飢え


「もう大丈夫。行こう」

「本当?」

 彼女があたしの手を取り、コンクリブロックから出ようとする。

 ただ、見た限りまだ翅が張りきっていないんじゃないかって感じだ。

「平気だよ。時間ないって気にしてるのはあなたでしょ? あなたは従わないって拘ってるけど、わたしはわたしの気持ちとしてちゃんと男とエッチして子供を残したいって強く願ってる。ここでグズグズしてるのは嫌」

「そういうなら、行くわよ」

 手を繋いだままあたしたちは羽ばたき、離陸した。

 幸い追い風は続いている。

 上手く背を押される形で、滑らかに移動していく。

 まだ翅が万全じゃないのか。それとも完全な成虫おとなになると、それまでの体力差を継承しないのか。まだあたしが先導して、彼女が遅れて引っ張られる状態だ。

「ねぇ」

「何?」

 呼びかけられて、振り返る。

「放してもいいかな? これだけ近いと、翅が触れそうだし」

「あ! そ、そうだね」

 あたしは慌てて手を放した。

 意識してないけど、あたしの方がぎゅっと握りしめたままだった。

 本能とは別のレベルで、身体は勝手に動く。

 意思と理性で全部はコントロールできないし、理由もわからない。

 これはアレよ。

 えっと、その。そう、ただ解くのを忘れてただけだ。

「お腹、減ったねぇ~」

 しばらく飛んでいると、彼女がか細い声でぼやいた。

「我慢して」

 あたしは冷たく突き放す。

 こればっかりはどうしようもない。羽化した後のあたしたちには、何かを食べたり飲んだりする機能がそもそも備わっていないんだから。

 性欲はやたら高まるのに、食欲の方は解消する手段がない。子作りにだって体力は必要だろうに。

 自然っていうのは、あたしたちに不便を押しつける。

 そのくせ従う事が正しくて無駄がなくて合理的だとか、そういうクソッタレな「信仰」まで一緒にねじ込んでくる。

 それでも、今のあたしは懸命に翅を動かすしかない。

 自分のセックスのためじゃない。本能に素直な彼女を助けるのが、あたしなりの本能への抵抗。

 矛盾してる。

「ね……。少し、休も」

 また後ろから声が聞こえてきた。

 ペースを合わせて並んで飛んでたつもりだけど、考え事をしてたせいでつい彼女を置き去りにしそうになっていた。

「あ、ごめんね」

 エネルギーの補給ができない以上、休憩にさほどの効果は望めない。だけど、彼女がバテて動けなくなってもマズい。

 周囲を見回すと、そろそろ人家の密度も低くなっている。ここから先は本格的な山の中だ。

 捕食者が増えるのに備えるためも、ここらで小休止した方がいいかもしれない。

「OK。じゃあ、こっちに来て」

 彼女を先導して、一軒の家の生け垣に向かう。自家用か、生産用か。ちょっと趣味レベルじゃないサイズの畑がくっついた家。こういうところは敵も多いから用心しないと。

 枝葉が密生していて、大きな生き物が入って来られないような隙間に潜り込む。

「ふぅ~」

 ぺたんと座り込んだ彼女が、大きなため息を突く。

「ずっとご飯食べてないのは一緒なのに、ずいぶんそっちだけ疲れてるみたいね」

 まさか乳とかケツとかが重くて荷物って訳でもなかろうに。

「……えっとね。ほら、わたしは身ひとつじゃなくて大切な荷物を持ってるから」

 穏やかに目を伏せ、彼女は下腹をさすった。

「ここにね。愛が詰まってるんだよ。その重みを運んでるの」 

「そんなの、あたしも一緒よ」

 肉体が完成して、もうこどもを産む準備は整っている。お腹の奥の疼きやしこり、妙な違和感はあたしだって感じている。

 これは、あたしという一個体が生きていくためのパーツじゃない。余計なお荷物。

 それを、彼女は愛なんて呼ぶ。

 ふと気づいて、自己嫌悪に陥る。

 この娘の言葉に反発を感じるのは、あたし自身が「愛」を何か崇高で大切なものだって思ってるーー思おうとしているからだ。

 単なる本能の命令じゃない、価値ある「愛」が別にあるんだって、信じたがっている。

「あらぁ?」

「珍しい子たちがいるわね?」

 ぐるぐる巡る思考は、不意にかけられた妙に甘ったるい声で断ち切られた。


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