Chapter5. チョルーラの惨劇
第1話
宣告通り、トラスカラ全軍はセンポアラン、エスパニャ共同軍に下った。トラスカラの街はこの一軍を歓迎し、街へと迎え入れたのだ。トラスカラの指揮官、シコテンカトルはゲレロのことを勇敢な戦士と語った。
「エスパニャという遠き地にある国に生まれた、しかし立派なマヤの戦士でした。我々は迷っていました。エスパニャに味方をするか、あるいは長年の敵であるアステカにつくべきか。そこに彼が現れ、エスパニャはこの地の神を蔑ろにするだろうと言ったのです」
シコテンカトルは静かに続けた。
「我らはしかし、アステカにつくことに抵抗があった。それをみて彼は言ったのです。ならば第三の勢力となればよいと。そのための手助けをしようと。マヤの人間でありながらこんなところまで来て、見返りもなくそういったのです。我らは彼の心意気を呑むことにしました。そして彼は貴方方と戦い、見事に散った」
「それで何故貴殿らはこちらにつくことをお決めになった」
コルテスの言葉を告げたマリンチェを、シコテンカトルは正面から見つめた。
「彼は見事でした。彼はマヤの戦士でしたが、魂は生まれの地エスパニャで育まれたものでしょう。己の信念のため、まっすぐに生きて散った。その見事さはアステカにはありません。それはエスパニャの魂でしょう。我らはエスパニャの魂を、信じたい」
神は信じる限り己の中に存在し、他者に蔑ろになどされませんからね、と、シコテンカトルは続けて笑った。マリンチェは何も言えず、ただ視線を外す他なかった。
二十日ほど、トラスカラで全軍は英気を養った。山間にある街だったが街の中は開けていてエスパニャ軍のものですら驚きを隠さなかった。センポアランよりもずっと広く整えられている街だった。テノチティトランに匹敵するほどの美しさだと、マリンチェは思った。
トラスカラにて幾度も軍事会議が行われた。コルテスはコルテスで、書簡を認め、本国へと送っているという。今後の立ち回りやセンポアラン軍の扱いなどを話し合った結果、このあとはチョルーラという街を経由してテノチティトランに向かうこととなった。センポアラン軍はトトナカ語がどうしても壁となっている。数人の先鋭を除いてここで一旦センポアランに戻ることとなった。トラスカラがそれ以上の戦力を出してくれるのとともに、足場としてセンポアランを確保しておきたいというコルテスの見解のためだった。事実、アロンソを残してきたベラクルスに、幾度がテノチティトランからの使者が来ているという報せが入っていた。今はまだ、近づかないで欲しいというあくまで願いを告げに来ているだけだが、いつ強硬手段に出るかは判らない。その時にすぐに味方として動ける軍が欲しかったのだ。センポアランはベラクルスに程近く、条件を満たしていた。
そう言った様々な話しあい以外の時、アギラールは言葉少なになっていた。彼の中で思うところもあるのだろう。マリンチェは最近よく、街の中心に仕立てあげられたキリストの祭壇の前で祈る彼の姿を見かけている。時々は、オルメード神父と何か話し込んでもいた。
「あれは聖職者だからな」
コルテスは苦笑交じりに言った。
「神に仕える身で友を殺めたことを懺悔し続けてるのかもしれんな」
「そう」
「ま、あるいは別の方向からの懺悔かもしれんが」
「なに?」
「さあな?」
にやりと笑われ、そこで話は切り上げられた。
ここからチョルーラへの道は、今までとまた違った。少しずつ自然の険しさは減っていき、また、土地に通じたトラスカラ軍が行き先を提示してくれたので随分と行軍は楽になった。シコテンカトルは、我らは友としてついていくまでです、と言う。友、という言葉が今は何故か苦く聞こえた。
チョルーラはトラスカラと違い、アステカと同盟を結んだ国だという。トラスカラほど大きくも強くもない。しかしながら、古い文化とともにあるとても古い土地だ。ケツァルコアトル信仰も残っているという話をシコテンカトルはした。避けてもいいのでは、という意見もあったが、コルテスはそれを却下した。背後に少しでも傷を抱えていたくなかったのだろう。
「ケツァルコアトル信仰があるのならば、コルテス殿、あなたの率いるこの軍を受け入れる可能性はあります」
「だろうな。しかし、どう出るかは行ってみんと判らん。おい、マリンチェ」
「判ってるわ」
短く、マリンチェは答えた。すっと臍のあたりが冷えるのを感じたが、それも受け入れた。
脳裏に浮かぶのはゲレロと、それを殺めたアギラールの生きざまだった。そして、自らも裏切りを働いていると告げながら、裏切るのなら命を懸けろと言い放ったコルテスもだ。
「――私には私のやるべき役目がある」
チョルーラへの道のりの中、それでも行くところの街は歓迎の意志を示す者が多くいた。客人も度々訪れるようになった。テウディレとクイトラルピトックのモクテスマからの使者だった。彼らは度々訪れてはその度に近付かないで頂きたいという宣告と、捧げ物を持ってきた。モクテスマは迷っている。マリンチェにはそうとしか感じられなかった。
やがてチョルーラ域内に入った所で、チョルーラの使者と名乗るものが現れた。
「ご警戒を」
会談が終わった後、控えていたシコテンカトルが囁いた。
「チョルーラは正直、我らでも何を考え動いているのか判りかねる時がある。使者として現れはしましたが、友好的だとは思わないほうがいい」
しかしチョルーラに入るのは存外簡単だった。表立った反対はなく迎え入れてくれたのだ。マリンチェは少々拍子抜けしたが、コルテスはシコテンカトルの言い分を忘れていない様子ではあった。
季節はもう秋の只中だった。チョルーラもまた、冬は厳しい。その入口の季節だけあって寒さも厳しくなりつつあった。野営に反対の声も多かったので、街に入れたのはありがたかった。マリンチェ自身もチョルーラの中の家の一つに部屋を与えられ、ゆっくりと体を横たえた。
息を吐き、目を閉じる。疲労感があった。瞼の向こうで見えるのは、入ったばかりのチョルーラの街並みだ。
たしかに古めかしい街ではあった。建物も痛みが激しいところもある。だがそれよりも目を惹いたのは数百に及ぶ三角型神殿だ。メヒコの心臓とも呼ばれる聖山が近いせいもあるのだろう。活火山である聖山ポポカテペトルは、ときおり大きく火を天に向かって吐き出すという。神々の怒りと呼ばれ、それを鎮めるためにチョルーラの人々は天に近い場所へと向かって築いた神殿の上で、神に生贄の心臓を捧げたのだ。その日は神殿の上での儀式は行われていなかったが、街の人の話だとつい十日程前に行われたばかりだという。
その日贄にされた青年は、贄になることを拒んでいたと言った。
生贄は名誉とされている。神と同等の存在と語られるからだ。マリンチェだってそんな事は知っていた。だが同時に本当に生贄と選ばれた時に感じるものが、決して名誉への感謝ではないということも判っている。
結局人は、生きていたいのだ。
生きていたい。生きていてほしい。名誉より何よりただその思いのほうが強い。結局のところその青年もそんな単純な欲のほうが勝ったのだろう。しかし彼は結局、自ら生贄の台の上にのった。聞いた限りでは、神官の渡した飲み物を飲んだ後だというからおそらく何か薬草でも含まれていたのだろう。
マリンチェは悔しかった。たったの十日。その日数の行き違いだけで、青年は散らざるを得なかった。もし十日早くチョルーラに入国していたら、違った未来が彼に待っていたかもしれないのに。
その場合、山の怒りは収まらないかもしれない。だが、ならばこの街を逃げればいいのだ。今のマリンチェはそう思う。そうしてでも、人は生きていてほしい。
まぶたを開ける。手を伸ばす。爪、指先。その先には血が通っている。それは尊いものだ。最も尊い水。それこそが神にふさわしい。けれど、もし、神にそれを捧げなくとも人は生きていてもいいというのなら、話は別だ。聖なる水も心の臓もなくても朝が来るなら、神がお怒りになられないのなら、それは無駄な死だ。マリンチェには望みがあった。テノチティトランに入り、モクテスマと会うのだ。そして、彼の言葉としてアステカ全体で一夜、生贄を禁ずる。その翌朝、日が昇れば――それは、エスパニャ人のいう神々のほうが正しかったということになるのだろう。その朝日が見たい。もし違っていたら夜が明けないかもしれないが、きっと大丈夫だ。何故ならあの日、朝は来たのだから。アギラールは言ったのだから。誰の犠牲がなくとも、陽は平等に昇る、と。
「いらっしゃいますか」
ふと、物思いに耽るマリンチェの耳に声が届いた。扉の向こうだ。身を起こす。
「いらっしゃいますか」
もう一度、声が掛かる。潜めたような女性の声だった。ナワトル語だ。現地民だろうか。
「ええ」
頷くと同時に女性が姿を見せた。頭から布を被っている。ひと目で、マリンチェは彼女が高貴な立場の者だと判った。身にまとう衣装は繕いがとても丁寧だ。細やかな刺繍も入っていて、派手ではないが鮮やかだ。
すっと、彼女が頭からすっぽりと被っていた布を剥いだ。艶やかな黒髪が流れる。顔を見て、マリンチェは目を瞬いた。年の頃はマリンチェと変わらなさそうだ。すっと通った切れ長の目じりが美しい。彼女は薄い唇をふっと歪めた。
「夜分に申し訳ありません。お一人ですね? 異人はいらっしゃいませんね?」
「エスパニャのものも、トラスカラのものもいません。私一人です。貴女は一体?」
怪訝に問いかけるマリンチェの前で、彼女はふっと息を吐いた。その顔に、悲痛な表情が浮かぶ。
「お怪我はございませんか。お体は」
「え……、ええ。問題ないわ。どうして」
「よかった!」
ほっとしたように彼女が笑った。そのまま、細い手でマリンチェの手を握ってきた。
突然の来訪者の反応に、マリンチェは驚くしかない。
「貴女、とても賢そうでお美しいのに、捕らえられているのが悔しかったのです」
「捕らえ――私のこと?」
「ええ。異人の捕虜にされていらっしゃるのでしょう?」
マリンチェは思わず絶句した。笑い飛ばそうかとも思ったが、出来なかった。たしかにそう見えても仕方ないと気付いたからだ。エスパニャの白い肌の者達の中一人、現地の女が傍にいれば、傍から見れば捕虜に見えるのかもしれない。
「私は捕虜じゃないわ」
答える声が硬い。自分でさえそう思ったが、彼女は気にした様子はなかった。手を握ったまま少しだけ寂しそうに微笑む。
「騙されてらっしゃるのですね」
「違うわ」
「いいんです。だって、異人って恐ろしいものなのでしょう? おかしな魔術も使うって、モクテスマ殿もおっしゃってらしたわ」
否定の言葉が出る前に霧散した。突然の名前に驚いたのだ。
「――モクテスマ?」
ここでその名が出るとは思っていなかった。マリンチェは眉を寄せた。
「どういうこと。貴女は一体何者なの」
手を振り払う。嫌な気配が背中を這っていた。
彼女は少しだけ呆けたような幼い顔を見せてから、衣装の裾を払った。
「私はチョルーラ域内のとある街の首長の娘です。申し訳ありませんが、まだどこの街か名乗ることはご勘弁ください」
「――それで、何のようで」
「逃げて頂きたいのです」
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