第2話

 率直な一言に、思わず息を呑んだ。目を瞠る。彼女は切れ長の目を、真っ直ぐにマリンチェに向けていた。

「逃げ……る?」

「ええ。一緒に逃げましょう。捕虜のままでなんていたくないでしょう?」

「――捕虜ではないわ!」

 思わず、声を荒らげていた。はたと気付いて、部屋の戸を見る。人気はない。何とか声を抑えながら、マリンチェは告げた。

「私は、捕虜なんかではないわ。自分の意思で、この隊についている。ここで、通訳をしているのよ」

「本当に?」

 ぞっとするほど、冷ややかな声だった。氷水のように、マリンチェの心に染みてくる。

「嘘だと、思うの」

「貴女はそう思い込まされているだけじゃないのかしら。異人に何を吹き込まれてらっしゃるのか存じませんが、とてもそうは見えませんでしたわ。〈白い顔〉の異人たちに捕らわれていて、皆、おかわいそうにと呟いたくらいだもの」

 チョルーラに入国したときの様子を彼女は見ていたのだろう。

 そうだろう。傍から見れば、そうなのだろう。

 唇を噛む。彼女はそのまま、続けた。

「もし、本当だとしたら。どうして?」

「……どうして、って」

「貴女、メヒコの女でしょう。メヒコの女の誇りは、お捨てになったの?」

「モクテスマに遣えることが、メヒコの女の誇りだとでも?」

「そうじゃないわ。でも、メヒコの女は自らの街を、国を、誇りに生きるものでしょう? どうして異人にいいように使われていらっしゃるの」

 使われているわけではない。そう、言うべきだった。

 しかし何故か、喉に言葉が張り付いたまま、口を吐いて出てきてはくれなかった。

 彼女が、そっとマリンチェの頭を撫でた。そのまま、抱きしめてくる。抱擁に、マリンチェは抗えなかった。

「ごめんなさい。言い争いをしたくて来たわけじゃないんです。ただ、私は悔しかった。貴女を見たとき、思ったの。魂が似ているって」

「魂」

「ええ。惹かれた気がしたんです。それなのに貴女は、捕らわれている。それが悔しくて」

 ふと、マリンチェは微かな振動に気がついた。彼女が泣いている。

 居たたまれない。心がざわついた。

「ここに来たのは独断なの。きっと父にも叱られてしまうわ。でも、放ってなんて置けなかった」

 魂が似ている。彼女の言ったその台詞がマリンチェの心にざわめきを呼んでいた。

 そうだ。ふと、理解する。彼女は同じメヒコの女で、そして、首長の娘だと言った。誇りもある。それは確かに自身と似ているのかもしれない。

「今夜、逃げなさい」

 はっきりとした言葉だった。

「逃げる。何故」

 抱きすくめられたまま、掠れた声で答える。

 彼女もまた、そのままの姿勢で告げた。

「逃げて、私の街までいらっしゃいと言っているのです。その先は、私が父に説得するわ。大丈夫よ。父は私に、甘いんです。心配しないで」

「どうして、今夜なの」

 無碍に断れなかった。彼女が真剣だと、さすがに理解したからだ。だが同時に、背筋を這う悪寒も消えない。

 彼女は抱擁を解いた。

 向き合う。その切れ長の両の眼からは、静かに涙が流れていた。

「生きていて欲しいからよ」

 きな臭い言葉に、マリンチェは我知らず胸元で手を握りこんでいた。嫌な予感がした。

「モクテスマ殿の命が下っているわ。外の街ではすでに動きがあります。明日の朝、この街は戦場になるの」

「……何ですって?」

「女子供はこの夜の間に逃げます。モクテスマ殿は言ってらしたわ。この一団を皆殺しにするか、捕らえてテノチティトランに連れてくるようにと」

(モクテスマの作戦……!?)

 とんでもないことを聞いた。あっさりとチョルーラに入れたのはそんな理由があってのことなのか。

「ねぇ、貴女」

 彼女が、泣きながら笑った。涙に濡れた瞳で、真っ直ぐマリンチェを見た。曇りのない眼だった。

「メヒコの女が虐げられているのを、同じメヒコの女がどうして見逃せると思うの。貴女はただ、騙されてるんだわ。そんな状態のまま、貴女まで戦場で散る必要はない」

 手を握られた。とても強く、熱い手だった。

「いきましょう」



 コルテスはペドロ・デ・アルバラードを伴い夜の街を歩いた。きな臭い匂いはたしかに嗅ぎ取っていた。歓迎の意思を示し、七面鳥やらの捧げ物も持って使者が現れ、そして街中にあっさりと入れてくれたにもかかわらず首長が現れないのだ。何かある、とは思っていた。アギラール辺りを連れてその辺りを歩けば、物珍しさに近づいてきた現地民を捕らえられるかとも考えたのだが、ここのところアギラールはいまいち使いものにならないとコルテスは判断していた。そういう時、ペドロは役に立った。金髪碧眼の物珍しさには数段劣るが、ペドロも背の高さと常に連れ立っている愛馬は目立つだろう。ただしペドロは少々気難しすぎるきらいがある。

「おいペドロ。堂々と不審げな顔をするな」

「はっ、いや。俺はそんな顔はしていないつもりですが」

「してんだよ」

 苦笑し、声を低くした。

「まぁ、気持ちは判るがな。三、といったところか」

「手練ではありません。吐かせますか」

「手っ取り早くていい方法だ」

 コルテスは頷いた。アギラールでなくて正解だったかもしれないと思う。こういう時、あの聖職者はこちらの意図を理解はしても拒否するだろう。その点、現地民を毛嫌いしているペドロは扱い易かった。素早く動き、背後からつけていた男を三人地面に叩きのめした。人影のないところへ連れて行く。ペドロが三人の男の指を切り落とした。低く、エスパニャ語で我らを狙うとはどういうつもりかと問うた。無論、言語は伝わらなかっただろうがそれでもコルテスは止めなかった。こういうのは言葉ではなく伝わるものだ。事実泣き喚くように三人の男たちは口々に叫びだした。その言葉の中のひとつの単語が、耳に障った。

「モクテスマ、と言っているな」

「ええ。裏で糸を引いているのでしょうか。自分たちの意図ではないと言うつもりか」

「だとしたら何があるかはなんとなく読めるが――やっかいだな」

 泣き喚く三人を軽く蹴って、立ち上がらせた。顎で示し、立ち去らせる。

「良いのですか」

「いっときだけだ」

「と、いいますと?」

 コルテスはにやり、と口元を歪めた。

「目には目を、歯には歯を、だ。順序が逆でも許してくれるだろうよ」

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