羽化

「ここでやっちゃって大丈夫かな? あいつがバシャってジャンプしてきて、わたしたちパクっと食べられたりしない?」

 格子の上から水底の魚を見下ろし、彼女は声を不安げに呟く。

「平気よ。水面から結構距離あるし、そこまでの跳躍力はない。何より、蓋されてるんだもの」

 あたしの声も震えているのは、怖いからじゃない。

 お腹の奥の方から、火照りと疼きが広がってきて、落ち着かないからだ。

 もうここでやるしかない。

 身体が、抑えられない。

「ぐちゃぐちゃ言ってないで、さっさと終わらせるしかないでしょ!」

 窓の外、空が白み始めている。

 人間が動き出すタイミングでまだ準備完了してなかったら、潰されてしまうかも知れない。

 それでなくても、あたしたちには時間がない。

「う、うん」

 きつめに言うと彼女もしゅんと頷き、あたしと同じように格子にしがみついた。

「……ん……っ!」

 身体を強張らせ、下腹に力を入れる。

 背筋をゾクゾクしたパルスが走り、内側にため込まれていたものが溢れ出しそうになる。

 あたしは今、おとなになる。

 羽化だ。

 同じかたちで少しずつ大きくなる幼虫時代の脱皮とは違う。

 水の中で泳ぐのではなく、空を飛ぶものへと生まれ変わる決定的で絶対的な変質。

 背中が、裂けた。

 押さえつけられていた翅が背中から溢れ出し、広がり、脈が固まってピンと張られていく。

 根元が、むずむずする。

 今まで備わっていなかった器官なのに、自分の身体の一部だって実感できるのは変な感じだった。

 身を捩り、腕を伸ばし、背を反らす。

 柔らかい身体が、殻からはみ出す。

 そうだ。これは、もう「殻」だ。あたしの肉体じゃない。

 上半身が抜ける。

 何度も経験しているはずなのに、これまでとは比べ物にならない違和感と開放感。

 はぁ、はぁ、はぁ。

 自分の粗い息づかいが耳障りだ。

 もう異物になってしまった殻を掴む。貧相な細い脚は、あっさり抜けた。

 力を抜き、抜け殻の上に身体を投げ出す。

 まだ身体が熱い。

 下腹の内側でどろどろの蜜がねっとり渦巻いてるみたいだ。

 欲しい……。

 欲しいっ!

 欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。

 ヤリたい、ヤリたい、ヤリたい 、ヤリたい、ヤリたい、ヤリたい、ヤリたい!

「わぁーっ!」

 絶叫する。

 頭をブンブン振って、湧き上がってくるねっとりと生暖かい衝動を振り払う。

 あたしは、こうなるのが嫌だった。怖かった。

 羽化してしまえば、身体そのものが「セックスして子供を残す」という唯一の目的のために動く道具になってしまう。

 もう食事すらできない。

 ただの、本能と遺伝子を運ぶ乗り物。

「あたし」という存在は、そこには残らない。

 になってしまうくらいなら、子供のまま--あたしのまま終わってしまいたかった。

 ましてここは、故郷を遠く離れたどことも知れない人間の家だ。

 変わったところで本能サマの願いが叶うとは限らないのに。

 今の段階でコレならが来たら、どうなってしまうのか。

 それでも、あたしはあたしでいられるの?

「大丈夫?」

 心配する声がかかった。

 隣を見る。

 羽化した彼女が、そこにいた。

 子供の頃と同じ。腰回りがきゅっと引き締まって、お尻はほどよい肉付きで膨らんでる。

 いかにも男ウケしそうで、健康な子供を残せそうな身体。

「……何でもないわ」

「よかったぁ。急に大きな声出すから、びっくりしちゃった」

「ちょっとイラついただけよ」

 大声を出したからか、少し頭がすっきりした。

 少なくとも、桃色の靄でいっぱいなんて状態じゃなくなった。

 下半身の疼きが完全に収まった訳じゃないけど。

「綺麗だね」

「……何が?」

「あなたが」

 何をバカな事言ってるの、この娘は?

 綺麗っていうのは、そっちみたいな姿を言うんじゃないの?

「腕も脚もすらっとしてて、顔だってキリっとカッコいいよ。わたしが男の子だったら絶対放っておかない」

「……お世辞ありがとう。そんな事言わなくても、ちゃんとあなたの面倒は見るから安心して」

「お世辞じゃないよぉ」

 つんと尖らせた口唇くちびるもぷっくらかたちよくて、やっぱり男ウケしそうだった。

「でも、羽化って気持ちいいねー。実感してなかったけど、今までで窮屈なのに気づかなかったって感じ。なんかこう、気持ちいいのが奥の方から湧き上がってくるっていうか」

 笑顔でお腹のあたりをなで回す。

 あたしにとっては忌まわしい刻印である衝動も、本能をありのままに受け入れてる彼女にとっては心地よい期待になのか。

 彼女の悦びは、あたしにはわからない。

 あたしの焦燥は、彼女には伝わらない。

 どうしようもなく隔てられた、別々の肉体。

「早くみんなのところへ行きたいね」

「駄目よ」

 声を弾ませる彼女に、冷や水を浴びせる。

「まだ翅がちゃんと乾いてないから飛べないわ。身体が落ち着くのを待って、夜が明けたらチャンスを見てすぐ外へ出るの」

「うん。そうする。やっぱりあなた、頼りになるね」

 頼りになんかなるか、バカ。

 ようやく立ち上がっても今までとは違う細い脚はふらつくし、まだ整わない翅はただの重荷だ。自分ひとり分だって面倒見きれない、不確かな肉体。

 それでも、この子を見捨てない。

 本能の命令じゃなく理性の判断に従って決めた事を放り出したら、あたしがあたしだという根拠がなくなってしまう。

 歯を食いしばってよろよろ歩き出したあたしの後ろを、彼女はにこにこ嬉しそうについてきた。

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