第3話

 マリンチェはテクイチポの小さな手を握った。

「ごめんなさい。貴女まで巻き添えになってしまうわ」

「いいんです。そういう立場ですから。マリンチェ様もご自身の立場がおありでしょう?」

 にこりとテクイチポが無邪気に笑った。彼女もまた、父モクテスマに連れ立って、宮殿を移ることになった。

「父がしたことを、貴方方がお怒りになられるのは当然だと思うのです」

「――無理矢理だわ。上に立った所で、下々まで確実に目が通せるわけではないもの」

「でも、王というのはそれが出来るもののはずです。出来なければならないものなんです」

 テクイチポは幼いながらも確かに王家の娘だった。

「それよりマリンチェ様。ひとつ伺っていいですか?」

「なんでしょうか」

「朝は来ますか?」

 端的な問いに、マリンチェは一瞬口ごもった。硝子球のようなテクイチポの瞳と向き合うことが少し怖くなり、視線を外す。そのまま、そっと絞りだすように頷いた。

「ええ。来ます」

「なら、嬉しい。もし本当に来るのなら、あんな儀式、もう止められるんですね」

 テクイチポの発言にマリンチェは絶句した。顔を上げる。

「……貴女」

 儀式は、力だ。少なくともそう信じられている。マリンチェはトゥクスアウラの一件があるまでそれを疑うことすらしなかった。王家の人間ならなおさらだろう。だというのに、テクイチポはあっさりと、嬉しいと言ってのけたのだ。

「変ですか? でもあたし、人の血を捧げることも心臓を捧げることも好きじゃないんです」

 まるきり子どもの様子で、ぷっと頬をふくらませる。覚悟があってのことなのか、それとも単なる子どもの我儘としての拒絶なのか、マリンチェには判断出来なかった。それでも、同じように思うメヒコの女がいてくれることが、嬉しかった。

 意識せず、口の端に笑みが昇る。

「大丈夫です、テクイチポ様。朝は、きっと来ますから」



「よく言ってくれた」

 父王アシャヤカトルの宮殿へモクテスマを追いやり、その姿を見届けたコルテスがアギラールに告げた。

「儀式のことでしょうか?」

「それ以外にあるか。あれは俺が言うよりお前のほうが良かったからな」

「何故です?」

「見るからに聖職者の格好したやつのほうが説得力がある」

 上手く使われた、とも言えるだろう。だが別に悪い気はしなかった。マリンチェの顔がふと、浮かぶ。彼女の望みがもうすぐそこにある。

「どうでもいいんだが、アギラール」

「何ですか」

「お前、マリンチェをどうする?」

「――どうする、って」

 唐突な発言に、アギラールは言葉に詰まった。

「どうするもこうするも。それは彼女が決めることでしょう」

「まぁたそれか。糞面倒くさい奴だな」

「うるさいです」

「そういう綺麗事は置いておけつってんだ。どうしたいんだ、お前は」

「私は、別に……」

 そんな事を問われるとも思っていなかった。口ごもったアギラールの耳に、盛大な溜息が届く。顔を上げると、コルテスが耳を穿りながら呆れた顔をしていた。

「なら、俺がマリンチェを貰ってもいいな」

「……は?」

「貰うって言ってるんだよ。お前がどうでもいいなら構わんだろ。んじゃ、そういうことで」

「ちょ……ちょっと、待ってください」

「待つかぼけ」

 暴言と同時にひらりと手を振り、コルテスが出て行く。アギラールは呆気にとられたままその背中を見送るしかなかった。



 その日の夜の食事は完全にエスパニャ風に仕立てられた。コルテスの指示だった。トウモロコシのない食事にマリンチェは多少戸惑いを見せたが、それでも食べてはいた。

 食事があらかたすんだ後、コルテスが切り出した。

「おいマリンチェ。この後湯浴みをしてからで構わんが出かけるぞ」

 思わずアギラールは水を飲んでいた手を止めた。二人を見やる。マリンチェはあからさまに不思議そうな顔をしていた。

「こんな時間に?」

「朝が見たいだろう」

 コルテスの言葉にマリンチェが目を瞠った。こく、と頷く。一瞬の沈黙にむず痒さを覚えアギラールは水を一気に煽った。こつ、と杯が机を打つ音がした。あ、とマリンチェが声を上げ、こちらを見た。

「アギラールは行くの?」

「私は」

「おいこら。俺だけじゃ不満か」

 コルテスの言葉にマリンチェはぱちくりと瞬いて軽く首を傾げた。

「だって二人だけじゃ、貴方鬱陶しそうだもの」

 ――吹き出しそうになるのを、アギラールはなんとか堪えた。手のひらで口を覆いながら、マリンチェに告げた。

「……共に行こう」

 マリンチェが満足そうに微笑んだ。その顔をなんとなく直視できなくて、アギラールは視線を外した。

 出発は深夜になった。寝静まったテノチティトランの街並みをゆっくりと歩いて行く。どこの家も、息を殺したようになっている。朝が来ないかもしれないという怯えが、どうしてもあるのだろう。マリンチェですら、少々表情は固い。時折、ちらりとアシャヤカトルの宮殿に視線をやっていた。コルテスが目ざとくそれを指摘する。

「どうした」

「いえ。――テクイチポ様がどう思うかしら、と思って」

「モクテスマの娘か。仲が良いのか?」

「……少しね」

 仲は良いだろう。この数日の間でも、何度か彼女の口からその名前は出ている。ショコラトルを持ってきてくれたのだ、といつだったか話は聞いた。しかしどうもこの様子ではアギラールには話しているがコルテスには話していないのだろう。なぜか少し、優越感に似た思いが浮かんでアギラールは頭を振った。

 着いた場所は大神殿だった。コルテスが無造作に階段を上がっていく。アギラールも続こうとして、ふと思い出して振り返った。案の定、マリンチェは戸惑うような表情で神殿を見上げている。彼女はタバスコでも、上がって来なかった。それはメヒコの民としての本能に似たものなのだろう。

「おう、どうした。怖気づいたか」

 からかうように笑い、コルテスが手を差し伸べた。マリンチェは無言で睨み上げた。彼女の中ではまだ、チョルーラの一件が響いているのかと思えた。コルテスに対して不信感があるのか。アギラールはそっと手を差し出した。

「大丈夫だ」

 コルテスが皮肉な笑みを浮かべる気配が横からしたが、アギラールは無視をすることにした。マリンチェは少しだけ戸惑うような表情を見せてから、こちらの手をとった。少し、安堵する。握りこむと、柔らかい感触が伝わってきた。少し、震えている。チョルーラを思い出した。あの時も彼女の手は震えていた。強く握ると、震えは収まる。

 マリンチェが怯えないように、ゆっくりと階段を登っていった。最初の時は登ってこない彼女を軽蔑したことを思い出す。口だけ威勢のいいことを言って、行動は出来ないのかと呆れたのだ。だが、こうして長いこと生活を共にしていると判ってくる。気高さも強さも彼女は持っている。だがそれでもなお、少女でしかない。それだけのことだ。

 頂上まで登ると、それまで息を止めていたのかマリンチェがはっと大きく息をついた。座り込む。

「ああ……テノチティトランが一望できるわ」

 彼女が夢を見ているかのような口調で呟く。水路を渡る風が吹き上がる。背後には、血に汚れた台がある。だが今日はそこに血は捧げられていない。

 そして彼女は東の空が見あげて口を閉ざした。コルテスが無言でプルケ酒を寄越してきた。暖を取るためだろう。アギラールも一口飲んだが、マリンチェはそれを断った。凍えるだろうに、と思ったがその気持ちも理解は出来たのでアギラールは黙っていた。コルテスが無造作に外套を脱いで放り投げる。マリンチェは少々煩わしそうな顔をしたが、黙って受け取った。

 時が過ぎていく。

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