逢山先生遁走録

 げると言う事に関しては私など得意中の得意、天賦の才の持ち主と言って過言では無い。現在にいてはもっぱらその対象は編輯へんしゅうであり、家内を盾にしてはスイスイと遁げ隠れ、見事捕まってはこの様に原稿を書く羽目になる。


 私が遁走とんそうの専門家であるならば、編輯は捕獲の専門家である。どうやら今ではだ私の方が分が悪いようである。彼の嗅覚は狐狸こりの如く鋭い。


 くして私は釣り堀の隅でささやかな安寧を得て居た筈が、何故かやって来た編輯の手により三度四度と迷宮ダンジョン体験へと叩き込まれるのであった。




 二階層もほぼぐるりと回る事が出来るようになり、私はいささか有頂天となって居た。何、実際のところは戦う高見君冴子嬢の後ろに隠れ、小さく震えてばかりいたのだが、同時に段々とふたりの邪魔をせぬ法と言う物を会得しつつあったのだ。


 兎に角武器を構えながら後ろに下がり、出来れば遮蔽物しゃへいぶつの陰に隠れ、かつふたりより離れ過ぎぬ様気を配り、余裕があれば背後を見張る。この呼吸が肝要である。そうして、弱った怪物や攻撃を漏れた個体をメイスってしたたかに殴りつけるのである。メイスの重みにたたらを踏む事も無くなった。私は豆の茎の如く成長している、とやや得意顔をし出した頃の事であった。


 さて、三階層はこれ迄と少々勝手が違います、と高見君が改めて切り出した。何が違うのか、また違う種類の怪物が出るのか、と話を聞くと、まず先生は駆け比べは如何いかがですか、お得意ですか、と問われる。


「馬鹿にして貰っては困るね君。中学校の頃は運動会では常に首位を獲っていたともさ」

「それは何よりです」

「後ろから数えてだがね」


 冴子嬢が肩を震わせ、高見君は曖昧な笑みを返してくれた。実に心根の温かな青年である。


「次の階は、敵性の物は少ないですが、厄介な大物が出ます」


 亀です。高見君は真面目な顔をした。


 私の中では、亀と言うとモシモシ亀ヨの亀さんである。幼少のみぎりには小さな銭亀を飼って、知らぬ間に逃げられた事もある。あまり切実な響きのしない生き物である事は確かだ。


 彼が言うにはこうだ。三階層には大きな水場が存在し、そこには主が如き大亀タートルが潜っている。そうして物音が近づくとざぶりと現れては追って喰らいに来ると言うのだ。


「水から出れば、それは、恐れる程速くはありません。だが、水場の側を通る分には危ない。陸に誘導しますから、出来る限り速く我々に付いて来て頂きたい。倒すなどとは考えない様に」


 亀の甲羅は勿論、皮膚ですらもごく硬く、剣を通さぬらしい。改めて生命の危機を感ずる事おびただしい。冴子嬢が励ますように、兎に角陸に走ればどうにでもなりますから、と言ってくれた。私はどうにか、彼女謹製の地図を頭に叩き込む。


 そうして、さあオーガでもナーガでも出て来るが良い、我は遁走の達人なるぞ、と半ば自棄になり階段を降りると、そこには確かに深い水をたたえた清浄なる大池があった。向こう岸はごく遠い。水は松明たいまつの灯にチラチラと揺れ、浮き蓮の如き白い花すら咲く。地下にも浄土に似た光景は在るものよと見惚れる間も無く、黒い影が水底に見えた。


 近い、急ぎます。高見君が言うや否や、二人は水場を横切る様な通路を走り出した。私も一呼吸遅れて追う。高見君は流石さすが、頑丈なる鎖帷子チェインメイルを物ともせず素早く駆けて行く。せめて見逃すまいとさらに足を速めた瞬間の事であった。


 背後で水が爆発するかの様な音が立った。革鎧レザーアーマー飛沫しぶきがひとつふたつ、染みを作る。そうして何か巨大なる物の息遣いが迷宮の空気を震わす。嗚呼、亀である。大亀タートルである。私は視野の端に辛うじてその姿を捉えた。


 何が亀さんか。何が銭亀か。醜悪に膨れた緑の顔。肉に埋もれる様に、しか爛々らんらんと輝く貪欲な瞳の恐ろしさ! 口中にはぬらぬらと濡れた牙すらのぞいた。私は只管ひたすらに走った。あの牙に掛かっては、私の鈍重なる脚など直ぐにぽきぽきと飴細工の如く圧し折られて仕舞うのに相違無かった。


 こちらです、と冴子嬢が私の腕を引く。通路を過ぎればやがて水場を離れ、広い陸地に辿り着く。そこまで来れば亀の動きは鈍り、更に狭い場所まで行けばあの図体が通る事は叶わぬ、と言う訳だ。


 私は渾身の力を込めて走り抜け、やがて壁のある安全なる地帯に辿り着いた。陸の半ばまで上がった亀が獲物の姿を見失い、緩慢に辺りを見回していた。大きな安堵の息が漏れる。同時に編輯への恨みの言葉も幾つか漏れた気もする。


 どうやら迷宮内にはあの様な、倒すには余りに巨大で厄介な怪物も存在するらしい。私は遁走の専門家であるが、出来る事なれば全力の疾走は遠慮をしたい物である。




 さて、そこからが少々愉快であった。亀から遠ざかると、高見君が背嚢ザックより取り出したるは釣竿である。先とは別の水際に胡座あぐらし、そこらの虫を餌にすると悠々釣りを始めた。何でも、ここの魚は焼くと美味なのだと言う。私も竿を借り、何匹か釣らせて貰った。


 見ると近くの地面には黒く焦げた火の跡が見える。どうやらこの釣り場は、大怪物ヒュージモンスターより逃げ果せた探索者達の、定番たる娯楽の場であるらしかった。息詰まる地下探索の合間、小さな休息を得る。また楽シカラズヤ、と孔子等は言うだろうか。


 魚は、鮎に似て身が締まり淡白で、塩の味が良く似合った。




 モシモシ亀ヨの亀さんは、あれはどうにか兎に勝つ位であったから、陸に暮らす亀であったのかも知れない。例の巨大亀は、玳瑁たいまいとは行かぬものの、水中での生息がより得意であるように思えた。あれが陸亀であったらどうなっていたかと考えると、肝が冷えるばかりである。


 迷宮で魚を釣り上げてからは、何だか釣り堀でも掛かりが良くなった様に思える。スキルが増えたのでもあろうか。私は今日も糸を垂らし、時折ますだの岩魚いわなだのを釣り上げては得意顔をするのである。


 だが、やがて、またもや嗅ぎつけられたか編輯が水場をやって来て、太公望は廃業を余儀無くされる。私は遁走の専門家であるが、彼の手から逃げ果せた事は、いまだ唯の一度も無い。

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