第5話

「気になるのかい?」

 ベルナル・ディアスに問われ、アギラールは無言で水を呷った。少し迷ってから、口を開いた。

「そちらはどうなのです。国王に書簡は送り続けていらっしゃるのでしょう」

「おや、その話になるかい? まあいいけどね。そうだね、続けてはいる。コルテス殿はお話しにならなかったかい?」

「コルテス殿はどうも、そのあたりの話を私にしたがらない」

「おまえさん硬いからね。あの方がなされたことに嫌悪感を示しそうだ」

 くつくつと低く笑われる。

「たしかにあの方はベラスケス提督を裏切ってここに来ている。それは国王のお許しを得ていないのと同様だろうさ。だが、わしは支持しているんだ」

「何故です」

「覚悟がおありになる」

 ベルナル・ディアスは深く笑んだ。

「わしはゴルドバ殿率いる第一次探検隊の頃からここに訪れている。グリハルバ殿のときもだ。だがお二方とも肝心なときの指示は国王待ちでしかなかった。上に立つものとしての指示を出せなんだ。それがどうだ、コルテス殿はそれが出来る。自分で決断し、自分で責を負い、自分で進む。それが出来るものは後世に名をお残しになる器だ」

 ベルナル・ディアスは綴り続けている記録の紙束をそっと掲げてみせた。

「わしはそれを、お伝えしたいと思う。それがわしの望みさ」

 望み、という言葉が耳に痛かった。

「皆、望みをお持ちのようだ」

「そりゃそうだ。あのマリンチェは朝を確かめると言っているのだったか? コルテス殿はまぁ、名誉と金、女か。知らないものを知りたいという望みもおありだろう。アロンソはそのコルテス殿を守り通したいという望みで来たと言っていたな。オルメード神父は言うまでもないが宣教。ペドロは金だ」

「……金、ですか」

「黄金帝国。グリハルバ殿がそう報せを持ってきたからな。なんだ不満か。まさかおまえさん、金を求めることが低俗だとでも思ってるか?」

「そういうわけでは」

「顔に出とる」

 言われ、口ごもった。ベルナル・ディアスは笑った。

「金は大事だぞ、アギラール殿。おまえさんが知らぬとも思わぬがな」

「……ええ」

「ペドロの家は一度没落した貴族だ。あいつは家の復興を願い続けてる。あれもまた、覚悟のある人物だ。上に立つ器とは思えんが、いずれ功績を叩きだすかもしれん。そのために金がいる。悪いことじゃあない。なあ、アギラール殿」

「はい」

「おまえさんの望みはなんだ?」



 クイトラルピトックに呼ばれ、マリンチェは外に出た。身を切るような風が吹き付けてくる。凍える白い息で指先を温めるが、いくらも効果はなかった。

「結局、テノチティトランへ貴方方を入れることと相成りましたな」

「ええ。貴方とも随分長い付き合いになりましたけど」

 少し皮肉に言ってみると、クイトラルピトックは苦笑して空を見上げた。つられて目をやると、刺さりそうなほど細い月が見えた。

「訊いてもいいかしら」

「何かな」

「貴方はモクテスマの部下ではないのでしょう? サン・フアン・デ・ウルア辺りの首長と最初に言っていたわね」

「いかにも」

「どうして、こんな所まで来ているの? モクテスマにべったりじゃない。テウディレ殿は彼の部下のようだけれど」

「――君はモクテスマ殿をどうお思いで? ここまで来る間に噂ならいくらでもお聞きになられただろう」

 マリンチェは思わず鼻を鳴らしていた。

「嫌いよ」

「端的なお答えだ」

 くすりと、クイトラルピトックは笑った。

「私もあまり好いてはおらぬ」

「え?」

「大きく異る文化が関わりあうとろくなことはないのだよ、マリンチェ殿。私の生まれた街はトルテカ国という、アステカより随分昔に栄えた国の文化が残る古い街だった。しかしアステカの〈花の戦争〉によって征服され、文化は失われてしまった。今その地には街はない。街は居場所を移した。私はそこの首長として任命されたのだ」

「それなら」

 マリンチェよりずっと、モクテスマを――アステカを憎んでいてもいいはずだ。そう言いかけたが、マリンチェは口を閉ざした。クイトラルピトックが笑っていたからだ。

「アステカの軍は世界一だろう。だが、貴方方〈白い顔〉の一団は神でもあられるとお言いだ。私は正直なところ半信半疑ではあるが、それを踏まえてなお、勝敗がどちらに転ぶかは判らぬ」

「勝敗ってそんな。私たちはアステカを滅ぼしに行くわけではないわ。あくまでコルテスは、交易を持ちたいと言っているだけよ」

「どうかな。それほど簡単な話だろうか。私には今のアステカがかつての私の故郷に見え、貴方方がモクテスマ殿にさえ見えるのだよ」

 マリンチェは唇を噛んだ。どういったところで、チョルーラの一件がある限り言葉は空回りするだろう。

「失う辛さは知っている。だが、失わせる側もまた、辛さと無縁だとは思わぬのだ。マリンチェ殿」

 クイトラルピトックが射抜くような瞳でマリンチェを見据えた。それは頭上にかかる月と同じ鋭さを宿しているようにマリンチェには思えた。

「君は今の君自身の選択を後悔はしておらぬか」

「――ええ。クイトラルピトック殿。悔やみません」

 風が吹いた。聖山から首都テノチティトランへ吹き降ろす風だ。だが風に言葉はさらわれない。

「なら、いい。君が信じた道を歩みなさい」



 テスココ湖の南端の街につくと、エスパニャ軍はそこから湖に築かれた堤道を進んだ。そしてある時ふいに、視界が開けた。

 エスパニャ軍の中にざわめきが広がった。コルテスが、ほう、と唸るように漏らした。

「これはなかなか、壮観な眺めだ」

 眼の前に広がった景色は確かに壮観だっただろう。北に大きく広がるテスココ湖は陽射しを受けて煌めき、秋の澄んだ空色をそのまま映し込んでいる。湖の周りには幾つもの立派な街が見えた。それらの街に見える麗美な建物はその姿を湖の中にさえも映し込んで聳え立っている。そして真っ直ぐ北に伸びる道は湖の中央に座する、一際大きな街につながっていた。

 空の青と、それが映った湖の青。さながら街は青の中に忽然と浮かんでいるようだった。

 懐かしさに、マリンチェは目を細めた。随分と昔、高揚した気持ちでこの堤道を渡ったことを思い出す。あの時は一辺境の首長の娘として、憧れだけを抱きやってきた。今は、違う。立場も、心意気もだ。

「マリンチェ」

 アギラールが声をかけてきた。見上げると、少し戸惑ったような表情がそこにあった。

「大丈夫か」

「何が。大丈夫よ」

「ならいいんだが」

 先日のチョルーラの一件以降、アギラールはこうだった。心配症なのは前からだとは思うが、更に磨きがかかっているようにさえ思う。ただ、悪い気はしなかった。あの時、エスパニャ兵の剣から、そしていつかのゲレロの剣から守ってくれたのもアギラールだ。礼は言えていないが、いつかは伝えなければならないだろう。

 そして何より、あのチョルーラの夜。

 あの赤に染まった夜を思い出し、マリンチェは気付かれないようにそっと手を握りこんだ。見届けなければならないと覚悟を決めて、それでもなお震え続ける指先を握ってくれたのは彼だった。一晩中何も言わず、ずっと隣にいてくれた。

 それはとても、ありがたかった。

「さあ、行こう」

 コルテスの一言に、全軍が湧き上がった。テノチティトラン! テノチティトラン! と掛け声が上がり、同時にそれは黄金帝国! 黄金帝国! の叫びに変わっていった。

 季節は秋。ピュイィ……と、天高く鷲の鳴き声が響いた朝だった。



 一歩、一歩。堤道に掛かる橋を超えていくと、そこはもう華やかなりしアステカの首都テノチティトランだった。水の匂いに、街の賑やかな香りが混じり始める。花が飾られ、木々が並び、美しい神殿や建物が立ち並ぶ。喧騒が耳を震わし、丁寧に舗装された道が規則正しく伸びている。水路には小舟が走り、数多の人が行き交っていた。テノチティトランでは、どこの建物へ行くにも陸路と水路、二つの道から進める。

 首都テノチティトラン。

 その鮮やかさ、賑やかさに全軍感嘆の息を漏らした。

「すさまじいな、これは」

 賞賛とも皮肉ともとれる声をコルテスが漏らす。

 そして、中央市場と大神殿へ続く市の中央の道へ差し掛かった時、迎えは現れた。

 行進だった。ひと目で奴隷ではないと知れた。来ている服や容貌からするに、首長たちだと見えた。ざっと二百ほどの首長たちだった。その後ろから両側にひとりずつ別の首長を従え、一人の男が現れた。

 背は高く、体つきもしっかりとしている。頭につけた色とりどりの羽根飾りは大きく華やかだ。羽織ったマンタの刺繍も細やかで豪奢だった。手にはいくつもの宝石や羽根飾りをつけた盾を、そしてもう片方の手には天へ伸びる槍を携えている。

 きゅっと心臓が縮まる。

 マリンチェは我知らず跪いていた。いくら嫌いだと口では言っても、その姿を見るのは初めてだった。

 それは神と等しきアステカの王――

 モクテスマ二世そのひとだった。

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