指先
脱皮のおかげで、元々の身体能力の差は逆転した。
前よりもペースアップして、あたしの方が少しリードする形で、流れを辿って飛んでいく。
人間の家は徐々に疎らになり、コンクリート製の人工の水路から、自然の本流へ。あたしたちとは別種だけど、水棲の虫がちらほら目につく。
よかった。
あたしの判断は間違ってない。
こっちの方角で、きっと仲間たちに会える。
けど、油断は禁物だ。
生き物が多い環境、あたしたちが本来生きる環境という事は、あたしたちを捕食する敵も多いって事なんだから。
「ちょ、ちょっと待って~」
彼女の声に、あたしは振り返った。
「わたしも……そろそろ始まりそう」
亜成虫からの最後の脱皮。
「わかった。ちょっと待って」
あたしは周囲を見回した。
この娘の好きに任せたら、場所取りだってちゃんとできるかどうかわからない。
幸い、近くの民家に頑丈そうなブロック塀が見つかった。風通しと装飾を兼ねたすかし穴がある。
あたしたちにとっては充分な広さだし、クモの巣なんかも張ってない。天然の草木に比べれば、外敵が近寄ってくるリスクは小さいはず。
「行くよ」
彼女の手を引いて飛び、菱形の穴に滑り込む。
「……なんかでこぼこしてて嫌な感じ。暗くて固くて冷たいし」
「安全第一。ここの方が襲われにくいはずよ」
あたしたちにとっては充分なスペースでも、大きな捕食者は簡単には入ってこられない。
「はぁい……」
ぼやくけれど、もう身体の具合がのっぴきならないんだろう。彼女は大人しく四つん這いの姿勢を取って静止した。
いわばここはちょっとした部屋だ。枝や茎に止まるよりは、安定しやすい。
それにしても、こういうポーズだと背筋とか脚の線とか綺麗だな。
完全におとなになってしまったあたしより、この時点で何倍も色っぽくて、それでいて無邪気な愛嬌もある。
ホント、女としては最強だな、こいつは。
「ね?」
「何よ?」
「動けない間に、わたしを置いてかないでね」
不安そうな声が訴える。
「……そんな事、するはずないでしょ。あたしの時だって、ちゃんと待ってもらったんだし」
「だってわたしと違って、あなたはひとりでも何でもできるし、道もわかるし、しっかりしてるし……」
「アホなのに、変なところで深刻にならないでっての」
溜息が零れる。
「アリの軍隊に襲われた時、あなたが訴えてくれなきゃ、あたしは動けないまま解体されて連中のご飯よ」
それだけじゃない。
水槽で目覚めた時、生きるのを諦めなかったのはひとりじゃなかったからだ。
彼女が一緒だからこそ、あたしはここまで飛んで来られた。
「……正直、あたしはあなたみたいに男とエッチしたいとか思わない。っていうかエッチしたいって欲求にただ従うのは嫌。けど、あなたがそうしたいって言うから手伝うし、最後までつきあう。自分だけ飛んでいく意味なんて、最初からないの」
「……それってよくわからないんだよね」
「何が?」
「エッチしたくないっていうの」
「またそれ? それしか頭にないの?」
「それだけじゃないよぉ。あなたの事も気になる。エッチできない相手だけど」
あたしは頭を抱えた。
結局エッチ最優先かよ!
「わたしたちってちゃんとエッチできるようになってるし、したいって考えるのが自然じゃない? どうして嫌がるのかなぁって思って」
変化が近いのか。彼女の声は吐息混じりで、妙に色っぽい。
「……本能の言いなりになるのが嫌なの。そんなの、別にあたしじゃなくても構わないんだもの」
これは、あたしの矜持だ。
だからこそ、彼女を見捨てない。
本能最優先なら、一刻も早くセックスしに出発するのが正しい。
あたしひとりでも道に迷ったりはしないんだから。
「……なんか、大変だね」
「放っといて。あたしが決めた事で、選んだ事だから」
「ダメって言ってるんじゃないよ。カッコいいって思ったの」
変化直前の上気した頬が、あたしを見てにっこり笑う。
素直で、明るくて、かわいい。
誰からも好かれる顔。
アリの時だって、この子が本心をさらけ出して訴えたから通じた。あたしが屁理屈を並べたところで和解はできなかったに違いない。
「エッチして、子供ができたら、あなたみたいなしっかりしてて頭よくてカッコいい子に育てたいなぁ」
「無理ね」
「そんな事ないよぉ。わたしだってきっと頑張れば……」
「そうじゃなくて、あたしたちには子供を教育するチャンスなんかないって事」
産卵したら、孵化する前にこっちはおさらばだ。
「あ、そっか。そうだよね。残念。ね。お願いがあるんだけど」
「何?」
いきなり話題が変わった。
「手、握って」
「……そんな事しなくたって、置いて逃げたりしないってば」
「そうじゃないよぉ。ただ、握っていたいの」
合理的な理由はない。
彼女の全ては、そうしたいっていうだけの事だ。
うずくまる彼女の手に手を重ね、そっと指と指を絡める。
向こうの力が、ほんの少し強まる。
「……ありがと」
「礼を言われるような事じゃないわ」
「……放さないでよ。ずっと握っててね?」
「しつこい」
あたしは彼女とは違う。
こんな事をしたのは、合理的な理由がある。
あるはずだ。きっとある。
そう。例えば、彼女が無駄にむずかったりしたら、その方が面倒だからだ。
「……じゃ」
小さな声でそういうと、彼女は目を閉じて黙り込んだ。
最後の変化を迎えた身体は熱くて、それでいて表面は固く乾いていく。
こんな間近で、外から脱皮を観察するのは初めての経験だった。
今、外側の表皮は少しずつ死んでいる。
死を脱ぎ捨て、過去を置き去りにして、あたしたちは生きる。
そして最後に残るのは、肉体のいちばん奥に残っている「次の命」だ。
本能に--生まれついて備わって脱ぎ捨てられないものに、抗おうとするあたしは、やはり愚かなのだろうか。
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