第6話


 静かに扉が開かれた。振り返るとアロンソがいた。少し疲れているようだ。目の下に影が見える。マリンチェは広げていた服をしまいながらふと思い立って声をかけてみた。

「おかえりなさい」

 エスパニャ語だ。アロンソが温和な目を見開いた。それから、ああ、と頷く。

「アギラールですか」

 こくん、と頷いてみせる。アギラールに習ったばかりのエスパニャ語だ。小さくアロンソが笑った。身につけていた鎧と剣を外す。

 マリンチェは相変わらずアロンソと同じ部屋だった。奴隷小屋とは違う扱いに、今のところ不満はない。

 日中はアギラールがエスパニャ語を教えてくれるが、部屋にかえるとその相手はアロンソになる。

 アロンソはアギラールと違いマヤ語を話さないが、その分エスパニャ語に浸ることは出来る。もともとマヤ語を習得した時はそうやって覚えたのだから、マリンチェにとってありがたい環境でもあった。

 アロンソが部屋の真ん中で腰を下ろす。

「今日は何をしたの」

「会議と、訓練です」

「アギラールとも?」

「聞いていましたか」

「嫌がっていたわ」

 アロンソが苦笑した。剣を抜き、布で拭き始める。マリンチェはアロンソの傍に寄って首を傾げた。

「何故、あの人に教えるの」

「不思議ですか?」

 アロンソが手を止めた。かすかに揺れる洋燈の中、温和な笑みを浮かべている。

「そうね。彼、戦士じゃないでしょう」

 アロンソが笑って、マリンチェの顔を覗きこんでくる。

「マリンチェ殿。貴女はこれまで、――ことがありますか?」

「ごめんなさい、判らない。私がこれまで、何?」

 聞き取れなかったエスパニャ語に眉を寄せる。アロンソは少し首を傾げてから、ゆっくりと、もう一度繰り返した。

「望む、が、叶わないこと、ありましたか?」

「望むが叶わない……望みどおりにいかないこと?」

 マヤ語で呟いてから、マリンチェは頷いた。

「たくさん、あるわ。皆そうでしょう?」

「ええ。そうでしょうね。だからです」

 アロンソの答えは、マリンチェにはいまいち判らなかった。怪訝な顔をしてしまったのだろう。くすりと、アロンソが笑った。大きな手が、無造作に頭を撫でてくる。

「語学も、そうです。剣も、兵法も、全て。叶わない望みを、少しでも減らすための道具です。自分の道を、自分で拓けるように」

 ゆっくりと。噛んで含めるように告げたアロンソの声が、何故だかくすぐったくて、どこか暖かく響いた。


 ◇


 真夜中。唐突に鳴り響いた大砲の音にアギラールは飛び起きた。造りたての建物に設けられた部屋を出るとすぐ、マリンチェと遭遇した。

「騒動ね」

「ああ」

 彼女は相変わらず、メヒコ風の衣装を自ら繕って着ていた。何度かエスパニャ風の衣装を勧めたことはあるが、どうにも気に食わないらしい。

「アロンソがいないの」

「アロンソ殿?」

彼女と同じ部屋のはずだった。だが、今は探している時ではない。マリンチェと連れ立って、外に走っていく。すぐに何事かは知れた。船着場が騒がしい。丘の上の大砲の周りでも、幾人かが喚いている。

「逃げようとしたらしいな」

 すでに外にいたコルテスが、皮肉じみた笑みを浮かべながら告げた。その一言で状況が読めた。いつぞや話に聞いていた、ベラスケス総督側の人間が決起したというところだろう。船を盗み、この軍から出ようとしたようだ。それに気付いたコルテス側の人間が、大砲をもって報せたということだろう。

「大砲を撃ったのはアロンソなのね」

 マリンチェが丘の上を見上げながら言う。エスパニャ語だ。アギラールだけでなく、コルテスにも聞かせるつもりだったのだろう。

「見えるのか」

「目はいいって言ったでしょ。彼、見張りしていたのね」

 マリンチェはコルテスを見上げる。

「あれは人の空気を読むのがうまい。その上、部下にも慕われているからな。今日何かあると踏んでいたのかもしれん」

 コルテスがゆっくりと頷いた。それからにやり、と笑みを深くする。

「エスパニャ語、随分と聞けるようになったな」

 マリンチェは少しすましたように笑った。そのまま、船着場までたどり着く。コルテスが怒号を上げた。ぞっとするほど鋭い声だが、それが演技で出せる人物であると、アギラールは判っていた。首謀者は二人だったようだ。コルテスの前に引き立てられた。どうも、アロンソの一派が数人、見張っていたようだ。それですぐさま気付けたのだろう。

 陣中にいた他のものも騒ぎを聞きつけてやってきた。コルテスは背後をちらりとだけ見た。すぐに視線を、地面に伏せられている男二人に向ける。そして、剣を抜いた。

「マルコ、ナタニエル。残念だ」

 コルテスは剣を天に掲げた。振り返り、立ち尽くす軍の者たちを見据えて叫ぶ。

「裏切るのなら、命をかけろ。先を見据え、賢明な判断をしろ。お前たちにはそれが出来ると信じている。これは、賢明な判断が出来なかった愚者の末路だ!」

 剣が翻り、血が飛んだ。

 むっと夜気に血の匂いが溢れ出す。思わず顔を逸らした所で、アギラールはマリンチェと目があった。

「――どうした」

 彼女の表情は硬かった。だが、ただ短く首を左右に振るだけだった。

 すぐにアロンソがやってきた。

「貴重な弾薬を許可も取らず使用してしまい、申し訳ありません」

「些末なことだな。報せてくれて助かった」

「気にはなっていたので見張っていたのですが、未然に防げずに申し訳ない」

「いや、いい。裏切り者が愚かな結末を迎えた、それだけに過ぎぬ」

「裏切り者」

 ふと、女の声が混じった。マリンチェだ。アロンソとコルテスの会話に、口を挟んだ。アギラールは顔をしかめた。

「マリンチェ」

「気にするなアギラール。なんだ、気になることでもあるのか」

「――彼らはあなたを信じていたの? そのあなたを裏切ったの?」

「いや。どうだろうな。最初から信頼はされていなかったかもしれぬ」

「それは裏切りになるの? 彼らは彼らなりの正義を貫いただけではなくて?」

「おかしなことを言う女だ」

 コルテスがくつくつと低く笑った。

「確かに奴らは奴らなりの正義を通しただけとも言える。船を盗み、逃げ出すこともだ。だがな、マリンチェ。奴らは正義を持ちながら一度は俺に屈した。判るか?」

 少し言葉が難しかったのか、マリンチェが怪訝な顔をしていた。アギラールは手助けをするように、マヤ語に訳した。マリンチェは頷きながら、それでもエスパニャ語をやめなかった。彼女なりに、自分の口でコルテスと話したいのかもしれなかった。

「一度はあなたの隊についてきた。それは彼らの正義を疑う理由になるということ?」

「そうじゃない。一度は俺に屈し、ついてきた。その後にまた自分の思惑通り動こうというのなら、それはどんな形であれ俺への裏切りであり、自身への裏切りだ。俺はな、マリンチェ。俺自身もまた、別の人間を裏切って今ここにいる」

 ベラクルス総督のことだと、アギラールには理解できた。

「だが、俺は命をかけている。この探索に命をかけて、裏切りを行った。人を裏切るときは命をかけろ。それだけだ」

 マリンチェはそれ以上何も言わなかった。何を考えているのかと問うても、答えもしなかった。ただ、きゅっと唇を真一文字に結ぶだけだった。

 その後のコルテスの判断は、少々乱暴に過ぎるとアギラールは思った。

 十隻あった船を全て、沈めたのだ。

 ただし、帆や金具など、造船に必要なものは保管していた。完全に本国に戻る手を失ったわけではない。だが、コルテスの指示がないと船は造れないだろうし、造船にしても時間は要する。要するに彼は、内部に対して宣言したのだ。後ろ盾はない。退路は断った。道は前にこそある、と。

 市議長であるアロンソを筆頭とした市議会員、そして、守備隊としてアロンソを慕っているサンドバルという青年を隊長に、百五十人。それらをベラクルス市に残して、夏のある日出発が決まった。

 エスパニャの隊は三百人。そして、センポアランからも人は来た。貴族が四十人、戦士が百三十人、そして荷担ぎ人としての奴隷が千人。思いもかけず、大軍となった。

「では、頼むぞアロンソ。ここは拠点となる」

「命に変えてもお守りいたします」

「それは困る。生きていてくれ」

 コルテスの呵々とした笑いに、アロンソも微笑んだ。その笑みがアギラールにも向けられた。

「どうかそちらも。宜しくお願いしますね」

 上手く答えられなかった。だが、言葉が少し重かった。

 マリンチェは短く手を振った。

「お元気で」

「ええ。あなたも」

 彼女は暫く前から何か考えているようだった。だが、今はそれを押し隠しているかのようだった。

 顔を上げた。風が吹き抜けていく。

 アギラールに先はまだ、見えなかった。  

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