。

 アロンソとペドロ。二人の剣が舞うように動いたと同時に、弾かれるように神官たちが転がった。そのまま、神殿半ばまで転がり落ちてくる。派手に血は流れていたが、皆息はしていた。生きているようだ。

 呆然とする、トゥクスアウラの姿が見えた。

 アギラールが頷く。コルテスが、通常であれば生贄が横たえられる台の上に靴のまま立った。

 マリナリの背後でざわめきが上がった。

 メヒコのものではないとすぐに判る顔立ち。白い顔。そして何より、その身にまとった大物めいた気配。それらから連想される答えは、メヒコの民はひとつしか知らなかった。

 ――東の地より、帰りしもの。

「静まり、聴け!」

 アギラールが声を張り上げた。ざわめきが殺されていく。静まり返った広場で、傾き色をつけ始めた空を背に、アギラールはコルテスの傍で言葉を紡いだ。

「我々はこの方に導かれ、東の地より参った。この方は、この儀式に心を痛めておられる。人の血が無駄に流され、悲しむものが後を絶えないこの儀式に、意味などはない」

 朗々とした声に、コルテスが頷いた。アギラールが振り返る。

「――」

 コルテスが、あの独特な発音が混じる言葉で何かを言った。言葉の意味は理解できない。しかし、それは些細なことだった。その低く通る声は、揺るぎのない力を持っていた。アギラールが、その言葉をマヤ語に訳した。

「私はこの地にやってきた。それが何を意味するか、賢明なタバスコの民なら判るであろう」

 水を打ったように静まり返っていた広場に、ポツリ、ポツリと雨音のような呟きが漏れ始めた。やがてそれは大雨になり、嵐となって広場に巻き起こった。

「ケツァルコアトル!」

「ケツァルコアトルだ!」

「予言は本当だったんだ! 帰ってこられたのだ!」

「再びこの地を統治するために」

「神だ」

「神だ」

「神だ!」

 それは一種の興奮状態であった。その中で、さらに煽るようにコルテスとアギラールが声を張り上げる。

「夜の神には屈しない。太陽は永遠に輝き続ける。恐れることはない。我々は賢明な民の友である。友は守ろう!」

 歓声の中、アギラールが動いた。傍で立ち尽くしていたトゥクスアウラを促す。トゥクスアウラは夢現といった体ではあったが、確かに神殿を下り始めた。

 神官以外が上ると、生きては帰れないといわれていた神殿を。

 一歩、一歩。ゆっくりと、しかし確実に下りていく。そして、マリナリの前に立った。最後の一段を、下りた。

 歓声がいっそう、沸きあがった。

「マリナリ……」

 友の声に、マリナリはただ涙した。何が起きたのか、理解は出来なかった。ただ判るのは、この一連の出来事がとても大変なものであったということと、そして何より、友トゥクスアウラの命が救われたということだった。



 夜が来た。

 トゥクスアウラは主人の家に帰り、マリナリとティルパは再び船へと戻っていた。明日の朝には出航し、サン・フアン・デ・ウルア島に向かうという。船の中は出航に向けた準備で慌しかった。

 アロンソは相変わらず、穏やかな様子でのんびりと剣を磨いていた。マリナリに与えられた部屋といえば彼の部屋でしかなかったので、仕方なしにその様子をただ見ていた。

 アロンソはマヤ語は話せない。会話すら出来ないままに、時間だけが過ぎていく。その状態に苛立ちを覚えるマリナリとは違い、アロンソは特に苦痛にも感じていないようだ。少しは落ち着いていろ、とアギラールに言われたばかりだったので試みてみたのだが、どうにもマリナリには耐えられなかった。

「外に、出てもいいかしら」

 マヤ語でアロンソに訊ねてみる。アロンソは少し首を傾げてから、扉を指差した。マリナリが頷くとアロンソもまた頷き返した。手を扉へ向ける。何とか通じたことと、許可を得たことにほっとして、マリナリは外へ出た。廊下にはところどころ、灯りが設けられていた。その光を頼りに、船の中心部へ向かう。すぐに、見知った顔を見つけた。

「アギラール」

「……ドニャ・マリーナ。ひと時もじっとしていられないのか」

「失礼ね。ちゃんと許可は得たもの」

 アギラールが嘆息した。やや困ったような顔をした後、歩き出す。「ついて来い」とアギラールは言った。大人しくついていくと、そこは船内にある食堂のようだった。料理人と思しき者が一人いた。アギラールは彼に何かを言い、自身は酒瓶と杯を持ってきた。

「葡萄酒だ。飲むか」

「結構よ」

 アギラールは断られたことは特に気にしないようだった。葡萄酒を杯にあけ、飲む。正面に座ったマリナリの鼻にも、甘さと酸味の混じった香りが届いた。少しすると、先ほどの料理人が小皿を持ってきた。青菜と共に炒められた魚介類のようだった。ぷん、といい匂いが漂っている。

「食べてみろ」

 促されて、マリナリは恐る恐る口にした。思わず、目を瞬く。油が多く使われているようではあったが、不思議とくどくはない。油と魚介が溶け合った甘みが口内をくすぐって消える。

「美味いだろう。エスパニャの味だ」

 肯定するのも癪な気がして、マリナリは押し黙った。落ちかけた沈黙を破るように、口を開く。

「……感謝するわ。トゥクスアウラのこと」

「明日には出航する。別れはいいのか」

「いらないわ。彼は生きている」

 死ななければ、別れを告げる必要もない。奴隷としてのこだわりなど、アギラールには理解できなかったであろう。マリンチェはその空色の瞳を見上げた。この船内にいるエスパニャの民とやらの中でも、アギラールは美しいようにマリナリには思えた。線が細く、やや女性的な顔立ちではあるが、弱々しくは決してない。何より、その陽色の髪と空色の目はとても鮮やかだった。

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