亡者に寄せて 壱

「五階までは行きませんか」


 と言うのが編輯へんしゅうの提案であった。成る程、十進数の点でキリの良い数字でもあるし、高見君冴子嬢はかつて七階層まで到達したと聞く。守りの面でも安心な範疇であろう。


 当連載の開始せる頃は暴れて嫌がったであろうが、正直なところ、現在の私は探索の苦労の中に何とも言えぬ楽しみを見出す様になっていた。好きとは言わぬが、とっくに嫌い一辺倒とは言えなくなっていたのである。


 我々はごく良い速度で三階層へと到達した。あと二階か、と思うと何とも名残惜しさが募る思いであったが、ここでへこへこと、ええ、もう終わりで御座いますか、もう三階五階と下ってもよろしゅう御座いますよ、などとへり下っては余計な惨事を招く事も了承している。毅然たる態度が肝要であり、私はその様にした。


 暴れて嫌がり、ここで仕舞いにすべきであったと後悔をするまでには、そう長くは掛からなかった。




 迷宮は概してかび臭く、空気が湿っており、嫌な臭いも漂って来る物であるが、四階層は事にそれが酷かった。薄っすらと漂う、夏場の腐肉の臭いである。


 階段を下りる途中、冴子嬢は布で鼻口を覆った。玲瓏れいろうたる美貌が隠されるようで少々勿体無さを感じたのであるが、徐々に強まる臭いには私も閉口した。直ぐに吐き気が出ると言うほどでも無いが、あまり長く吸っていたい空気でも無い。高見君もやがて懐より布を取り出し、私にも一枚分けてくれた。豆絞まめしぼりの手拭いである。何とも締まらないが、臭い避けには有難い。使わせて頂いた。


「この先に何が出るのか、当てて見せようか」

「先生、わかりますか」

屍人ゾンビ食屍鬼グールの手合いだろう。嫌になる空気だ」

「それだけなら良いですが、厄介なのは幽霊ゴーストです」


 どれも不死者アンデッドと呼ばれる種類の怪物モンスターである。寡聞にして私は、外の世界で死体が立ち上がり蘇った等と言う話を三文小説以外では知らぬ。して見ると、この迷宮では外とどこか異なる法則が働いてでもいるのかも知れぬ。魔法も然り。その例とでも言う様に、四階層に着くと高見君は何やら小瓶を取り出して、中の透明な液体で己の剣を清め始めた。


 聖水であると言う。属性付与エンチャントの類だ。


 高野山から取り寄せた貴重品ですよ。高見君が言うので、私はてっきり冗談かと思い笑いかけたのだが、冴子嬢が呆れ顔で、近くのお寺で十分なのに、この人はげんを担ぎたがるんです、と続ける。私はコッソリと口をつぐんだ。日の本には日の本の信仰があり、聖水があると言う事らしい。しかし高野山とは恐れ入った。


 さて、警戒しながら暫く進み、私はこの階層に違和感を覚えていた。上の階層にはしばしば、怪物とは言えぬ大きさ強さの生き物——鼠や蝙蝠こうもりや虫けら等を多く見かけていたのだが、この階にはそう言った物の姿も音も無い。しんと静まり返った中に、ごく遠くから何かのうめき声のみが響く。


 屍人ゾンビ食屍鬼グール幽霊ゴースト。この地に巣食うと言う怪物モンスターと照らし合わせ、私は不気味な結論に達しつつあった。迷宮内で倒れた死体は、他の怪物や様々な獣に食われ、残りは朽ちて行くか、骨人スケルトンになって蘇る。然し、この階層ではその蘇りがもっと早く起こるのではないか。生き物の見えぬここでは、死体は肉の残ったまま——。


 ぺたり、と言おうか、ぐちゃり、と書こうか、足音が聞こえた。先の角からである。私はメイスを構える。高見君が剣を抜いた。


 緩慢な速度で、腐り溶けた人の顔が壁の向こうより覗いた。


 流石の高見君は、動作が速かった。稲妻の如く大股で走り寄り、剣で屍人ゾンビの首を刎ねた。何か焼け焦げた様な音がして、首を失くした胴体は数歩蹌踉よろめき、やがてたおれた。通常であれば、胴体は起き上がりまた我らを襲うであろうと言う事は知っている。聖属性ホーリー付与エンチャントが、くも覿面てきめんであるとは。私は、自分の愛槌メイスにも借りれば良かったと思う。貴重品であるからには、量が足りなかったのであろうが。


「急ぎましょう。付与エンチャントはあまり長くは続かないのです」


 我らは頷き、彼に続いた。


 その後も不死者アンデッドはゾロゾロと現れ、我らを妨げた。その数は恐るべき物で、この階層が実に厳しいものである事を伺わせた。これが全て、ここで死を遂げた者たちなのである。冴子嬢の火球ファイアボールが飛び、高見君の剣が唸り、私も申し訳ばかりに骨人スケルトンを砕いた。やがて冴子嬢はフラフラと疲れを見せ、高見君の剣の斬れ味も鈍り出し、私も腰に疲労が溜まって来た辺りで、我々三人は祈りの部屋に転がり込んだ。そこでである。


 珍事と言うのはあるものだ。私は初めて、祈りの部屋で我々以外の探索者と出会ったのだ。


 私と同年代ででもあろうか、厳しい顔をした男性である。特筆すべきは服装で、天狗の如き墨染の衣を纏った——修験者プリーストであった。


 これはどうも、先に失礼をば。修験者プリーストは礼儀正しく頭を下げる。こちらも新参の身であるので、丁寧に礼をした。彼はこちらをいぶかしげに眺める。


「違っていれば申し訳ありませんが、飯田逢山おうざん先生ではありませんか」


 突然名前を呼ばれ、私は言葉に詰まって仕舞った。ええ、はい、そうですが、等と上擦うわずった声で答えた記憶が残っている。


「これはこれは。矢張りそうでしたか。拙僧、先生の文を楽しんで拝読しております。お写真を拝見した事がありましたし、職業探索者と言う様子でもありませんでしたから、それで」


 私はどっと汗の吹き出る思いであった。この文が実際専門家プロの目にどの様に映っているか、それは実に不安なところであったからだ。冴子嬢には良く感想を頂くが、時に辛辣な物も含まれている。高見君は読んでいるやらいないやら、良くわからない。


「そうですか、有難う」

「あのタートルは中々苦労をしますよな。いやお会いできて光栄です」


 感想を頂けるのは心底有難い事なのであるが、実際に耳にするとわっと聞こえない様ふさぎたくなって仕舞うのは、あれはどの様な心の動きであろうか。詰まらぬ自尊か、恥の気持ちか。


 この階は中々大変でしょう、と修験者プリースト……英山坊えいざんぼうと名乗った彼は、親しげに話しかけて来た。初め警戒していた高見君もやがて打ち解け、一度は踏破した場所ですが、中々どうして苦労をしています、と語る。


 何でも英山坊殿はこの階層に限ってほぼ単独で徘徊をしていると言う、珍しいタイプの探索者なのだそうである。


「ここは死体が多すぎますからな。聖水で清めても、やがてまた蘇って仕舞う。それをさらに輪廻りんねの輪に返してやるのが、拙僧の仕事です」


 先の屍人ゾンビも、やがてまた元に戻ると言うのか。震え上がる程に恐ろしい事を言う。


「もし差し支えなければ、この後しばらく同行させては頂けませんか。流石さすがにひとりよりは大勢の方が安心だ。特段、用心棒料は要りません」


 高見君は冴子嬢と何やらヒソヒソと話していたが、やがてうなずく。


「構いません。こちらも渡りに船です」


 くして我らは死の臭い芬芬ふんぷんたる四階層を旅する事となったのである。続きはまだ無い。紙面が尽きて仕舞ったからである。それもこれもあの難行ばかり持ってくる編輯が悪い、困らせて仕舞え、とお決まりの悪口を書いて一先ずの締めとする。それとも、講談風にこうして引いて見せた方が良いだろうか。


 さて、ここに我ら歴戦の戦士四人は集えり、続きは如何なる苦難困難が待ち構えていようぞ、と。続きは私の原稿が仕上がり次第である。座して待ち給え。

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