成熟

 堂々巡りの考えを一度棚に上げて、あたしは彼女の最後の脱皮を見つめていた。

 優美な曲線の背筋が静かに避け、まず翅が飛び出して、しわくちゃだったものがゆっくりと広がっていく。亜成虫の時よりもひとまわり大きくて、脈も複雑だ。

 次に華奢な肩がはみ出し、頭が抜ける。

「あうン……」

 艶っぽい溜息が、濡れた口唇くちびるの間から漏れた。

 基本的な造形は変わらないのに、脱皮前とは確かに違う。完全におとなになった、女の顔だ。

 自由な片手で、自分の顔かたちを撫でて見る。

 あたしは絶対に彼女ほど魅惑的なんかじゃない。

 本能を拒絶してるんだから、そこで劣等感を感じるのは不当なのに、どうしてこんな事が気になってしまうのか。

 もう片手--指を絡めている方から、不意に熱と力が消えた。

 彼女の腕が抜けて、抜け殻だけが残されたからだ。

 あたしが握っている手は、もう彼女の肉体じゃない。古くなって捨てられた、死の破片。

 背を反らせて上半身が抜け出し、殻の縁を掴んで脚も抜く。

 太股の張りも艶も、お尻の丸みもぐっと色っぽくなっていた。

 どすんっ!

 そのしなやかな肢体が、そのままそっくり返って尻餅を突く。

「んんっ!」

 声というか、変な音が飛び出したのは、脱皮直後でまだ上手く喋れないからだ。

 本来ならあたしの時みたいに縦の姿勢で、そのまま抜け殻に捉まって休むのだけど、ちょっとイレギュラーな体勢だったせいだ。

「ごめんね。あたしが、変なポーズ勧めたせいで」

 ぺたんと座り込んだままの彼女に両手を差し伸べ、引き上げる。

 仰向けに倒れたままだと、翅を傷めかねない。

「んむむ……っ! むんぐむー」

 苦笑しながら起き上がった彼女の、視線は抜け殻の手元に向けられている。

「ああ、もうっ! まだ声は辛いでしょ? 無理して喋らなくていいからっ! 約束破ったって言いたいんでしょ?」

 言いたい事を読み解くと、嬉しそうに目を細めて何度も頷く。

「仕方ないでしょ。抜け殻を無視して中身の手をずっと握ってる方法なんてあり得ないんだから!」

 両手を放して、あたしはぼやいた。

 既に空っぽの抜け殻は自然に潰れて、ぺしゃんこ。彼女の面影なんか残ってない。

 身体がそういう仕組みになってるんだから、こればっかりは工夫や努力や気持ちでどうにかできるもんじゃない。

 変化するもの同士が、ずっと手を握り合っているなんて無理。どうやっても。

 彼女の顔だって身体だって、さっきまでよりずっと大人びて、はっきりと別モノになっていた。

 その姿で立ち上がり、すぅっと大きく息を吸い込む。

 そろそろ言葉も出せるタイミングか。

 一度俯いて、顔を上げ、両手両脚両翅を思いっきり広げて--。

「せっくすーっ!」

 朗らかな咆吼に、あたしは頭を抱えてうずくまった。

「……どしたの?」

「第一声がそれかいっ!」

 頭痛い。

 比喩とかじゃなくて本気で。

「いやぁ。なんていうの? 終齢幼虫や亜成虫の時のもやもやっとした欲求不満と違って、絶対にエッチするぞっていう使命感っていうか、おとなの責任感? そういう感じなんだよね~。やる気満々ですっきり」

 にこにこ笑いながら、自分のまあるいお尻をパンパン平手で叩いたり、乳を軽く揺すったりする。

 その「やる気」は「ヤル気」でしょ。

「ね? あなたはそんな感じしないの? 先に脱皮してたんだから、経験者として教えてくれてもよかったのに」

「……欲求がクリアになった感じはするけど、そっちほど単純じゃないわよ」

 ふてくされ気味に答える。

 この娘が「経験者」なんていうと、何か別なニュアンスがこびりついてるみたいで、ちょっと嫌だ。

「そっかぁ。それぞれ違うんだねぇ」

 変わった身体を馴染ませようとしてるのか、体操しながら彼女は呟いた。

 違う--。

 そうか、違うんだ。

 どうしようもない本能サマはあたしにも彼女にも全部備わってて、いつでも生き方を押しつけてくる。

 けれど、彼女とあたしはやっぱり別々の存在だ。

 これって、あたしたちは単なる本能の奴隷じゃなく、ひとりひとり違うモノだって証になるんじゃないだろうか。

 あたしだけなら、わからなかった。

 自分じゃない誰かがいるからこそ、見る事も触る事もできない自分の内側を、反射像のようにうかがえる。

「……あのさ……」

 口唇が、小さくぎこちない声を紡いだ。

 あたしは、彼女に感謝するべきなんだろう。

 ここまで生き延びて、こんな風に考える事ができたのは、この娘がいたからだ。

「ん? どうしたの?」

「……別に、何でもない。そっちの体調が整ったら、すぐ出発するわよ! とにかくあたしたちには時間がないんだから」

「うん、そうだね。絶対に男の子たちと会って、ちゃんとセックスしないといけないんだから」

 彼女は胸元で拳を握りしめる。

 ありがとうとは、素直に言えなかった。

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