Chapter4. 〈白い顔〉の戦士

第1話

 トラスカラという街を目指すことを選んだのは、コルテスの一言によってだった。

 トラスカラ街はセンポアラン街と同じで、モクテスマの治めるアステカ帝国からは独立していた。だが決定的に違うことがひとつ合った。センポアランよりずっと大きな力を持っていたのだ。

 その噂はマリンチェも聞いていたし、そこと協定を結べるのであればいいだろうと告げたのは確かだった。だが、そのことを今マリンチェは後悔していた。

「寒いわ」

 ぼそりと呟いた言葉すら凍てつきそうだった。隣で呼応するように、あの偏屈なペドロがくちっ、と顔に似合わず可愛らしいくしゃみをした。

 ベラクルス市を出て海岸地方を離れた。行く先々の街でも、マリンチェが考えるよりずっとこの一軍は歓迎された。その度に、故郷を思い出してたまらなかった。そこまで、人々はアステカ帝国を――モクテスマ二世を恨んでいるのだろうか。

「それにしても随分と厳しい環境だ」

 不満たっぷりに、ペドロが背を丸めながら呟いた。街から街へ渡り、そして峰を超え、坂を登り、トラスカラ街が近くなるに連れて気候は厳しくなった。景色は白く色づき、足元は滑りやすくなった。何より、高い山から吹き付けてくる風が酷く冷たかった。ペドロ自慢の馬も凍えているように思えた。騎馬隊は今はもう機能していない。歩兵も荷担ぎ人も、歩くだけで精一杯だ。

「大丈夫かマリンチェ。随分と足が悪いが」

「平気よ」

 声をかけてくるアギラールに頷きを返す。ふと、コルテスが振り返った。

「今日はここらで野営にするか」

「もうですか。まだ陽は随分高いですが」

 コルテスはまたいつもの、あのにやりとした笑みを見せた。

「どうも、良くない風が吹く気がしてな」

 大きく火を焚き、思い思いに休息をとった。トルティヤを用意し、果実や野菜も食べた。いつかの料理人はエスパニャ風のものも用意してくれた。食糧は訪ねる街々で献上されたので、今のところ不足はない。センポアランの民も恐る恐るエスパニャ風のものを食していた。風呂も用意された。エスパニャ様式の湯を張ったもの、メヒコ風の蒸し風呂と二通り用意された。マリンチェもディアナと共に湯浴みをした。そしてこの休息は思った以上に隊に良い影響を与えた。ずっとどことなくぎこちなかったセンポアランの戦士たちと、エスパニャの兵士たちを打ち解けさせたのだ。センポアランの戦士はエスパニャ語もナワトル語も、マヤ語も話せない。エスパニャ側はトトナカ語を話せない。言語がかすりもしない双方だったが、食事と風呂と、あと少々の酒でなんとなく打ち解けることは出来たようだった。ここに来るまでは強行軍だったため、その余裕すらなかったのだ。

 野営と言うよりは少々宴会の様子を呈してきたが、コルテスは止めなかった。ベルナル・ディアスはその様子を熱心に書き留めていた。そして皆が寝静まった夜明け前、ふと、マリンチェは目を覚ました。

 敷布の上に身を起こし、軽く頭を振る。嫌な夢を見た。天蓋の中にも熱器具は持ち込んでいたが、さすがにこの時間だと吐く息も白い。

 季節的には夏のはずなのに、随分と高地にいるのだ。マリンチェは毛布を引きずり外へ出た。澄んだ空には、息詰まるような星空が広がっている。

「今更あんな夢をみるなんてね」

 思わず漏れた呟きが、白い吐息とともに霞んで消える。マリンチェは自虐的に微笑んだ。もう随分昔になったはずなのに、未だに時折、こうして夢に見る。

 ふと、辺りが随分と散らかり放題なのが目についた。昨晩の様子では仕方がないことではあろうが、なんとなく放っては置けなかった。何より、今のマリンチェにとって雑用は有りがたかった。手持ち無沙汰なときにこの気持ちでは、ただ気持ちだけが膨らむ一方だからだ。

 適当に片付け始めた頃、背後に気配が生まれた。またアギラールだろうかと呆れながら振り向いたが、そこにいたのは別の人物だった。

「コルテス」

「よう。随分早起きだな。ばばあか」

 エスパニャ語で告げられ、思わず笑ってしまった。

「だったら貴方も、えーとご老人ね」

「じじい、だな。男の老人を揶揄する言い方だ。アギラールはこんな程度も教えてねぇのな」

「……じじい。あの人は、エスパニャ語の時は随分紳士的な物言いをするからね」

「なんだ。マヤ語だと違うのか」

「学んだ環境かしら? 結構きつい物言いに聞こえるわよ」

「ほう」

 コルテスは楽しそうに頷いた。マリンチェの片付けを手伝うように辺のゴミを拾い出したが、マリンチェはその格好に違和感を覚えざるを得なかった。

「戦装備ね?」

「判るか」

「重そうだもの」

「ごめーいとーう」

 コルテスはアステカの兵人は違うが、重そうな鎧を着ていた。そのまま、まだ暗い空へと目を向ける。

「良くない風が吹いているからな」

「急襲があるとでも?」

「さあな。だが、俺は鼻がいいんでな。――ところで」

 と、コルテスは振り返って何かを放り投げてきた。受け取ると、それは果実だった。いつの間にか、コルテス本人もかじっている。素直に受け取ってマリンチェもそっと頬張った。甘酸っぱい果汁が口を満たしていく。

「何の夢を見た?」

「悪趣味。聞いていたの」

「聞こえたんだ。随分でかい独り言だったもんでな」

 どさりと火の側に腰を下ろしたコルテスから少し距離をおいて、マリンチェは手近な岩に腰をかけた。

「聞いてどうするの」

「どうもしないさ」

「どうもしない?」

「する必要があるか? 気になったから聞く、それの何が不満だ? お前だってそうだろう」

 コルテスが、すっと太く骨ばった指を空へ向けた。

「あの馬鹿な儀式がなくても朝が来るかどうか知りたい。そのためについてきていると、アギラールは言っていたぞ」

「――その通りよ。あの日は、たしかに朝が来た。でもテノチティトランでモクテスマが儀式を行なっていたからかもしれない。ウィツィロポチトリが寛大な心を見せてくださっただけかもしれない。その疑問を拭いたい。本当に何もなくても朝が来るのかが知りたい」

「知ってどうする」

「……え?」

 思わず、マリンチェは答えに窮した。絶えず燃えていた焚き火が、ぱちっと爆ぜた。

「知ってどうする。ほらこんなものは馬鹿げていたとモクテスマに抗議するか? メヒコ中に知らせて走り回るのか? それともお前が政権をとるか? 万が一俺らが間違っていたとしたら、俺らに刃でも向けるか?」

「それは……」

「判らんだろう?」

 ひょい、とコルテスは肩をすくめた。どこか達観したような太い笑みは、いつものような皮肉じみた色は浮かんでいなかった。

「知りたい、ってぇのはただの好奇心だ。好奇心は満たされなければ餓え続けた獣みたいにくすぶり続ける厄介なやつだが、ま、一個人で抑えられるもんでもない。俺も、俺をここに寄越した奴らも同じさ。この未知の大陸にどれほどの金があるのか。どんな輩が生きているのか。ただ、知りたい。それだけさ。俺がお前の独り言の意味を知りたいといったのも、その程度の意味だ。悪いか?」

 しれっと大それたことを言うものだ、とマリンチェは軽く呆れた。だが同時に、心の何処かが軽くなるのも判った。

「――古い夢よ。昔の夢。父が亡くなった後のね」

「ほう?」

「父が亡くなった後、母が再婚したのよ。弟も生まれた。そしたら、私のことが厄介になったのね。ちょうど近くの奴隷の子が亡くなった時期だったから、その子の遺体をつかってマリナリの葬儀があげられちゃったの」

 ふっと、コルテスが苦笑した。

「それで代わりにお前が奴隷になったか。なるほど。アギラールが口にしていた疑問が解けたな」

「あの人そんなことまで話してたの? 随分おしゃべりね」

「許せ。上官に報告するのは、隊員の勤めだろう。それで、その頃の夢を見たと」

「そ。追いかけても追いかけても、お父様とお母様の背中が遠ざかる一方なの。苦しくなって、そこで目が覚める馬鹿げた夢」

「疲れる夢だな。――そう思うだろ?」

 ふと、コルテスが声を投げた。慌てて振り向くと、天幕の傍に気まずそうに立ち尽くしているアギラールの姿があった。思わずマリンチェは顔をしかめた。マヤ語で、毒づく。

「最低」

「ちが……そういうつもりではない」

「盗み聞きは盗人と同じよ」

「そうじゃないと言っているだろう! いや、聞いていたのはすまなかったが」

「聞いていたんじゃない」

「いや、だから……!」

 狼狽して弁解を続けようとするアギラールの声を、コルテスの笑い声が遮った。ぱんっと、手を打ち、コルテスが立ち上がる。

「戯れはお預けだ。始まるぞ」

 その頃になってようやく、マリンチェも気が付いた。辺りに立ち込める張り詰めた空気を。

「――囲まれている。戦だ」

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