おまけ

「監禁」


 巨大な箱の内側のような、四角く削り取っただけの何もない部屋だった。


 埃の積もった四角の隅で薄い布に包まっていた私は、意識の覚醒と同時にガバと体を起こし、ただ呆然と部屋を眺めたのだった。


 窓もなくセメントの壁が三方を囲み、残り一面には、妙にゴツゴツとした金属製の扉が付いている。その扉は本来の役目を放棄するかの如く、開けようとする者を威嚇しながら、そこに鎮座している。

 天井には、豆電球が一つ。光に元気がなく、まるで大きな目玉が微睡んでいるかのように、チカチカと点いたり消えたりを繰り返していた。

 他には何も無い。壁と同じ灰色の床には私と、私を包む布以外、何も転がっていない。


 混乱である。髪の毛一本一本が逆立ち、地が揺れたかと感じるほどの驚嘆である。

 私はどうしてこんな部屋で寝転がっているのか。全くもって意味がわからなかった。

 理解できない混沌カオスが冷水に浸かった時のように体に浸透し、身を震わせた。

 そしてなによりも驚き、困惑し、恐ろしかったのは、この見知らぬ部屋に放り込まれた私は、私の記憶というものの一切を思い出せないでいる事だった。


 私は一体どんな顔をしていて、どんな声をしていて、何と呼ばれていて、何をしている人間なのか、その全てが脳から抜け落ちて、欠けてしまっている。

 現在、私を私足らしめているのは、混沌に翻弄されるこの思考と震える体のみで、ともすれば赤子のように泣きわめいてしまいたくなる。

 いや、まさに。まさに私は赤子と同じ心境に至っているのだ。何も知らない世界に突然産み落とされた赤子と同じ……。

 ただ産声を上げない理由は一つ。視界に映る私の手足といったものが、不健康そうでギスギスと骨張った、頼りない老人のそれであった為に、私は「記憶を失くした人間」であると、空の頭にポッカリと理解が浮かんだからであった。


 私はズルズルと細い体を持ち上げ、まるでそうしなければいけないのだと誰かに責め立てられたかのように、焦り、鼓動を早めつつ、扉に近づいた。そして案の定、硬く入り口を閉ざしている扉の表面を、丸めた拳で叩いた。


 ドン……、ドンドン……。反応は無い。


 扉を叩けば叩くほど、頭の右側面に鈍い痛みが走る。自然と痛みの走った箇所へと手を伸ばし、そこにきてやっと、頭に傷を負っている事に気付いた。

 カサリと血の塊の付いた髪の毛の下にブヨブヨとした感触がある。まるで虫の幼虫の背を撫でるかのような感触である。骨と皮の間に血が溜まり、それが出口を求めて一箇所に集まってしまっている。


 怪我を自覚した瞬間、体に微かに残っていた元気というものがすっかりと抜け落ちてしまって、私は扉を叩くのをやめてヨロヨロと後ずさり、扉の真向かいの壁に背中が付いたと同時、そのままグラリと尻をついた。


 私は……。

 私はどこかに閉じ込められている。

 自分の事すらなにもわからず、頭に傷を負った理由もわからず、ただ四角いだけのこの部屋に閉じ込められている。


 頭の先から冷たい絶望がスウと降りてきた。目が霞む。息が荒くなる。

「……オーイ……オーイ!」

 本当に声が出ているか確認するように喉元を触りながら、私は扉の向こうに呼び掛けた。呼び掛けずにはいられなかった。誰でもよいからこの状況を説明して欲しかった。


 頭に響く私の産声は、低くしわがれていてとても耳障りだった。。



 

 カタン……。

 七度目の声を発しようとしたその時、前方から微かな音が聞こえた。

 扉をよくよく見ると、中心から少し下、腰の高さあたりに丁度郵便受けの差入れ口のような蓋付きの穴が開いている。その蓋が音を立ててゆっくりと動いたのだ。


 私はハッとした。開いた穴の向こうから誰かがこちらを見ている。一目見てそれとわかるほどに憎々しい視線をこちらに投げかけている。

 声を発するでもなく、なにか合図をする訳でもなく、ただジッと私を睨みつけているのだ。


 私はその目玉に向かって何かを言おうと口を開いたが、混乱した思考が喉元で絡まりうまく言葉を発する事が出来ず、ただ「アア……アア……」と呻いた。

 そんな私を蔑むように、目玉は少し細まり、そしてゆっくりと遠ざかると同時に蓋を閉めた。

 慌てて四つん這いの姿勢で扉に近づく。肉の少ない膝が悲鳴を上げたがそんな事は気にしていられなかった。

 縋り付くように目玉が消えた箇所を指で探るが、穴についた蓋はこちら側からは開けない仕様なのか如何ともし難い。

「オ……オーイ! そこにいるんだろう! 出してくれ! 説明してくれ!――」

 私は扉の向こうにいるであろう目玉の持ち主に思いつく限りの言葉を投げかけた。どうして閉じ込められているのか。ここは何処なのか。私は誰なのか。あなたは誰なのか。何でも良いから答えと呼べるものが欲しかった。

 しかし、返事は無い。


 またスルスルと絶望という帳が思考を覆っていく。私はハアハアと呼吸を小刻みに繰り返し、まるでこの四角い部屋の空気という空気が何処かへと抜け出していくかのような、体内に流れる血という血が流れ出してしまうような、絶対的な恐怖というものを感じていた。


 扉の向こうから声が聞こえたのは、唾を飲み込もうとググと息を止めた時だった。


「残り三十分しかありません!」


 女性の声だ。その響きにはただ時間の経過を知らせるという以上のニュアンスが含まれていて、際の苛立ちのようなものも含まれている。

 誰に向けた言葉なのか?

 きっと目玉の持ち主にだろう。現に扉の近くから僅かに足音が聞こえ、催促する人間の元へ歩みを進める気配を感じた。

 つまり、私を閉じ込めた人間というのは二人以上いて、なにか時間に追われているということなのか。


「オイ! 出してくれ! オイ! オイ!」

 いよいよもって私は狂いかねない焦燥を感じ、扉に掌を何度も叩きつけ、扉の向こうへと呼び掛けた。

 直感とでもいおうか。もしこのまま目玉の持ち主と時間を発した女性がこの場所から去ったなら、もう二度とこの場に来る者はなく、私は永久にここから出ることが叶わないのではないか。そんな残酷な予感が体をザワつかせた。

「オイ! 頼む! 出してくれ! せめて説明してくれ!」


 これ程の恐怖があるだろうか。「何もわからない」という、ただその事実をひたすらに恐ろしく感じる事があるだろうか。ここがどこかわからない。閉じ込められた理由がわからない。自分が誰であるかわからない。扉を開ける人間が現れるのかわからない。

 このまま閉じ込められたままなら、きっと私は近いうちに餓死するか、頭の傷が原因で死ぬか、衰弱して死ぬのだろう。しかし、衰弱する前に、頭の傷が致命的になる前に、飢えが限界を迎える前に、私は「無知」であるという事実に狂い死んでしまうだろう。


 扉に叩きつける手が壊れる程、叫ぶ口から喉仏が飛び出してしまいそうになる程、私は扉の向こうにいる誰かに懇願し続けたが、結局、なにも答えが返ってくることもなく気配が消えた。


 アアア……アアア……。




 ◇


 が記憶障害を患った事は、わたしたちにとってチャンスだった。

 どうにか男の記憶が飛んでいる間に言いくるめて、扉の鍵を開けさせ、逆に閉じ込めてやる事に成功したのだった。

 数年にも及ぶ監禁生活によってわたしたちは酷く衰弱していたけれど、無事に外界との連絡を取る事ができた。警察へも自ら通報し、後は救出隊の到着を待つだけ。

 ここは本島から離れた小さな島であり、島の駐在だけでは対応できない為にヘリと船がこちらへと向かっているらしい。

 ろくに服も着せてもらえなかったわたしたちには分厚い毛布と温かい飲み物が配られ、そして、負担にならないようポツリポツリと説明を求められた。

 ある日突然何もわからぬまま誘拐された事。何年にもわたって監禁された事。数ヶ月に一度、監禁される人が増えた事。そして、死んだ娘もいる事。

 わたしたちは口を揃えて「犯人は逃げた」と説明した。数人が抵抗し、それを抑えられないとみるや、どこかへと逃げたと。


 しかし、それは嘘だ。


 わたしたちが閉じ込められていた場所というのは地下室だったのだけれど、ただの地下室ではなく、一見しただけじゃただの倉庫に見える地下室のさらに下にあったのだ。入り口は巧妙に隠されていて、防音までしっかりと為されている。見つける事は困難だろう。

 そこに、あの男を閉じ込めた。

 その後、作業時間をニ時間と取り決めて(脱出時からあまりに時間が離れると事情説明で齟齬が生まれるかもしれないと思ったからだ)、わたしたちは「わたしたちが監禁されていた場所」を偽装した。

 衰弱した体にはキツい仕事だったけれど、上手くできた自信はあった。

 途中、憎いあの男がどんな心境でいるか顔を見てやろうと覗きに行ったのだけれど、四角い穴から見たあの男はまだ記憶が飛んでいて呆けた表情をしていた為にどうでも良くなった。

 扉を叩く音にも、叫ぶ声にも、反応はしなかった。


 絶望に浸りながら死んでくれることを、ただただ、望んでいた。

 


 

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